マエストロは300年後に起こして欲しい。

@blanetnoir

「叶うならば、」



男は柔和で静かな目元を笑みの形に緩ませながら


自身の夢を語った。


「私が作ったバイオリンの300年後の音を聴きたい。」




彼の手元には、彼が作ったバイオリンがある。


マエストロと呼ばれるこの男の手から作り出された楽器は、

時を経て使い込まれる程に成熟して、音が変わっていくのだという。




バイオリンの名器と名高いストラディバリウスも、

あれらは300年前の天才職人ストラディバリが生み出したバイオリンで、

その至高の音を奏でる世界に数える程しかない存在は人類の宝だと、

音楽界に身を置く人間なら誰もが知るところだろう。



楽器は、大切に使われれば人の人生よりも長く時を経て音を奏でていく。



マエストロはその楽器の特性を誰よりも理解している。



だからこそ、

自分が生きている間では到達し得ない、自身の作品の成長した姿を、

一瞬でも構わないから、聴くことができたら、と言って笑った。




自分が死ぬ直前に冷凍保存してもらって、300年後に起こしてもらって、


その音を聴くことができたら、その後は死んで構わないと笑った。




300年という時は、

どれほどの時間だろうか。




1720年は日本なら江戸時代で、イタリアのクレモナではちょうどストラディバリが生きていた。



私たちが今ストラディバリウスの音を聞いているのは、

マエストロが望む300年の時をかけて成熟したバイオリンの音だと気づいた。




もし、当時のストラディバリが、今私の目の前にいるマエストロと同じような夢をみて、自身の工房からバイオリン達を製造して世に送り出していたのならば。




( …あまりに長い時間だなぁ。)




気が遠くなるほどの時間の先に思いを馳せるなんてことをしたことがなかった私は、

想像を絶する未来に、自身が生んだ楽器が生きている姿を想像している。



なんて愛情だろう。



そして自身の仕事への誇りに胸が締め付けられる思いがした。





羨ましい。





自分が世を去ったあとも生き続ける作品を生み出せる男が。



「…もし、今度どこかでストラディバリとこの街ですれ違ったら、」



私は窓の外に目を向け、空を見つめる。



「きっとマエストロも300年後に一瞬でもこの街に戻って来れるんじゃないでしょうか。」




到底現実的でない夢に対して、からかいの返事をした訳ではない。

それは私自身も願ってしまうような夢で、私の願いを思いをそのまま言葉にしたのだ。



マエストロが愛しい我が子の成長した姿を一目でも見られるように、



もしストラディバリが、彼の街であり、マエストロが住むここクレモナで、今もいる可能性があるのなら、マエストロにも出来ない話じゃないと、本気で思ったから。




マエストロが私の言葉をどんな表情で聞いてくれたのかは、気恥しくてとても見れなかった。





私も、マエストロのような大切なライフワークに取り組めるように、


そして今この時代のこの街のどこかで、かの巨匠が彼ののこした作品たちの音を聴いていますように、




夢を胸に抱いて、マエストロの方にもう一度向き直った。

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