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@SO3H

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 買って以来着る機会を失っていたワンピースに袖を通す。顔には会社に行く時より丁寧にファンデーションを重ね、微睡のようなアイシャドウと、珊瑚のようなチークを乗せた。

マスクで隠れてしまうとしても、自分のために、あの頃のように。

 一枚の紙切れを何度も大切に確かめて、そっと鞄にしまう。早数ヶ月ぶりのこの非日常に、羽が生えたような心地がする。だがどこかでまだこれが現実なのか実感できない自分がいた。それくらい胸をふわふわさせて、いつもの駅へ、いつもより厳かに歩き出した。今朝まで降っていた雨は上がり、微かに湿った空気が髪にまとわりついたが、不快ではなかった。


 通勤定期で改札をくぐり、電車に乗り込む。

 スマートフォンの画面を点けては消して、何も頭に入らなくて、結局窓の外を流れる民家の屋根を目で追った。ニュースも音楽もメッセージも、胸がいっぱいで受け止められない。

 同じ車両のほとんどの乗客と共に、定期の適用範囲を2つ過ぎた駅で降りる。階段を上り、一斉に改札を抜けるまでは列をなしていた人々が徐々に減って、足音がまばらになる。今も同じ方角を向いているのは、きっと向かう先も同じ。話さずとも触れずとも、不思議と仲間意識を覚えた。


 彼らはやはり同じ交差点を曲がる。曲がった先にそびえる建物が、私達の集合地。

 劇場の入口には、目当ての演目のポスターが掲げられている。雨上がりの空気を深く吸い込み、鞄の中を手探る。チケットを手に、いざその扉へ踏み出した。


 スタッフの指示に従い半券をもぎり、エントランスホールを抜け、開かれた扉の向こうへ。

 人がいる。席がある。それがなんと重く、胸震わせることか。

 入場時に受け取ったフライヤーの束をる音、荷物からハンカチやオペラグラス、上着を取り出す雑音、隣同士で興奮気味に囁き合う声が重なり合い、えもいわれぬ高揚感を生み出している。

 そわそわと席を探し歩き回る視線が交差し、緊張を孕んだ深呼吸がそこかしこから聞こえる。

 私もほかの観客に頭を下げながら、席と足と荷物の間を縫うように歩を進める。背もたれの上部を覗き込み、手の中のチケットと同じ番号のプレートを確かめた。


 1階F列20番


 座席を下ろすとき、カーディナルレッドの布地の手触りに、懐かしさを覚える。ゆっくりと腰を下ろし、鞄を膝の上に抱えた。鼓動が早いのは、歩いてきたばかりだからではあるまい。

 ブザーが鳴り、潮が引くようにさざめきが終息していく。明かりが落とされると、身動ぎさえ憚られるような、夜明け前の静けさが訪れた。


 暗闇に目が慣れた頃に、一条の光が客席後方から舞台を満月のように照らした。ようやく私達は、ここに戻ってきた。幕が上がる。ただそれだけのことでもう、心が溢れた。

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