命短し軍靴を鳴らせ

煙 亜月

夜間行軍

「え、停電?」「待って、今保存するから」

 ざわめきはため息へ、それからややあって暗闇に男が声を張り上げる。

「皆さん、静かに。見ての通り停電です。ノートのひとは可能な限り保存して、バッテリーは温存するように。デスクトップのひとは、まあ、そういうことです。全員、指示を待ってください」


 わたしは窓を見る。街灯、信号機、電飾。能天気なまでに華やかだ。電柱にトラックは突っ込んでいない。ネズミがどこかケーブルをかじったのか、機器の突発的な故障か。

 目も暗順応してきた。フロア全体までは見通せないが、ある程度の範囲には視界が利く。


「皆さん、大丈夫です?」

 課員に声をかける。

「吉本、今日の作業がパーになった以外、問題なし」

「外山も特にないですねえ」

「斎藤、暗いのは苦手です」

 この島はおおむね問題ないようだ。


 職員たちからも軽口を叩く元気は消え、電話も鳴らないオフィスは静まり返る。寒い。エアコンも何もかもストップしているのだ。

 フロアの唯一の出入口、エレベーターホールのドアがノックされる音がする。振り向くと女性職員が懐中電灯を受け渡していた。「戻ったらドア、叩いてね」という声が聞こえる。

「うん。水、流れる?」

「センサー、死んでる」

「わかった。じゃあね」


 なるほど。トイレも真っ暗なのだ。さらにあの子たちのいう通り、流水のためのセンサーも停電で機能せず、断水している、と。エレベーターホールへ出ないことには、トイレどころか、階段を通じて他のフロアへも行けない。セキュリティ上、ドアは中からは普段通り開くが、外からは開けられない。それも今や職員証のICカードも使えない。


 わたしは総務部長のデスクで手短に指示を仰いだ。総務課の島に戻る。

「皆さん。これから備蓄倉庫に懐中電灯を取りに行って、すべてのトイレに配ります。なお、エレベーターは停まっているのでそのつもりで」

「でも、課長。懐中電灯って何本あるんですかね? その全部が備蓄倉庫にあるんです?」係長――吉本が素っ頓狂な声を上げた。

「それは行ってみないと何とも。リストも今じゃ刷れないし」

「わたし、行きます。女子トイレも課長だけじゃ回りきれないですし、地下から九階まで全部ですよね。お客様用はいいとして、多機能トイレだってあります。もちろん、トイレだけじゃなくて、他の部署の分も」

 斎藤も声を上げた。

「ありがとう」わたしは課員を見てうなずき、「行きましょう」と席を立った。


「か、課長、階段ですか」

「係長。エレベーター、停まってますってば。頑張りましょう」

 斎藤がいい返す。係長は息を切らせながら口をつぐむ。


「でも、外山なんかを待機させなくてもいいんじゃないですかね? あんな若い男手を残さなくても。電話だって通じてないし」係長がこぼす。

「携帯での連絡係と、倉庫のストック次第では買い出し用、って課長がさっきいってたじゃないですか、若くてよく動けるのがいいって」と、斎藤がいった。

「でもね、斎藤ちゃん、だからってこんな老いぼれを連れ出して、あの外山を留守番にするのは、ねえ? 課長代行なら順番的に係長なのに」と、ぶつくさいう。

 斎藤は意にも介さず、わたしと並んでヒールの音を響かせながら階段を上がる。これは軍靴の響きだ。異常事態に際し対処行動を取る。その足許を固める軍靴。

「係長もまだ若いでしょ」

「またまた、若いだなんて。斎藤ちゃんなんか、親子ほど年が離れてるじゃないですか――ああ、七階だ。心筋梗塞にならなくてよかった」と吉本がわざとらしくハンカチで額をぬぐった。


 壁面の火災報知機の赤色灯で、三人の顔が真っ赤に染まる。それと、階段の方にある「非常口」との緑の非常灯以外、なにも光はない。これら非常灯の電源系統は生きているのだ。防災用の電源は通常、平時用のとは別に回路がある。火災や漏電などで通常電源が切れてもなお、作動するために設計されているからだ。


 二階の総務からは、わたしと斎藤で一本、係長で一本の懐中電灯を持ち出している。総務課長のわたしだって、この社屋に何本の懐中電灯があるかなんて暗記していない。

 斎藤が倉庫の鍵を開ける。わたしは鍵穴、そして開けられたドアの先、倉庫内を懐中電灯で照らし出す。


 先陣を切って倉庫へ入った斎藤は、暗がりの中で灯りのスイッチを探そうとし、ただちにやめる。

 正方形に近い部屋だった。窓はない。スチールラックが三本、平行に並んで設置されている。左手の壁際の棚には数々の書類、五年保存や十年保存であったりと、さまざまな紙束がいくつもの書類箱に収められていた。右手の壁際には年度も担当課もばらばらのノベルティグッズが置かれ、その奥には、雑然とがらくたがあり、そして中央の棚には防災用品があった。


「懐中電灯、このテプラが正しければ、十二本。とりあえず、電池はあるようです」

「なるほど。ということは上から下まで、十フロア分の全部は足りないですな。課長、外山に買いに行かせましょう」

 わたしは倉庫内をざっと観察したのち、「いえ、係長。フロアごとにいくつか備品はあります。過剰に購入したら――」といいかけたが、

「あの、課長。震災のときもそうでしたけど、うまく行き渡るより早く行き渡る方が助かってました、当時は」と斎藤が反論する。

「斎藤さん、それももっともですが、今は――たとえばコンビニでトイレを借りるとかの方が早いです。まずは備蓄でしのぎましょう」


 わたしは総務課から持ってきた懐中電灯を床に置き、社の昔のロゴが入った紙袋を出す。そこへ備蓄の懐中電灯を四つ入れる。確かに電池はあるようだ。

「そこの空いてる紙袋、それに四本ずつライトを入れてください。順次配ってゆきます。もちろん、トイレを流す水の問題もありますが、それについては、職員を帰らせるなり何なり、上の人間が決定するでしょう」

 

 懐中電灯を配り終えて戻ると、外山が暇そうにしていた。わたしは手招きされ、総務部長のデスクへ歩く。

 島に戻ると斎藤も着席しており、ほか、吉本係長、外山と、総務は全員そろった。「皆さん」課員の視線がこちらに向けられえるのが気配だけで分かる。わたしは話しだした。


「電力が復旧したら、一部のセキュリティがアンロックされる可能性がある、と部長からの伝達です。つまり、購入時の状態に戻る、と。なので、重要な電子式ロックの箇所には職員を配置します。といっても、ビル警備が来るまでのつなぎと考えていいでしょう。ですが、いつ復旧するかもわからない。平たくいって、リスキーであると考えられます」


 デスクに戻る。疲れを感じた。少しならよいだろう、座っていても。オフィスチェアをリクライニングさせ、広背筋を休める。冷めたコーヒーに口をつける。椅子をくるりと回転させ、窓の夜景を見る。――仕事をしよう。

 係長が電子式ロックの箇所をコピー用紙に書きだしていた。本社歴が一番長いだけはある。

「係長、ありがとう。さて――電子式ロックで特に重要と思しき場所ですが、正面玄関、裏の通用口、地下駐車場のシャッター、それから金庫室、でしょうか」

「課長、あらぬ誤解を避けるためです、ここはやはり警備会社に任せた方が――」と、係長がわりに真っ当な意見を述べる。

「え、でも係長、警備員が来るまでと、来た時の立ち会いがいないとコンプラ取れないですよ」と斎藤。

「またそんな細かいことを――」と係長がうなる。

「いえ、斎藤さんが正しいです。部長からこの件、課に一任されているのでこの四人で何とかします。

 各フロアのドアは職員がいる間はいいとして、まず一階玄関、通用口に交替要員として、ふたり置きます。階段以外、通れる所がないので。地下駐車場は、シャッターを開けようが何しようが、どのみち一階の同じ階段を通るので、人員は割かなくてもよいでしょう。

 金庫室には念のためふたり置きます。復旧にどれほど時間を要するかはわかりませんが、他の部署からも応援を頼んででも、人員を常駐させます」


 外山と斎藤は金庫室、一階と地下駐車場からの経路は階段のみなので、わたしは係長と連れだってそれぞれ向かった。

 自分で指示しておいて矛盾しているが、警備会社に一任してよかったのではと悔やむ。金庫室ならまだしも、この通用口などはさしたるリスクもないのでは、と。

「あ、お疲れさまです」

 自分のすぐ脇をコンビニのレジ袋を両手に提げた職員が通り過ぎる。買い出しに使われた若手だろう。時計を見ると、二〇時近い。

「疲れたな」

 わたしは正面玄関の吉本係長の方へ行く。一階のカーペット敷きのフロアは鈍い音をさせてヒールを沈ませる。暗い。幽霊でも出そうだな――自分の着眼点に思わず笑ってしまう。

 強い光が浴びせられた。「課長? どうしたんです? にやにやしちゃって」

「ああ、係長――いえ、何でもないですよ。光線の具合でしょう」

「はあ、失礼を。しかしあれですな、このまま朝になって、ライトもいらなくなりますな」

「ええ、こうなると警備会社に頼まざるを得ないでしょうね。金庫室へ行きましょう」


「ああ、課長。それに係長。お疲れっす。やっぱり、警備会社に任せることになったんです?」金庫室へ着くと外山がいった。

「外山さん、斎藤さん、お疲れさま。やむを得ないでしょうね」

 斎藤はもじもじとして、何かいいたげであった。

「斎藤さん、大丈夫?」外山が訊く。

「でも、この状況だと、ビル警備が来ても四人とも疑われます。本当に金庫室がアンロックするかどうかまで、確認してからでないと――」

「斎藤ちゃん、ちょっと意識しすぎじゃないんですかね? たとえ疑う余地があっても、別に何もないでしょう」と係長。

 外山がはっと息をのむような音をさせる。

 わたしは横目で外山を見る。

「課長。悪くいうつもりはないんですが、最初の判断の時点で我々はもうグレーなんですよ。金庫室のセキュリティは最後まで生き延びるよう設計されている。防災用よりも固いでんすよ。具体的には漏電や火災の影響がない。まったくないんです。閉じ込めを防ぐためにね。というに、過去に閉じ込めによる酸欠で死亡事故があったんです。さらには防犯上、ダクトもなし。よって、この金庫室、手で開けられるんです。だから、停電中に金庫室に何かあれば、疑われるのは我々とビル警備以外に、いない」

「外山、お前」

「係長。自分、もともとはセキュリティ関係での採用だったんです。それがなぜ総務にいるかというと――」


「斎藤さんをマークしてたのね、外山さん」

「課長、ご明察。内部統制室の情報と、これまでの文言をたどったことを総合して、斎藤さんはこの金庫室を破るため、課長を仕向けたようにしか思えない。停電はいい隠れ蓑だった。今でこそ平然としていますが、斎藤さんは私と一対一になるのを避けていたはず。ともあれ、疑いも四人と、それに加えて警備会社へと分散された。

 こうなれば私は、あなたがた全員をマークせざるを得ない。それも全員の、完全な身の潔白の証明まで。

 提案です。この件、なかったことにしませんか。私は室長に審議します。そののち箝口令と、幾ばくかのボーナスが出るはず。私も人間です。そろそろ家に帰りたい。防犯カメラも電源が落ちている。証拠は残らないはずだ。

 ――斎藤さん。今回は金庫の中身は諦めて、代わりに口止め料で手を打ちませんか?」

 こつ。

 軍靴の響きがフロアの床に響く。斎藤は下がり、距離を取る。「さ、斎藤ちゃん。わたしは、外山が発狂したように思うんだけど、ど、どうなんです?」

 斎藤は落ち着いた声でいう。

「では外山さんは、初めからそれ狙いでここに配属されたんです?」斎藤はうつむく。「嘘。わたしなんてまだ新人なのに」

「経歴なんていくらでも作れるでしょう。あなたはアンロックされた金庫室にビル警備へ立会するなどして侵入し、行方不明となる。元居たライバル企業に売るんでしょう。それでもってリークしてもいいし、逆にうちへ買い取りを要求してもいい」


「外山さん。あなた、内部統制室ではないですね。違いますか?」わたしは外山を質した。

「本来はフリーですね。今はここの内部統制室の依頼で動いていますが。産業スパイといったら聞こえは悪いですけど。好きでやってる訳じゃない。厳しいんですよ、不況で」

「それで、尻尾が出そうになって、今度は我々を買収するんですか。今後、その事実でゆすりに使うために」と斎藤が語気を強める。

「そう聞こえたなら、そうかもしれませんね」

「ゆする可能性もあるんですね。むしろ、金庫よりそっちが目当てとか」

「だから、そういってるじゃないですか。しつこいですよ。まあ、斎藤さんのようなガッツのあるひとは、割増ボーナスを上に掛け合うつもりですがね」

「係長」

「えっ」

「いま何時です?」

「は? は、八時十五分」


 斎藤の軍靴が響く。ライトを外山の顔に向けた。

「外山修吾、二〇時十五分、証拠隠滅罪、および恐喝未遂罪、現行犯逮捕」


 わたしは急に引き倒される。息ができない。

「ちぇっ、せっかくあんたを削除できたのに。公務員の俸給なんてたかが知れてるのにさ」

 外山に後ろから首を絞められているのだ。

 かん、かん。

 足許が、軍靴が覚束なくなっている。「下郎、いい加減にしろ、外山!」係長がとびかかる。すぐにその場でうずくまった。

「やめようよ、ね。鎖骨だけでは済まなくなるよ」外山はわたしを盾にし、そのまま首を絞める力を強くする。

「斎藤。そこで腹這いになって、ライトを遠くに投げて。暴力は嫌いだし、あんたも今後一生、後悔するってのは嫌でしょ」

 外山はライトを斎藤の顔に浴びせ続ける。視力を奪うためだ。

「外山! もう執行猶予はつかないぞ。ただちにわたしに出頭しろ!」


 手探りで壁に触れる。

 あった。わたしはそれを押す。


 強烈なサイレン音が鳴り渡る。


『火事です。火事です。三階金庫室より出火しました』

 自動音声がけたたましく告げる――防災用の電源系統も、別回路なのだ。

「ふん、外山。じきに野次馬がやってくる。今なら間に合うぞ!」斎藤が警報音の中、大声を出す。

 ライトを目に当てられ、外山が手の力を一瞬緩めた。


 軍靴は――、

 ヒールで思い切り踏みにじる。割り箸を折ったような感触がする。

 ――固い。

 外山が耳許で叫び、わたしから手を放す。「ああ!」後頭部をこぶしで殴られる。斎藤が一気に跳びこみ、外山の顎を掌底で一打、次いで両掌で両耳を叩く。途端に外山はぐにゃりと倒れ、床でミミズのように動いた。鼓膜を破られたのだ。

「課長さん!」

 斎藤が駆け寄る。「大丈夫ですか!」

「斎藤、さん」

 平衡感覚を完全に喪失した外山を警戒しつつ、わたしの目や首、後頭部を懐中電灯で素早く調べた。

「異常ないですね。ご協力感謝します」

「あなた――警、察?」

「まあ、そうなります。でも――」

 斎藤が頬笑む。


 あなたの部下でも、楽しかったですよ。

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