ピンク同盟

田中ケケ

第1話

 その日、僕は産まれました。気が付いたら、そこにいました。


 僕は周りを見渡します。どうやら季節は冬みたいです。雪が降り積もっていました。大人たちが占拠している社会は一面銀世界で、理不尽な世の中に反旗を翻したかのようです。子供が世界の中心であるかのように、銀世界は子供たちにとって楽園でした。誰もが大はしゃぎ。走り回って、とても楽しそう。


 こんなにも清々しい革命はきっと、昨日の夜に降り積もった雪たちのおかげ。子供たちの楽園は朝日に照らされ輝いています。休日であることも重なって僕の目の前には、子供たちの小さな足跡ばかり。


 子供は風の子。雪が降れば寒さなんて関係ない。雪が降ればそれだけで楽しい。

 子供たちにとって雪とは、サンタクロースに匹敵するくらい神秘的で崇拝的で身近な存在なのです。見ている僕も少し嬉しくなりました。


 ただ、どんな雪もいずれは溶けていく。僕は少し悲しくなりました。僕は、どちらかといえば子供ではないのかもしれません。

 雪を暖かく見守り、ピカピカに輝かせていた太陽の光は、昼になれば容赦なく、雪に長い長いかくれんぼを強制させます。太陽は大人になってしまいました。


 その光景を、名残惜しそうに子供たちが見ているものですから、神様がその願いを認めたのかもしれません。

 アスファルトが露わになっていく光景を、窓の中から嬉しそうに眺める大人たちへ罰を与えたのかもしれません。

 神様は大人たちの願いに辟易していたのでしょう。そんな願いは叶えたくなかったのでしょう。

 昼になると薄暗い雲が空を覆い、ふわりふわりと雪が地上へ舞い降りてきました。天使みたいに真っ白な雪。子供たちの心そのものであるかのように真っ白な雪。

 子供たちは喜びます。元気に外を走り回ります。


 なのに、一人、女の子がとぼとぼ歩いています。俯いて降り積もった雪を眺めて。

 ピンクのマフラーと手袋をしています。この子はピンクが好きなんだ。

 僕はそう思いました。

 その子は僕に目もくれず、僕の前を歩いて行きます。他の子とは違って全然楽しそうではありません。足跡が何だか虚しげです。


「ねぇ、君。どうしたの?」


 僕はたまらず話しかけました。その子のことが心配でした。雪が降っているのに、今は子供が世界を牛耳っている時間なのに、どうしてその子は、窓越しの大人みたいな顔をしているのでしょう。


「……えっ? 誰?」


 少女は驚いて足を止めます。僕の方を振り向きます。だから僕はまた声をかけます。


「どうして君は、そんなに悲しそうなの? 雪が降っているんだよ?」

「だって、だって、私の心にも雪が降ってるみたいだから」


 その女の子は言いました。そう言って、僕の横にちょこんと座りました。ため息は今日だけ、白い息です。

 女の子の髪に舞い降りた雪も何だか悲しそうです。申し訳なさそうに、少しずつ頭の上に降り積もっていきます。


「どうして? 何かあったの?」


 僕は尋ねます。その子に笑って欲しいから。


「……この辺りがね、寒いの。こんなに温かくしてるのに、寒くてたまらないの」


 その女の子は胸の辺りを、ピンクの手袋をはめた小さな手で押し当てます。


「まなちゃんと、喧嘩しちゃったの」


 女の子の声は雪の中。消え入っていきます。


「そっか、だから君の心に雪が降ってるのか」

「うん。それから何をしてても、暖かくならないの。ここが冷たいままなの」


 女の子は目を強く閉じます。せっかくの雪を見ることを辞めてしまいました。この子は楽園を追放されてしまったと思っているようです。

 何にも禁忌は犯していません。何にも悪いことはしていません。禁断の果実を齧ったっていいのです。この子の周りには、街中ではしゃいでいる子供たちと同じように、雪が降り続いているのですから。


「そっか、それは、悲しいよね。苦しいよね」

「うん……独りぼっちなの」

「でもさ、君がそう思ってるってことは、きっとまなちゃんって子も、そう思ってるってことだよね?」


 僕は言います。喧嘩した時は両方苦しい。それはみんな一緒。心に雪が降り積もるのはみんな一緒。

 もしそうじゃなかったら、それは雪じゃない。白くない。友達じゃない。


「……そんなことないよ。だって、だって」

「じゃあ、まなちゃんは、君の友達じゃないの?」

「それは……友達だけど」

「じゃあ、絶対。君と同じように、まなちゃんも今、独りぼっちなんだよ。悲しいんだよ」

「そんなこと……」


 女の子は認めてくれません。何かに縛られたようにそこを動きません。胸に押し当てていた手は服を掴んで、震えています。


「じゃあ、僕が魔法の言葉を教えてあげるよ」


 僕は教えます。その女の子のために。その女の子だからこその、魔法の言葉を。


「……何? 魔法の言葉って?」


 その子が僕をうるうるとした瞳で見上げます。頬も少し赤く染まっています。


「それはね、簡単な言葉。『ごめんなさい』って言葉だよ」

「そんなの……違う。だって、私、悪くないもん」


 その女の子にまた俯かれてしまいました。女の子の瞳から、涙が零れ落ちてしまいました。


「そうなの? 君は悪くないの? まなちゃんの方が悪いの?」

「そうじゃない。そうじゃないけど……私は悪くないもん」

「そっか。そうなんだ」


 僕は、上を見上げます。雪はまだ降ってくれています。子供が子供でいるための時間はまだまだ続いてくれそうです。

 だから僕は、その子に言います。


「でもね、その魔法の言葉はね、今しか使えないんだよ?」


 そう。その魔法の言葉は、子供限定。


「えっ? どうして? 『ごめんなさい』だよ?」

「うん。『ごめんなさい』だから。大人は、いつの日か喧嘩をしなくなるんだ。喧嘩は、もっと難しい言葉に変わるんだ。だから、この魔法の言葉は、使えるうちに使わないと。使って、きっとまた、大人になっても使えるようにしとくんだ」

「…………」


 その女の子は黙ってしまいました。少し難しい話だったのかもしれません。僕は、ちょっぴり反省しました。


「君は、まなちゃんのこと好き?」

「今は、嫌い……、じゃない」

「じゃあやっぱり『ごめんなさい』だね。君は分かってる。もう大事なことを分かってる。だから、大丈夫。まなちゃんの心を温かくできるのは君だけなんだ。まなちゃんの太陽になれるのは君だけなんだ。だから、行ってあげて。君は、まなちゃんの友達なんでしょ?」

「……うん。私の友達」


 その子は顔を上げました。立ち上がりました。

 雪の上で小さく折りたたまっているなんて、銀世界ではもったいない。君はそんなにも雪に愛されている。雪が白いのは、君をはじめとする子供たちのおかげ。

 彼女は楽園の門を自分の力で開けたのです。

 自分の力で立ち上がって、駆け出そうとして、辞めました。


「どうしたの? 早く行かないの?」


 びっくりした僕は聞きます。


「ううん。行く。『ごめんなさい』って言う」

「じゃあ早く行ってあげ――」

「言うけど、私が行ったら、あなたが一人になっちゃう。あなたの心が冷たいままになっちゃう。私は、あなたの心も暖かく……暖かくしたい」


 その女の子は嬉しいことを僕に言ってくれました。僕は泣きそうになりました。

 でも泣きません。その思いを受け取れません。

 僕はそうすることが怖いのです。暖かくなることが怖いのです。


「僕のことはいいから。だって、僕の心が温かくなったら、僕は溶けちゃうんだ。だから、僕は一人で大丈夫。君は早く行ってあげて」

「そんなのやだ! いなくなっちゃやだ!」


 その言葉も、嬉しかったけれど受け取ることは出来ません。

 僕はそれっぽい理由を付けてしまいました。


「大丈夫。僕が溶けてなくなっても、雪が降ればまた会える。春が来て暖かくなってもまた、冬が来れば会える。君の中で『ごめんなさい』が魔法の言葉であり続ける限りまた、絶対会えるよ」


 君が悲しんでいると雪が止んでしまう。大人の時間になってしまう。

 子供たちが楽しんでいないと、雪が止んでしまう。

 だから子供たちにずっと笑っていて欲しい。

 こういうことを考える僕は、やっぱり大人です。

 結局は自分の為だったのです。


「ほら、君の迎えが来てる。きっと走ってきたんだね。君のことが好きだから、きっと」


 僕の視線の先には、ピンクのニット帽をかぶった女の子が、立っていました。


「……はるちゃん!」


 まなちゃんは涙を流しながら叫びました。


「まなちゃん。……ごめんね。ごめんなさい」

「私も、……ごめん。ごめんなさい」


 二人とも走り出しました。抱き合いました。『ごめんなさい』と言い合いました。

 笑い合いました。

 僕の言葉より、友達の必死な姿の方が心に響くのは当然です。

 僕は意地悪い大人なのですから。必死でいなくなることに対して抵抗しているだけなのですから。


「よかった。その方が似合ってるよ」


 僕は安心しました。嬉しくなりました。虚しくなりました。

 独りに戻ったから。

 空を見上げると、太陽が雲の切れ間から微かに覗いています。太陽は雪を輝かせにまたやってきました。太陽は子供に戻っていました。


 笑顔は太陽。涙は雪。世界中の子供たちの流した涙が空へと昇って、冬という季節に雪を降らすのです。子供たちへのご褒美として。

 そして、子供たちの笑顔が太陽になって、こんなにもその涙をキラキラと輝かせるのです。

 その二人の姿を見て僕は、ようやく気が付きました。


「……あれっ? どうしたの?」


 仲直りした二人の女の子が戻ってきたことに、僕は驚きました。


「これ、私たちからのプレゼント」


 そう言って、はるちゃんは僕にピンク色のマフラーを巻いてくれました。

 それは心地よい暖かさでした。ほんのりと優しく、じんわりと心地よい。

 僕はとても気に入りました。


「これで私たち、ピンク同盟ね」

「僕も仲間?」

「そう。私たち三人でピンク同盟」


 その時、初めて僕は幸せを知りました。優しさを知りました。

 僕の心は幸せに満ち溢れ、その暖かさは僕の中に広がって。

 僕は、生まれてよかったと、心から思いました。


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