第3話 銀乃輻

 真昼の三日月を指差して、そっと秘密をささやいた姉の背丈は、あの頃のように僕を追い越したままだ。小さかった姉のてのひらが月を握り込むと、「あれに座ってみたいな」。

 姉によれば、三日月に腰掛けた者は皆、お尻から頭にかけて真っ二つに裂けてしまうという。でも、魔術で玉座に変える事が出来るものなら、望みとやらを何でも叶えられるとか。

 蛾に変身した姉が、その三日月に出向いたとようやく知り得たのは元に戻った姉の言による。月の砂にまみれた姉から深海のような冷気が伝わり、出迎えた僕を昏倒こんとうさせる。まとわりついた夢砂を払ってくれたのは友人夏暮なつくれだったが、彼の眼球にも入り込んだ砂の睡魔はそれを反転させた。おかげで彼は白日夢と夜想夢に挟まれて、一人の自分に双つの夢を見ながら真っ暗な睡夢境をさまよう。瞼の開閉を問わず見えるのは、自身の空洞たる暗闇ばかりだ、きっと。

 三日月と取り違えて、半月刀に舞い降りたから怪我けがをしたのだ――姉は包帯で囲った左腕にそう理由をつけたが、まるで月の風が吹き抜けたように肩口から先が欠け落ちていた……。

 こうした身体変化を伴い、ますます空へ近くなる姉を心配していたところに夏暮との密約を都合良く思い出した僕は姉とともに、彼が前後不覚に先導する広場へと出かけた。途中、姉の怖がる黄金林を抜けた。飛び立たぬようにしっかりと姉を引き寄せていると、先を行く夏暮が転んだ……。その先は開けていた。舞台だけ残された劇場跡だったが、やはり姉はこちらの方が落ち着くらしい。僕を突き放して駈けていく。夏暮を踏んでいく……。

 崩れかけた跡に、夏暮のいう旅の一座が揃えたものらしい装置が種々と積まれていて、そこに人が進み出ると、姉も駈け寄る。

 「座長だぜ、あれ」

 ヒソヒソ。うそぶく夏暮を助け起こして姉の後を追う。人形たる彼に重さはなく、重力と決別しているらしい。彼の球体関節から極細な糸が相変わらず天へ伸びていたものだから……その糸が僕の顔に触れるので気になって仕方ない。ハサミハサミ……。

 猫の姿をしていた座長は猫的な前口上を述べていたが、無邪気な姉に頭を叩かれてそそくさと引っ込んでしまった。間もなく上演されるのだろうが、観客には人の姿がなく、猫だらけの集会場であった。猫的に賑やかである。手近にいた猫客を夏暮が足でどかし僕らはそこに陣取った。椅子はなく地面に座るだけだ。

 ほどなくベルが打ち鳴らされた。穴だらけの屋根が音で震える。今にも落ちてきそうだ。円形状の舞台は人が乗るには小さく、枯れた噴水に屋根をつけたような造り。

 ――開幕した。書割ルインが奥行を囲む舞台では、中央と左右の袖近くで三匹の役者猫どもが演技を繰り出していたのだが……。猫どもは男装、女装、後家の衣装のまま微動だにせず、ジッと固まっているだけだった。

 「なんという名の劇団かい」

 僕は観劇の醍醐味だいごみつかめずに、夏暮を突ついた。

 「お前の大好きな姉さんに聞けよ、邪魔しないでくれ」

 良い場面なんだよと早口に付け加えて、おかしな姿勢を保つ猫役者を見詰める彼は真剣であったろう。そのガラスの目玉が体内に反転していなければ、もっと真剣味を感じられたのだが。無論、姉のせいではない。

 眼球の裏側を露出する友人人形に砂を投げて抗議……また硬直しているようだ。僕は小鳥めいた舌打ちをひとつふたつしてやってから姉を振り向くと、彼女はラジオを手にしていた。気まぐれのラジオを内緒で持ち込んだらしい姉をゆるく睨みつけて、それをふところに戻すよううながした。ここでラジオの奴に騒がれたのでは、とても都合が悪くなるに違いないのだ。

 いつしか観劇の沈黙が天回広場に張りつめていた。無音沈黙は、しかし俳優の鼓動を無音に引き立てるため、無音沈黙ではなかった。猫観客らは無音のうちに避雷針のような細さとなり、夏暮は生命線によって天上へと引っ張り上げられて宙に浮いたままとなっているではないか。この場の緊張は、危うい遠近法のようにひしゃげそうであり、まさにここは劇場と化した。息をしているのは、部外者となってしまった僕と姉だけだ。

 そうして、ラジオの奴は禁忌を破る。「ギンギル・ギンギル」がなりたてる声に劇場の遠近法的無音が一散された。これは秘密の工房で夢をていた父の断末魔かもしれない。地下のヴィーナスを少年に強奪される父の悲劇的ラジオドラマが、大音響で僕らの観劇を引き裂いた。父ではないはずの僕ではあるが、知らない記憶めいたノスタルジーが身体を揺する。

 猫役者は各々衣装を投げ捨て、観劇者どもも押し寄せた時間と生活音のだく流にさらわれ、どこへと行ってしまった。宙を見上げた僕は天上に吹き飛ばされた夏暮を視界に捉えたものの、彼は一足遅く(何の悪戯いたずらか)夕暮れ三日月にまたがってしまい、姉の言った通りに真っ二つとなった。左の彼と右の彼とが、あまり美味しそうでないカット・メロンめいて落ちてゆき、やがて夕闇に消え失せた。

 僕は身を縮かめて、懸命に姉の右腕を胸に引き寄せた。蛾に変身してしまうと思ったからだが、恐がっている僕を、姉は優しげに莞然かんぜんと覗き込んだ――。

 「姉さんの言う事は、いつも正しいね」

 ――僕も笑った。やや、ぎこちなかったけれども。



 僕ら姉弟は腕をからませながら黄金林を抜けた。姉はやっぱり怯んだけれども、ラジオの奴が代わりに歌った。


『アドゥレッセンスになだれ込もう』と――。



 おわり

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アドゥレッセンス僕 @alfirjg7k4ht

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