アドゥレッセンス僕

第2話 星霜蛾

　通院に明け暮れる姉が一匹の蛾（が）となって、明後日の方へ飛び退（しさ）ってしまった。早くも姉気取りのラジオの奴が、そのスピーカーから姉の羽撃（はばた）きをうそぶいていたが、そいつを聞かされる僕としては一人きりの食卓がさらに憂鬱（ゆううつ）となった。だから、マグカップを投げつけた。当たったラジオは「痛いイタイ」と鳴いた――。

　ラジオの悲鳴に台所を任せながら、僕はぞんざいにうたた寝船を繰り出していたはずだが、誰か肩に触れる者がいた。ラジオのせいで気がつかなかったようだ……。

　振り返ると、僕の友人であった。

　「あいつに聞いてきたのさ」

　と、友人夏暮（なつくれ）は顎をしゃくった。ラジオの奴を指している。

　「お喋り箱め、その調子で姉さんの居所を教えてくれれば良いのに」

　食卓へ着く夏暮に姉特製のココアを勧めながらラジオに一瞥する。ひび割れたマグを拾い上げた彼は、そのままほのかな湯気を口許に受けて微笑する。

　「お姉さん、飛んでいってしまったのは良いが、まさか帰って来られないのかもな」

　一息で飲み干した夏暮は、傍らのポットを掴み上げると気楽に二杯目をやりだした。同情してはいないようだ。マグからココアが漏れて袖を汚していたのが気に掛かったけれど、何より体中から極細の糸を天に向かって伸ばす様が丸見えで、彼はそれこそ操り人形になっていた。その生命線は薄暗い天井へ溶ける様に消えていた。ずっと高みに達してはいるようだが、天井に呑まれている所までしか見通せなかった。細いのだ。

　敢えてそれに言及せず僕は知らん振りを決め込んだけれども、彼に気を遣ったからで、間違ってもその生命線をハサミで切りたいとか、その生命線を巨大な八端（はったん）十字架に縛りつけてハリストス様を偲ぶとか、そういうわけではない。

　「お前の姉さん、どこかで蜘蛛（くも）の巣に引っ掛かったり、虫捕り網に誘拐されたりとか……とにかく探さなくて良いのかよ、叱られるぜ、後でさ」

　マグを置いた夏暮、今度は思案げにこちらを見遣（みや）った。

　「でも、なんで蛾になっちまったのさ――蛾ニナリウス、ハハ」

　『母』をやめた僕の母は入院中に幾度も今回の姉と同じ飛行を繰り返したようだ。変化の瞬間を見ていない僕にとっては、姉の、その変身とやらが謎でありながらも意味深長と思惑巡る。赤い夕日と月経る軌道の彼方――母も姉もそこへ行くというのだろうか。飛べぬ僕とやらは、翼に準じる品を発明しなければならぬのだろうか。父の様に。

　頬杖を突いてラジオ音楽に聴き入る夏暮。ラジオの奴の鉱石ボイスが「ギンギル・ギンギル」と鳴っている。鉱石を回転し摩耗（まもう）させる機械が放つ火花のような――そんな鉱物的楽器に耳を澄ます彼はそれこそ父の工房にある鉱物少年のように硬直し、糸を操る者もない。

　僕自身からはその糸が出ていないはずだが、時々に夏暮の生命線が羨ましくもある。生を歩むための或る種の天命を頭頂に掲げているからだ。彼の感性は、僕には分からぬもの。

　とはいえ夏暮からしてみれば、お互いの立場は全く逆転して映っているのかもしれない。

　「ところでさ、お前の都合次第なんだが、今度さ劇を見物してこないか、一緒に。良い劇団が天回広場で興行やっててさ。何だか女ばっかりで至極ばつが悪いのさあ、一人じゃ。お前もついてこいよ、なあ」

　ぎこちない夏暮の申し出は彼一流の思い遣りだと、落ち込んでいる僕にはすぐに飲み込めた。彼の妹は急死していた。いままた姉弟を失くそうとしている友人を精一杯に慰めたつもりなのだ。

　――もっとも、彼はよく妹に火を点けて遊んでいたわけだが。ともかく良い奴だ、彼は。

　「行っても良いよ。姉さん、いつ帰ってくるか分からないしね」

　了解した僕を見届けた夏暮はクタッと球体関節の力を抜いて、それっきり身動（みじろ）ぎしなくなった。

　天井に向かって、ラジオが罵（ののし）る――。

　珈琲香（コーヒーこう）に跨（またが）って　さあ出発だ

　僕の飛行機よ　飛べ　走れ　出立だ

　妹を助けに　姉を攫（さら）いに　さあ　天空を目指して

　わあ大変続出だ　巨大な柿の実に焼かれちまうよ

　神様の意地悪　自分だけ楽をして　僕らは苦しい事ばかり

　楽しい事なんてまるでないよ　辛いよ　落ちてたまるか

　あああ　あああ　焼け落つる僕の飛行機