アドゥレッセンス僕

@alfirjg7k4ht

第1話 幾星霜

 ざわつく木漏れ日が、豊かな光緑こうりょくを母に焼きつけた午後に僕の姉さんは産まれたという。公園並木の、木陰の絨毯じゅうたんを散策中に母は産気づいた。そして産後父にこう漏らした。

 「この女児は日光の産物なのよ。太陽から注いで、濃緑を透かして、わたしをはらませようと、手ぐすねひいていたんだから。あなたの子じゃないわ」

 おくるみさなぎの姉よりも、母の退院は困難であった。


 ――我に返ると、僕は「僕」を演じるはめにおちいるのであったが、姉の優しい声は「僕」をひるがえそうとする僕を、やんわりと押しとどめる。

 その姉は蛹でいることを止めてはいたのだけれども、サナトリウムの匂いを捨てきれずにいた。通院を終えて買い物を済ませた姉と夕餉ゆうげを囲むのが、夜々の楽しみだった。

 台所達者の姉料理を卓に並べながら、お気に入りのラジオに電気的信頼を吹き込んでやると、姉はやんわり吐息で口遊くちずさむ。

 姉は一局しか聞かないくちだった。固定された彼からいつもの声が表れて、僕らの夜会は二人っきりで催される。楽しくて、嬉しくても、いくら姉の穏やかな笑みがあっても、姉はまた出掛けてしまって、明日の夕暮れまで姿が見えなくなるのだから、ラジオの奴も悲しげにさえずるしかないわけだ。

 一方で隠者めく父は、秘密の工房で未来の妻を制作している。天使の書典拠てんきょの非現実な設計、少年が二百年閉じ込められた巨大な鉱石の破片、思考力で回転する動力不在の心的装置……偽書に記された夢の残骸制作の親方マニエリストたる父は、同時に天使的博士を体現する。女神との再婚を目論む父の相手は妻か、娘か。

 融け合い溶け合いしているうちに、父にもすっかり解けなくなった慰撫イブの秘密は、男でも女でも決して開かぬものだろう。唯一の鍵とやらは、きっと姉がふところに眠らせているはずだ。父の眼目はめしいている。そして、僕が憎む。

 人恋しくなった食卓には、もはや何もない。一人うたた寝する癖がすっかり身についた夢見の僕に、ラジオの奴が吹き込んでくる――。



 ――[ラジオ放送]


『 先生、私は確かに見たのです。自宅から真っすぐここへ来る時、右手側に歩道橋の階段があるでしょう。あそこの三段目、決まって風が吹きついてくるあの三段目、下からのですよ、そこに先生がしっかりと、お座りになられていたのですから。

 ええ、左様です、確かに私は、お堂のたもとから黄金林を抜け出て、あいつに連れていかれてしまいました。でも、何のやましいところなんて……。ただあいつが、あんな所に誘うから――誰だって、螺旋階段に腰掛けてみたいものでしょ。先生だって、分かってるくせして。

 とにかく、先生方は私を解放して下さればよろしいのですわ――何の心配もなさらずに 皿状ディッシュなアンテナとなんてお話できませんし、看護婦めいた人形群に囲まれて毛糸の髪を引っ張るだけなんて疲れます。疲れますので、お願い致しますわ、先生。 』



 ――ここで不可思議ノイズ。陽気な歌が流れてくる……クッスリ。


 死ぬまで一生叶わない ラハハ

 理路整然めいて叶わない ラハハ

 隣近所は信用できないけど

 遠い君だけは信じることができるのさ

 

 海にちらつく蛍のように

 沙漠でしおれる甲虫めいて

 七草がゆっ込むまるで

 月似た魔力を君は

 持つ


 シェヘラザードの夜慰め 奇想

 デュクロ講話 その授業 淫想

 医術探究 博物誌的な  畸想

 男性機械 即ち冷女   綺想

 海に流すは福ノ神    忌想


 君の体は紙製 文字が血 名は幻想

 このうらみは 何時いつ果てることもなく



 ――ここで、僕はラジオを消した。


 姉の顔が、思い出せなかった。

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