眠るな!ダニエル!

鯨ヶ岬勇士

眠るな!ダニエル!

「みんな起きろ。ジェンキンスが死んだぞ」


 その報せは小鳥がさえずる静かな朝に、雷のようにけたたましく鳴り響いた。村中の誰もが、柔らかな羽毛のごとき心地よい眠りを妨げられたことに怒り、それからいくらかして、事態の重大さに気が付く。ジェンキンスと親友だったダニエルは、そのことが理解できず、未だに呆然としている。


 田舎の小さな村では、村民の死は共同体すべてを巻き込む重大問題だ。今回死んだジェンキンスはまだ若い青年で、死ぬには幼すぎる。その上、その死にざまの奇怪さはそれに拍車をかけた。


「ジェンキンスは笑って死んでいたらしいぞ。それもベッドの上で」


「おいおい、それってつまり」


「そうだ。あれはまさしく――」


 その話を詳しく聞いて、驚かない者などいなかった。


「――だ」


 村中の若者がその話に聞き耳を立てた。ジェンキンスに妻などおらず、このような田舎の小さな農村に来る酔狂な娼婦もいない。それにもかかわらず、彼は腹上死したのだ。意味がわからない。そのとき、村の生き字引、ラムジー長老が口を開いた。


「これは間違いない。悪魔の仕業だ」


「悪魔の仕業ですって。そんなことがあり得るのですか」


 村中が恐怖のどん底へと陥る。何故、このような小さな村が悪魔に狙われるのだ。何も物珍しいものもなく、主な産業と言えば酪農ぐらいの辺鄙な村だぞ。皆、口々に嘆いた。


「それもただの悪魔ではない。奴は悪魔の中でも最も高位な悪魔の一人、リリスだ。つまり――」


 皆、固唾をのんだ。


淫魔サキュバスだ。ああ、なんて恐ろしい」


 若者たちは一瞬黙ると、お互いの反応を見合い、それから演技っぽく恐れてみせた。ダニエルもその一人だ。


 何故、誰も恐れないのか。いや、恐れてはいる。恐れてはいるのだが、それに勝る恐れがある。それは――あまり大っぴらに口にするのはばかれるが、についてだ。

 

 これはどの国のどの田舎にも共通していることだが、この村の抱える問題に嫁不足がある。若い女性など殆どおらず、村の若い男たちは悪魔よりも、一生独り身で――それも生息子きむすこ、つまりは貞操を守って――死ぬことを恐れていた。


 これはチャンスだ。誰もがそう思った。毎日、苦役に従事し、誰のためかもわからず牛を育て、家に帰れば泥のように眠る。そんな人生に舞い込んだ、ちょっと危なげで、淫靡いんびな香り。もう若者たちの頭の中に、ジェンキンスへの哀れみなどない。


 「大丈夫だ、安心してくれ。悪魔除けの方法を知っている。枕元に牛乳を入れた器を置け。そうすれば淫魔はやってこれない」


 恐ろしいことを言う長老だ。こいつは悪魔か。若者全員がそう思った。それでも、敬虔な年寄り連中は安堵し、胸をなでおろしている。


 ダニエルは思った。安堵して胸をなでおろすなんてとんでもない、俺は胸をもみたい。女の肌のぬくもりも、その柔らかさも、何一つ知らずに死ぬのなんてごめんだ。


 その晩、村中の家の枕元に牛乳が置かれた。年寄り連中の優しさという名の妨害工作だ。しかし、これ屈するようなダニエルではない。彼は、親切なお年寄りの目を盗んで窓の外へと牛乳を捨てた。


 これで準備は完璧だ。後はベッドの上でだけ。ダニエルは天井を見つめながら、悪魔と如何にして戦うかを夢想していた。イメージトレーニングもばっちりだ。このために、今日の昼間の辛い労働にも耐えた。


 準備は完璧。後は待つだけだ。そう、後は待つだけ。後は待つだけ、後は待つ、後は、後、あ――


「なんてこった、パトリック爺さんが襲われたぞ」


 なんてこった、寝てしまった。ダニエルはそのけたたましい報せで飛び起きて、最初にその後悔をした。


 パトリック爺さんはに、淫魔を退治しようと一晩中起きていたために狙われたらしい。ダニエルは彼からの詳細を――いや、その安否を確かめるために走った。村の道は雨が降ったわけでもないのにぬかるんでいる。まずい、他の連中も同じことを考えて、牛乳を窓の外に捨てたのだ。これでは先を越されてしまう。


 パトリック爺さんの家に着くと、彼はすでに――本当の意味で――昇天していた。妻のジェシー婆さんが泣いている。


だったと思いますよ」


 ダニエルはそう言葉をかけた。それは心からの言葉だった。彼女は夫の人望の厚さに感涙し、彼の最期をまるで戦死した英雄かのように語る。パトリック爺さんと淫魔との戦いはで、部屋からはが漏れていたという。


 それを聞いたラムジー長老は、隣村から神父を呼ぶために伝令を送るというをした。


 若者たちは怒りにかられた。ラムジー長老は悪魔への怒りを抱える若者をいさめたが、若者の真の怒りは自分に向けられていることに気づいていない。


 しかし、ダニエルだけは違った。彼は確信したのだ。この夜、眠らずにいれば必ず淫魔がやってくる。隣村とはそう距離が離れてはいない。それらを考慮すると、今晩が最後のチャンスだ。ダニエルの頭は過去最高の働きを見せた。


 だが、悲しいことに不幸は重なる。こんな日に限って牛の出産が二頭も重なったのだ。その上、二頭とも難産で、かなりの重労働だった。これではまた眠ってしまう。ダニエルの頭に不安がよぎる。それとともに、僅かな怒りも湧いてきた。牛だってをしているのに、自分は何でできないのだ。この怒りを糧に起きるしかない。彼はそう心に決めた。


 全身くたくたで身体中どろどろの夜。いつもだったら泥のように眠りたいところだが、そうはいかない。とりあえず、年寄り連中が用意した牛乳を窓の外に投げ捨てる。今日が最後の戦いになる。睡魔を斃し、淫魔と戦うのだ。彼の決心は固かった。


「睡魔に勝って、淫魔に勝つ」


 彼は自分に何度も言い聞かせた。


 睡魔に勝って、淫魔に勝つ。睡魔に勝って、淫魔に勝つ。睡魔に勝って、淫魔にか、睡魔に勝って、淫魔に、睡魔に勝って、睡魔にか、睡魔に、睡魔、すい、す――


「大変だ、ラムジー長老がやられた。だが、長老は耐え抜いたらしいぞ」


 大変だ、寝てしまった。ダニエルは絶望した。今日の昼頃には隣町から神父が来るだろう。なのに寝てしまった。あんなに策を講じたのに、ぐっすりと眠ってしまった。彼の心は失意のどん底へと沈んだ。そんな哀れな彼を朝日が照らす。それは辱めに近かった。


 若者たちが絶望の中にいたとき、それ救うため――若者たちにとってはとどめでしかないが――神父がやって来た。彼は村中に聖水を撒き、牛乳でぬかるむ道をさらに湿らせた。それによってサークルをつくると、聖句を唱えて淫魔を追い出した。今まで姿を隠していた淫魔は、家の隙間の影から黒い煙の姿を伴って現れると、そのまま天へと逃げ去っていった。


「これでもう安心ですぞ」


 神父が明るく話す。それを聞く若者たちの顔は暗い。絶望だ。それを見て、長老は彼らが今も悪魔を恐れると思ったのか、自分が悪魔に打ち勝った方法について語り始めた。


「淫魔は私を地獄に落そうとあらゆるすべを試みた。私に姦淫の罪を冒させようとさせたのだ。それでも私は主とイエス様のことを考えて耐え抜いた」


ですか」


「そうだ、人間の思いつく姦淫にまつわるすべての術だ」


 長老は神妙な面構えをし、恐怖からか顔が真っ青になっている。若者たちは顔を紅潮させてそれを聞いた。長老はそれから、淫魔との戦いを事細かに語った。それは汁の滴りから、指先の動きに至るまで、正確に、寸分の狂いもなく伝えた。


 ダニエルはその晩、眠ることができなかった。

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