ヘリコプター

増田朋美

ヘリコプター

ヘリコプター

暑い日が少しづつ減っていき、朝晩に涼しい日がやってくるようになった。少しずつ過ごしやすくなってきて、もう季節は秋に向かっているのが少しだけわかるようになってきて、人々は屋っと秋になったかと大きなため息をつくようになった。やっとこういう季節が来たと喜ぶ人もいるようになった。まあ、今年はどんちゃん騒ぎをするような行事が、みんな発疹熱の流行で中止になってしまうという異例の年になってしまったけれど。

まあそれは別として、今日も沢村禎子は、自宅内で一生懸命バイオリンの練習を続けていたのであるが、

「ちょっと、沢村さん、沢村さんってば!」

と、隣のおばさんにでかい声で声をかけられて、バイオリンを弾くのを止めた。回覧板でも届けに来たのかと思って、玄関先に行ってみると、おばさんは回覧板を持っていなかった。

「何かあったんですか?」

と禎子が聞くと、

「何があったじゃないでしょう。太君、ミルクを欲しがって泣いているんじゃないの?」

と答えるおばさん。そう言われて初めて、太の泣き声がしていたことに禎子は気が付くのであった。

「ほらあ、太君泣いてるよ。早くミルクを飲ませてやらないと、ダメなんじゃないの?」

禎子は、急いで冷蔵庫を開けた。ところが、粉ミルクは、今朝切らしてしまっていて、どこにもなかった。禎子が冷蔵庫を覗いているのを見ていた隣のおばさんは、

「沢村さん、あなたさあ、バイオリニストなんてやめた方が良いのではないのかしら?子供をおろそかにして、バイオリンの練習に打ち込むなんて、一寸さ、母親としての職務怠業というか、母親失格なんじゃないの?」

と、一寸バカにするような態度でそういった。

「いいえ、そんなこと。」

禎子はそういい返したけれど、実際問題粉ミルクは切らしてしまっていて、放置していたことも事実なので、おばさんの言うように、母親として職務怠業と言われても仕方ないと思った。もし、これが長時間続いていたならば、おばさんの言うように、母親失格となってしまうかもしれない。

「すみません。申し訳ありません。」

禎子はそういっておばさんに謝ったが、

「謝るのはこっちじゃなくて、太君にでしょう!すぐにミルクをつくって、飲ませてあげなくちゃだめよ!」

と、おばさんはきつい声でそういって、禎子の部屋を出て行ってしまった。後はミルクを欲しがって泣いている、太と、呆然と立っている禎子だけが残った。

「とりあえず、ミルクを買ってこなくちゃ。」

禎子は急いで財布の入ったカバンをとった。太を置いて言ったら、また隣のおばさんに、何を言われるかわからない。仕方なく太を抱っこして、自宅を飛び出していった。

とりあえず自宅近くにある赤ちゃん用品店に向かったが、今日は水曜日で、その日は定休日であり、店の前へ行っても営業していなかった。仕方なく、牛乳屋へ行ってみようと思い立ち、歩く方向を変えてその店に向かう。歩いていく途中で、自動販売機の前に差し掛かった。

自動販売機には先客がいた。

「あれえ、沢村禎子さんじゃないか。」

いきなりそんなことを言われて、禎子ははっとする。後ろを振り向くと、杉ちゃんだった。

「どうしたんだい?こんなところを太君と一緒に歩いているなんて。」

杉ちゃんにそういわれて、禎子は答えに困ってしまう。

「え、えっとね、一寸用事があって。」

「ちょっとってなんだよ。」

杉ちゃんにはごまかしは効かないことを禎子は知っていた。杉ちゃんのその鋭い目が自分のありとあらゆるところを見つめているような気がした。

「杉ちゃんごめんなさい。この辺り牛乳屋というものはあるかしら?」

取りあえずそう聞いてみる。

「まあ、牛乳というものは、スーパーマーケットでも、どこでも売っているが、赤ちゃんにあげてしまうのは、いけないことだとアリスさんに聞いたことが在る。其れじゃ、いかんぞ。」

と、杉ちゃんは言った。それではもうすべてお見通しだと杉ちゃんは言っているようなそういう目つきで彼女をじっと見る。禎子はがっくりと頭を下げた。実をいうと、バイオリンの練習で忙しいときは、太がものを言えないのをいいことに、牛乳を与えてしまったことは結構あった。其れのせいで太がより虚弱な子供になってしまったともいえなくもない。

「じゃあ、それならどうしたらいいのかしら。私、赤ちゃん用品の店に行ったんだけど、定休日で、粉ミルクが買えないのよ。」

禎子はとりあえず自分の困っていることをそういうと、

「なるほど、そういうことだったのね。じゃあ、いいところがあるから、案内してやるよ。別に怪しい

所でも、怖いところでも何もないよ。連れて行ってやるから、ついてきな。」

杉ちゃんはカラカラと笑って、車いすを別の方向へ動かした。禎子は彼に従うか迷ったが、どっちにしろ太には何かをあげないといけないので、彼の後へついて行った。

「ほれ、この家だ。諸星正美という女性が、ヤギの乳を北海道から仕入れて販売しているから、分けてもらうように言ってみな。」

杉ちゃんはある一軒の家の前で止まった。

確かに、諸星と表札には書かれているが、どこにも店舗部分らしきものはなく、商売をしているようには見えない。

「ほら、言ってみろや。出ないと太君また泣き出すぜ。」

杉ちゃんにそういわれて、禎子は覚悟を決めて、インターフォンを押した。すると一人の女性の声がした。はい、何でしょうかと聞こえてくる。

「あの、こちらでヤギの乳を販売していると聞いたのですけれども。」

禎子がそういうと、優しい声で、はい、すぐ行きますと応答があって、がちゃんと玄関の戸が開いた。出てきたのは、諸星正美さん、その人であった。

「はい、トカラヤギの乳ですね。何本必要になりますか?」

諸星正美はにこやかに言った。手には、500ミリリットルのペットボトルが一本握られている。ボトルには、トカラヤギの写真が貼られていた。

「こちら、北海道幌延町から直送してきたトカラヤギの乳です。主にネットで販売を行っているのですが、アレルギーをお持ちのお子さんも飲むことができますし、母乳と成分が近いということで、来訪して買われる方もいらっしゃいます。」

諸星正美にそういわれて、禎子はとりあえず、一本くださいと答えた。

「一本じゃ絶対今日中になくなっちまうよ。五本くらいかっていったらどうだ?」

杉ちゃんがそういうと、太がもう我慢できなくなったのか、わーんと声を張り上げて泣き始めた。すると、諸星正美さんが携帯用の哺乳瓶はありますか?と禎子に尋ねる。禎子は太を杉ちゃんに預け、鞄の中にあった携帯用の哺乳瓶を正美さんに渡すと、正美さんはその中にペットボトルの中身をだして、禎子に渡した。禎子が太を杉ちゃんから受け取って、太の口元に、哺乳瓶を持っていくと、太は待っていましたと言わんばかりに哺乳瓶に食らいつき、中身を飲み始めた。

「良かったな。間に合って。」

杉ちゃんは、一生懸命ヤギ乳を飲んでいる太を見てカラカラと笑った。

「一瓶五百円で結構です。必要な分持ってきますので、何本ご入用なのか言ってくだされば。」

正美さんにそういわれて、禎子はとりあえず、五本買っていくことにした。粉ミルクに比べたらずいぶん高価だけど、それだけヤギの乳は希少価値があるものだ。

「ヤギの乳だけではありません。カリブーの乳も扱っていますし、ヤギのチーズなどもありますので、よろしかったらいつでも買いに来てください。」

諸星正美さんは、禎子に一枚の紙を渡した。禎子はありがとうございますと言って、それを受け取った。

「ありがとうございます。あたしたちは、押し付けるような商売はしませんから、いつでも相談してくださいね。」

と、にこやかに言って諸星正美さんは、紙袋に入ったペットボトルを彼女に渡した。ああよかったこれで何日かはミルクを買いに行かなくて済むと禎子は思ったが、

「あのなあできることなら、ミルクを買わないで済むということではなく、ミルクを買ってやることに、生きがいみたいな気持ちでやってくれよな。」

と、杉ちゃんから指摘された。そうだよなあ、子育てというものはそういうものだ。なんだか切羽詰まった気持ちがとれた時点でやっと、こういう気持ちがわいてくる。育児というものは余裕がないとできないなと禎子は思った。さすがに杉ちゃんからは、バイオリニストをやめろという指示はされなかったが、練習で余裕がなかったりすると、太にしっかり向かえなくなってしまうということは確かなようだ。やがてミルクを全部飲み干してしまった太は、満足したのか、大きなため息をついて寝てしまった。禎子はペットボトルが入っている紙袋を腕にかけて、太を抱きかかえて、ありがとうございました、と丁寧に頭を下げて、正美さんのお宅を後にした。

杉ちゃんもバラ公園までは彼女と同じルートをたどって帰ると言った。太も眠ってくれたことだし、杉ちゃんとバラ公園の東屋で少し休憩しようかと禎子は思った。急いで自宅に連れて帰ったら、隣のおばさんにまた何か言われるのかもしれないので、それはいやだという気持ちもあった。

杉ちゃんと禎子は、二人で世間話をしながら、バラ公園の近くに来た。しかし、バラ公園は、いつもと雰囲気が違っていた。なぜかすごい人垣になっており、けたたましいエンジン音が公園中に響いている。こんな大きな音がする車何てあったかなと杉ちゃんが言った。禎子も公園の中を見ると、公園の中心には大きなヘリコプターが止まっている。

「しっかしなんでこんなところにヘリコプターが止まってるんだろう。テレビドラマのロケでも来たのかな?」

と、杉ちゃんが思わずつぶやくと、ヘリコプターの四方八方には、警察関連の車が、サイレンを鳴らしながら多数集まってきた。そして、警官たちが車から降りて、ヘリコプターのほうに走っていく。

「おい、何があったんだ?」

と、杉ちゃんが思わず、警察官の一人に聞くと、

「傷害事件です。」

と、警察官は答えた。つまり、誰かがけがをしたということか。よくよく見てみると、バラ公園近くには、何軒か住宅がたっている。その中でひときわ大きな住宅の玄関がガチャンと開き、中から五歳くらいの男の子が、救急隊員の手によって、担架に乗って運び出されていくのが見えた。隣には多分、救命医か誰かだろうと思われる男性がいる。その人が、必死で何か言っている声が聞こえてくる。あまりにも早口すぎて、何を言っているのか、禎子には聞き取れなかったけれど。

「おい、くも膜下出血だってよ!あれは中年のおじさんがなるもんじゃないのかよ!」

と杉ちゃんが言った。つまり、外傷性くも膜下出血だ。ということはよほど強く頭を打ったのだろう。たとえば作業をしていて梯子から落ちたとか、階段から突き落とされたとか、そういう大きな怪我だ。

「可愛そうな少年だな、一体誰のせいで、こういうことされたんだか。」

杉ちゃんと禎子は、何も言えないまま、担架の少年が、ヘリコプターに収容されていくのを見ていた。救命医の先生も一緒に乗り込んでいく。つまりそのヘリコプターはドクターヘリだったのだ。多分、富士の中央病院のような地方の病院では賄いきれないので、脳神経外科の権威のある所に連れていくのだろう。くも膜下出血と言えば、致死率も高い、非常に大きな怪我だと思うから。車で道路を走っていくよりも、ヘリコプターで飛んでいったほうが、早く着くのは言うまでもないので。

「あ、親が出てくるぞ!」

いきなり杉ちゃんがでかい声で言ったので禎子ははっとする。先ほどの家の中から、今度は若い女性が、手錠をはめられて、警察官と一緒に玄関を出てきた。本来、犯罪者は顔を布などで隠すのが通例であるが、彼女はそれをしていなかった。彼女の顔は、けっして平気で悪いことをするようには見えなかった。そんな、いわゆるチャラチャラした女性という感じでもなかったし、今時の親のような、子供に過度に厳しすぎるような感じの女性でもなかった。どこにでもいそうな普通の女のひとという感じ。

「えー、こちら、静岡県富士市の事件現場です。ただいま、五歳の息子さんに重傷を負わせたとして、母親が逮捕されました。はい、ただいま警察署に向かっていく模様です、、、。」

もう報道陣が来ているのか。黄色い女性の声が、そういっている。責めて逮捕されたときくらいそっとしてやればいいのに禎子は思ったが、日本の報道機関というのはよほど暇なのか、こういう事件にはこぞって取材に来るらしいのだ。女性は、警察官と一緒にパトカーに乗り込んでいった。その時禎子は、もうこうなってしまってもしょうがないと思い込んでいるような、彼女の顔を見てしまった。禎子はぞっとした。そんなふうになってしまうのだろうか。だってもし、処置が遅れてしまったら、あの少年は、生きていないかもしれないじゃないか、、、。

とりあえず、彼女を乗せたパトカーがその場を立ち去っていくと、人垣は解散して、やじうまたちは、それぞれの思い思いの場へ戻っていった。報道陣たちは、パトカーの後を追いかけていった。僕らも戻ろうかと言って、杉ちゃんも自宅へ帰ろうと車いすを動かし始めたが、

「ねえ杉ちゃん、もう少し待ってくれる?」

と、禎子は言った。杉ちゃんがなんでだと聞くと、

「ええ、太を安心させてから帰りたいの。こんな大事件が起きたのを目撃させたままで、家に帰らせるより、一寸バラ公園の花でも見て落ち着かせてから帰ろうと思って。」

と彼女は答えた。

「そうか。じゃあ、植物があるところではなく、人間がいるところに行かないか。花なんか見てもお前さんは落ち着かないだろう。太君も。」

杉ちゃんは、こういうところは非常に優れている。すぐに何をしたいのか、不思議な能力のようなものがあるらしくて、こうして読み取ってくれる。ある意味口に出して言わなくていいから楽だ。でも、ほかのひとには大体杉ちゃんのような能力はない。

「じゃあ、製鉄所でちょっと世間話していくか。」

杉ちゃんに言われた通り、二人は、製鉄所に向かった。太君は、その道中ふんふんとかううーとか、彼の言葉で何か言っていた。もし、彼がもっと大きくなって、ちゃんと自分の言いたいことを成文化できるようになったら、きっといろんなことを言うんだろうなと禎子はおもった。

しばらく歩いて、一寸つかれたなと思い始めたころ、杉ちゃんが、

「ついたぜ。」

と、日本家屋ふうの建物の前で止まる。

「よし、入ろう。」

製鉄所にはインターフォンが設置されていなかった。杉ちゃんが引き戸を開けると、利用者の女性が、はいと声をかけてきた。

「水穂さんいる?」

と杉ちゃんがいうと、

「はい、今、三時のおやつをたべたところです。」

と利用者が答えるので、つまり水穂さんは、体調がいいらしい。悪い時には、ご飯をあげても、おやつをあげても、何も食べないで寝ているだけになってしまうので。

「ああ、沢村禎子さんですね。確か、蘭さんの奥さんのクライエントさんでしたよね。どうぞ上がってください。ちょっと散らかってますけど。」

と、利用者たちは、にこやかに禎子を迎え入れてくれた。こういう偏見のないところが、製鉄所の利用者たちのいいところなのだ。

「じゃあお邪魔します。」

杉ちゃんと禎子は、製鉄所の敷居をまたいで、中に入った。製鉄所内に段差は何もなかった。杉ちゃんも禎子もすぐに入ることができた。そのまま何も寄り道はせず四畳半に向かう。四畳半のふすまを開けると、水穂さんは布団で寝ていたが、やはり体調がよかったのか、杉ちゃんたちに気が付くと、すぐに布団に座ってくれた。

「まあ、無理しなくて寝たままでいてくれても結構だ。ちょっとお前さんと話したくて来た。」

と、杉ちゃんがぶっきらぼうに言う。

「杉ちゃんだけでなく、沢村さんまで?」

水穂さんは、一寸驚いたように言った。太君が、このきれいな男性を好奇心いっぱいの目で見た。きっと、ここまできれいなというか端正な容姿をした人物を見たのは初めてだったのだろう。杉ちゃんが、子供は切り替えが早いなとにこやかに笑った。

「ええ、ごめんなさい。もとはと言えば私がこっちに来たいなんて言いだしちゃって。今日は、杉ちゃんに助けてもらえたんだけど、帰り際にとんでもないものを見てしまったのよ。」

と、禎子は、今日あったことを残さずしゃべった。こういうことはしゃべってしまった方が良いと思った。心にためていたら、何かいけないような気がしたからだ。

「そうなんですか。」

水穂さんは静かに言った。

「でも、沢村さんは良かったですね。その逮捕された母親みたいな顔していなくて、僕は安心しました。」

「そうよね、、、。私も、ああいう顔にはなりたくないわ。ちゃんと子供が傷ついたら仕方ないじゃなくて、一緒に泣けるような大人になりたい。」

禎子は思わず本音をポロリと漏らした。それに乗じて杉ちゃんが、

「まあ、そういう大人になるには、周りからの援助がある程度ないとできないと思うけど。それができるってことはよ、生活が充実しているっていう事だからな。」

と、腕組みをしてそう言ったので、禎子もその通りだと思った。そういう大人というのは、周りである程度援助してやれる環境でないとなれない。逆に感性豊かな大人というのは、家族関係や友達関係が比較的平穏で、しかも問題点が少ないということによって初めて生まれるものなのである。

「そうですね。子どものほうがきっと、何十倍も優れた感性を持っていて、それに大人が振り回されるのが今の社会なんですけどね。まあ、確かに、理想としては、そういう大人が一番子供さんにはいいんでしょうね。」

水穂さんは、そういった。禎子は水穂さんにはとてもできることではないだろうなと思った。水穂さんにはそれができるような体力も残されていないだろう。

「まあでも、そういう大人になれるように努力しているという姿勢を見せるか見せないかだけでも違いますけどね。」

もう一回水穂さんがそういうことを言って、禎子はそうねと頷いた。

「私も、子どもにけがをさせて、肩の荷が下りたと勘違いするような大人には、なりたくないわ。」

近くで杉ちゃんが、炭坑節を口笛で吹いているのを聞きながら、禎子はそうつぶやいた。太君は、その間も、この異質な空間を子供らしく、かわいらしい目で見つめていたのだった。


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ヘリコプター 増田朋美 @masubuchi4996

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