水海館にて

@alfirjg7k4ht

水海館にて

 親友夏暮なつくれは熱いラムネ水を好物としていて、演奏会に行く時、観劇する時、オペラグラスと共に持参してくる。夏がお似合いの冷え切ったラムネソーダではなくて、彼の好みというやつは炭酸の抜けきって肌ぬるくなった嘘のレモン水だった。それを沸騰させてから水筒に注ぎ込んで携帯しているから、彼の呼気は人口のレモン香となって僕の胸を甘くさせた。

 時々、胸焼けを起こさせもするけど、親友との出会いがその香りのする水海館すいかいかんだったのならば、胡散臭うさんくさい因果とやらを信じざるを得まい。っぱい香りを嗅いだ時、死んだ海底めいた水海館が、何か一つ失っていた使命を僕に取り戻したような、半幻想の直感を得るのだ。

 けれども半ば居眠りをしていた僕なので、こんな事は馬鹿馬鹿しい、思い込みにしようとする思い込みだ。ラムネを煮沸消毒しなければ飲めないのなら、それに憧れているだけでいいさ。綺羅星波止場のアイツのように。

 夏暮は薄暗い硝子ガラスを通して深海魚に魅入っているところだった。釣り針のようにひしゃげた敵意ある形の驚異を指差して、見知らぬ友達であろう僕に尋ねてきた。

 「あいつは雄かな、双子かな」

 少なくともそれが彼にとってどうでも良い事なのは確かだ。僕も彼もさびれた市営水海館にやってきたのは、昼夜を介さない暗室に閉じこもるためだ。深海魚の生態に合わせて室内照明は落としてある。人気ひとけの無い、適温に調整された見物路へ腰掛けて彼は密めいた。

 「あの雄の深海魚、好き勝手に泳いでいるようだが、そう遠くない頃に死ぬさ。ただ泳いで水流を起こして、跡は何にも残りゃしない。せいぜい糞尿くらいなもので、本能に従って泳いだってそれが何になろう。餌をやる職員とか水質管理をする奴とかの心一つで、皆死んでしまう。

 俺みたいなもんさ、誰かの采配一つで暮らしてゆけない無能力な生き物。朝が来る度、俺は悪態をつくさ。一日の始まりは苦悩の初まりで、そのたんびに俺は仕事を持たない穀潰ごくつぶしと自覚するからだよ。朝なんか来なけりゃいい、ずっとずっと眠りの夜でいてくれと思うけど、無駄だから……こうして人気の無い薄明かりのアクアリウムに訪れるんだよね。ここでは時計の流れが幾分ゆっくりと感じられるけれども、夜明けを止める事はできない……けれども朝の始まりは苦しみの初まりだから、その度毎たびごとに俺は仕事を持てないロクデナシと自覚するから――云々」

 恥知らずな朝の訪問を刻む時間という奴――僕にも彼にもこの場の暗さを透かして視えている。精神をなだめるためにもこのような場所は大事であったが、一時の気慰きなぐさみに過ぎず、太陽が居場所を消してゆく。夏暮は一言「助けて」と、ぼんやり、どこか芝居がかって付け加えた。

 誰かの有名な楽曲が放送されている――テトテトテトテトテトテト……。

 これは『エリーゼのために』だ。僕の気のせいでなければ先ほどから同じフレーズが繰り返され……機材の故障だと上の空に思っていた。夏暮なつくれが幾度も同じ言葉を繰り返そうとしたのも、エリーゼの仕業なのだろう。この曲は反復で出来ている。瞼を閉じればその高低音の描く反復の主題が、二人を現実に囲う五線紙である事と分かる。  

 夏暮は水筒に口をつけると、天井のスピーカーを見上げて、

 「どこかへ逃げ出したいよ、手首を切りたいよ、でもそんな度胸もないし、首を吊る時の生臭い苦しみがおっかなくて、死後の自分に脅えている。人は誰でも糞尿袋さ、体から汚物がはみ出すのも死後の事なのに心配してしまう……うまく『エリーゼのために』からまれば、俺だって静かに生きてゆけるはずさ。電離層を飛び越えて……。あんな綺麗きれいな旋律だもの」

 深海魚の一匹がこちらを振り向いた。マンドルラのような形に黄色の目玉が埋め込まれた、妖しい、海溝に眠る鉱山物を連想させた。そいつが僕らを視ているようで、その実、別の空間を凝視しつつ歌った……まるでそいつは、水晶の畸形だった。

 マヘル・マヘル・マヘル・マヘル――と、『エリーゼのために』唄った。

 夏暮は仔細に書き留めている。



 おわり

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