夏とファンタジックの侵攻

神埼えり子

邂逅

「凌也、お前は、“魔法”の存在を信じるかい?」


 五年前と同じように投げられる問い。

 かつての俺は、それになんと答えたんだっけ。



 オリンピックが東京で華々しく行われてから久しく、その幕が閉じられてから六年の時を経ても日本は熱狂の余韻に長いこと浸ったまま、今に至る。今年も夏は人類を殺さんばかりに暑く、そうにも拘らず人々は忙しなく働き、学ぶ。

 二〇二六年。今年の受験生である矢矧凌也やはぎりょうやは未だ街の随所に残される丸い市松模様を睨みつけ、一昨年フランスでやってただろーが、まだ開催国気分でいんのか、それについ去年に万博もやったろうに、と声に出さずに悪態をついた。目に映る全てがばかばかしく見える年頃で、凌也もそれは例外でなく、何にも身が入らずぶらぶらと揺蕩うように夏を生きていた。真剣に取り組んでいた唯一のものと言っても良い部活動――剣道は去る七月に引退戦をとうに終え、部活に顔を出す大義名分を失った今では燃やす熱もないままに、進路活動にも意味が見いだせずにいる。

 ――大学に行こうったって、特に就きたい職業もねえし、学びたいこともねえし……何で俺はこんなことをしてんだ?――そう心の中でごちて、疑問と猛暑による不快感から眉間にしわを作り今しがた後にした塾の看板を見上げた。

「……馬鹿らし」

 それを何に向けて呟いたのかは、凌也自身にも分からなかった。


 帰路、バスや電車を必要としないくせに徒歩だとやたら地味に時間のかかる位置にある塾が厭らしく見える。今日は午前に雨が降ると予報されていて、ならば今日は自転車を出さない方がよいと想定したものの、実際にはこの雲一つないド晴天だ。凌也の心は晴れ空と反比例に曇った。

 ため息を吐き出しつつ歩いていた時のこと。ふと、スマホの画面がひとりでに明かりを灯したことに気がついた。立ち止まってみると、記憶にない名前の誰かからメッセージが届いていたようだった。怪訝に思いつつも、メッセージを送受信するアプリは普段から友人間や身内間で使っているSNSだったために、誰かから自分を探し当てたのか、と少々警戒しながらメッセージをタップした。

 久しぶり、と言う彼に、凌也は首を傾げる。母からアカウントを教えてもらったと言うために、親戚の誰かであるとは見当がつくが、その名前を見てもどうしても凌也はメッセージの送り主を思い出せなかった。

『誰?』

 無礼は承知だが、素直にそう訊いた。メッセージを送り、スマホを気にしつつ歩く最中、メッセージが帰ってきた。

『なぎさだよ。覚えてる?五年前、一緒にFF7やったの』

「FF……」

 単語が頭に引っ掛かり、立ち止まる。すると、かつての記憶がバッと、波のように舞い戻ってきた。


 なぎさ――吾野あがのなぎさは、かつて家の隣に住んでいた、五歳年上の青年だ。

 彼との記憶の始まりは小学一年生にさかのぼる。当時、引っ越してきたばかりだった凌也に、彼はやけに世話を焼いてきた。その頃から凌也は人見知り気味の少年であったが、彼に対しては次第に心を開いていき、結果的には学校終わりに互いの家に遊びに行くような仲まで発展した。

 交流は二人が進学してからも続いた。しかし、その記憶は中学一年生――なぎさが高校三年生の時で途切れている。彼の高校卒業以来、彼には一度も会っていなかったし、消息さえ分からなくなってしまっていた。

 そんな彼との、明確に思い出せる最後の記憶がこのFF7だった。今からちょうど五年前の暑い日の話だ。彼の家を訪ねた時に、一緒にやらないかと取り出してきたゲームだった。つい最近にリメイク版が発売されたのだという。前から途中まで出てたけど、最近やっと完結まで出てきたから、と。記憶の中のなぎさはゲーム機の準備をしながら言っていた。

 技術の進歩は本当に速い。なぎさがゲームをしている途中、リメイク前のゲームをプレイする動画も観たが、それとまるで別作品である様を見て当時の凌也は大いに感激した。そこから先はただただ子どものように直感ですごいすごいとはしゃいでいた。そんな簡潔な記憶ではあるが、凌也にとっては綺麗な青春の一ページだった。

 ――そのとき、なぎさが投げかけた問いが、未だに頭のどこかに引っ掛かっている。



「凌也、お前は、“魔法”の存在を信じるかい?」



 ――この問いに、かつての自分が何と答えたかは、覚えていない。




 そんな過去話を思い返していたら。なぎさのメッセージが随分と過去に贈られたものになっていることに気づいた。慌てて凌也はメッセージを送る。

『覚えてる』

 たったそれだけ。

 それから、好きな子からの返信を待つ男子生徒のように、スマホを両手で抱えて画面を凝視してしまっていた。この酷暑の中で。その暑さで正気を取り戻した凌也は、苛立ったように顔を顰めると、急いで帰ろうと速足でじりじりと蜃気楼に揺れるアスファルトを踏みしめた。


 ずんずん歩く中、ちらとスマホの画面を見やる。


『久しぶりに自由にできる日が出来たんだ』

『良ければ会わない?今、東京駅のカフェにいるんだけど』


 前方、信号が赤を示しているのを確認して、急いで返信を打った。


『会える』

『今塾の帰り』

『ちょっと待ってて』


 頭上から、人工的で不自然な鳥の声が聞こえてきた。信号は青になっていた。

 暑さも今は気にならない。振り切ってしまえる気がする。凌也はそんな感覚を胸に抱き、走り出した。

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夏とファンタジックの侵攻 神埼えり子 @Elly_Elpis_novels

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