彼女の暗号

たなかそら男

彼女の暗号

 送り主――不明。メールアドレス――不明。内容は――。


【0d0a436f6e67726174756c6174696f6e】


 目に飛び込んできたのは、小文字のアルファベットと数字の羅列。液晶に映し出されたそれを、彼女は熱心な顔をして、僕に見せてきた。

「どう?」

「どうって?」

 僕は、彼女に言った。

「どう思う?」

 僕の質問に、彼女は答える気はないようで、今は自分のターンだと言わんばかりの声色で、必死なほど目をキラキラと輝かせて、同じことを繰り返し訊いて来た。

 

 ここは、僕の部屋。その玄関。

 去年ニ十歳の誕生日を迎えた僕に、両親が、一人立ちをしてみろ、と言って手続きを勝手に済まされて、住むことを余儀なくされた部屋なのだが、いざこうして過ごしてみると、一人で暮らすのは案外心地よかったりする。今年の春から住み始めて、やっとこの部屋での一人暮らしに慣れ始めた今夏。突如として、高校時代の知り合いであった彼女が僕の部屋に押しかけて来た。

 まだ朝七時だというのに、彼女は、汗水垂らしながら、僕の部屋のドアを叩いた彼女の言い分はこうだった。

 

 昨日の夜。彼女のスマホが一件のメールを受信した。それだけなら、まだなんともないただの日常の一コマで話は終わっていたのだが、もちろんそんなはずもなく。彼女がここまで目を血走らせているのには、当然それなりの理由があった。

 メールには、どうにも送信元が記載されていなかったのだという。さらには、メールアドレスも適当に文字を並べただけのもので、どうやら彼女の知り合いにそんな適当な人間などいないらしく、結局送信元が誰なのか、全く分からなかったのだという。

 それだけなら、ただの迷惑メールで話は済んでいた。けれど、ここからが本題なのだ。

「どう見ても暗号でしょ!?」

 彼女が大声でそう言いながら、興奮気味に飛び跳ねる。

「落ち着けよ。壁そんな厚くないから」

 さすがにアパートの一室で、朝七時からそんな大声を出されたら、いくらなんでも近所迷惑すぎる。けれど、完全に興奮状態に入ってしまった彼女には、そんな事すらどうでもよかったのかもしれない。

 彼女の名前は、黛ゆりみ。

 僕と彼女は、高校時代からの付き合いで、当時は、真面目に数学部に所属しており、その頃から、彼女はよく僕にこんな顔をして質問責めを食らわす事があった。だから、今となっては少しだけこの状況が懐かしいとすら思ってしまう自分がいたのも事実である。

「それにしても、よく僕の住所が分かったな」

「大変だったよ〜、友達の親に樹男みきおのお母さんに連絡してもらって、わざわ、そこから樹男のお母さんに住所を聞いたんだよ?」

「なぜそこまでする」

 僕の返しに、彼女は、えへへ〜、と照れたような顔をする。もちろん、ここは照れるところではない。

 結果的に、彼女は昨晩から約数時間で僕のアパートまで辿り着いて、わざわざ、その奇怪なメールを見せに来たのだ。その行動力だけは、さすがに常人だとは思えないけれど、彼女がここまで来たということは、ただ見せに来ただけではないのだろう。

「樹男なら解けるかなって」

「そう言うと思ったよ」

「よし、じゃあ入るね」

「おい、待て」

「大丈夫!汚くても大丈夫!」

「こっちが大丈夫じゃないんだよ!」

 このまま玄関で話を済ませようと思っていたが、非力な僕には、部屋のリビングへ猛進する彼女を食い止める力はなかった。そのまま引きずられるようにして彼女の腕に捕まる事しかできなかった僕は、ついに彼女を僕の部屋のリビングに入れてしまう。

「うわぁ、ホントに汚いね」

「だから言っただろ」

 彼女は僕の部屋を見て、案の定、居心地が悪そうな顔で僕を見た。部屋の奥から今にも流れ込んできそうなダンボールの山、隅っこに寄せられて必死に存在感を消そうとしているゴミ袋、そして飲みかけのペットボトルがどういうわけか、あちらこちらに散乱している。散らかっているという自覚はある。けれど、だからといって、それを意識して片付けられるぐらいなら、そもそも散らかしてなどいない。

「僕の住処はこの部屋ではじゃなくて、この部屋のベッドなんだよ」

そう。そこだけが片付いていれば、僕は何とか生き続けられるのだ。今も、昔も、ずっとそうだった。

 遡ると、中学生の頃からの話になるのだろうか。僕は、その頃から既に一際空気的な存在だった。僕が教室にいようがいなかろうが、周りのクラスメイトにとってそんな事はどうでもいいことでしかなく、誰も僕に対して興味を抱くことなんてなかった。それが、三年間続いて、僕は心のどこかで、自分の人生というものに諦めをつけていたのかもしれない。中学三年生になって、僕は引きこもりがちな生活を送っていた。特に月曜日は、学校に行こうとは思えない。五日間の疲労をたった二日で癒せるはずがない。そう自分に言い聞かせて、月曜日に学校に来ない事を正当化していた記憶がある。けれど、何とか進学することができた高校一年の春に、この黛ゆりみという女子に部活に誘われたため、僕には学校に行く理由ができたのだ。だから、それからは、なるべく学校に行くのが辛くても、歯を食いしばって身体に鞭を打って、なんとか学校に通っていた。

 それが高校三年間。ずっと続いたのだ。

 今思い返せば、はっきり言って苦痛だったような気もする。だから、僕は大学に進学するという道を選ばなかったのだ。大学に進んで何かを学びたいとは思わないし、きっとこれから先の人生でもずっと一人で生きていく僕にとって、良い大学に行って良い就職先に就くことなど、二の次でよかったのだ。

 そうして、いつの間にか二十歳になり、今年で二十一になる。時間は刻一刻と過ぎていくなか、彼女は大学でキャンパスライフを謳歌していることだろう。一方僕は、自分の部屋のベッドがいつどんな時でも、離せない生活を送っていた。

 惨めだということは理解しているが、もうどうにもできない段階まで、僕は進んでしまったのかもしれない。

「じゃあ、もう一回そのメール見せてくれ」

 散らかった地面のごみを、さらに壁側に追いやって、僕は久々に部屋の床に座る。

「うん、分かったよ。でも、掃除しないの?」

「暗号を解きたいのか?掃除したいのか?どっちなんだよ」

「え、えっと。じゃあ、先に暗号を解こう!」

 彼女は、僕が少しだけやる気を見せたことに気づいたらしく、すぐに僕と同じように地面に散乱しているごみ袋をどかして、床に座った。

 僕は、玄関で無理やり彼女に見せられたメールの内容を再度確認する。すると、彼女がぽつりと呟き始めた。

「アルファベットと数字……。どこかで見た事がある気がするのよ」

「それは多分、僕が高校時代に教えたからだな」

「樹男が?」

「うん。数学部で」

 数学部に所属していた僕と彼女は、数学部の本来の活動するほか、暗号解読をしてよく遊んでいた。このようなアルファベットと数字の羅列から出来上がる暗号は、よく僕が好んで解いていたものだった。それを当時まじまじと見ていた彼女だからこそ、今回このような意味不明なメールが届いても、すぐに「暗号だ」と気づくことができたのだろう。

「解き方も教えたはずなんだけどな」

「うーん……憶えてないよ、てへっ」

「てへ、じゃない」

 僕はそんな彼女に呆れて、ため息をついた。

 やはり、懐かしい。

 ふいにそう思ってしまう。

「樹男は解けたの?」

「あぁ、解けたよ」

「うそっ!じゃあ、答え教えてよ!」

「いやだ」

「なんでっ!?」

「暗号は、自分で解かなきゃ意味ないだろう」

「なにそれー?」

 彼女は、面倒くさそうにそう言った。

「まぁヒントでも教えようかな」

「え、教えて!」

 僕がそう言ったのに対して、彼女はまるで餌を与えられた子犬のように飛びついた。

「その前に、コンビニにでも行こうっかな~」

 僕はそうふざけながら、その場から立ち上がって、ズボンの後ろポケットに財布を入れる。待ってよ~、と彼女が後ろからほいほいとついて来た。僕は、そんな彼女を見て、ふっ、と笑ってしまった。

 

 部屋に鍵をかけて、アパートから出た僕らは、それからしばらく歩いて、ここから一番近いコンビニを目指していた。夏だからか、朝七時でも充分日差しが強くて、僕にとっては眩暈がするほどの暑さだった。昼になったら、僕は溶けていなくなってしまうかもしれない。そんなふうに暑さに耐えきれずに今にも倒れてしまいそうな僕とは違い、彼女は涼しい顔をして僕の隣を歩いていた。大学生になって髪を染めたのだろうか。茶髪というよりは金髪に近いとも思えるその髪が、僕の隣で靡いているだけでも、僕からすれば新鮮すぎて目を合わせられないぐらいの緊張感があった。

 やはり、彼女は、綺麗なのだ。

「そういえばさ」

 すると、彼女が話始める。

「今何してるの?」

「コンビニに向かってる」

「いや、そういう意味じゃなくて」

「はいはい。今はニートだよ」

「ほんとに?」

「あぁ、ほんとだよ」

「あの段ボールは?」

「あの段ボールは、今年の春に引っ越して以来、ずっと置きっぱなんだ」

「片付けてないの?」

「片付けるところがなかったんだよ」

「あー……」

 彼女は、たしかに少し狭かったものね、と納得したように、その小さな頭をコクココと頷かせた。

「コンビニで何を買うの?」

「そうだなぁ。コーヒーとか」

「決めてないの?」

「決めてないな」

「相変わらず適当ね」

「相変わらず適当だよ」

 オウム返しみたいな会話。

 それが、高校時代の僕らのコミュニケーションだった。それが今も成立している事に、僕は内心とても嬉しかった。端から見れば、この会話はコミュニケーションが取れない人間のものにも見えるかもしれないけれど、僕らにとっては、このオウム返しが一番安心する会話方法だったのだ。彼女もそれに気づき、ふふっと笑い声を漏らしていた。

 そして、彼女が続ける。

「それにしても痩せてるね」

「痩せてるか?」

「うん。私よりも痩せてるように見えるよ」

「そんなことないだろ」

「いいえ。樹男、ちゃんと食べてるの?」

「どうだろ?最近忙しかったからさ」

「忙しい?ニートなのに?」

「ニートだって忙しいのさ」

 そんな会話をしていると、僕らはコンビニに着いた。そそくさとコンビニ入ると、身体全体に冷気が一気に吹きつけてきた。身体に滲んでいた汗を容赦なく冷やしてしまうため、彼女は僕の後ろで「さむっ」と言っていた。けれど、これが一番心地いいということを、僕らは知っている。

 コンビニで何を買おうかと悩んでいたら、今度は彼女が何やら大きめの袋入りのお菓子を持ってきた。どうやらチョコレート系のスナック菓子の寄せ集めらしい。

「これ、買いましょう!」

「あっそう」

「はい」

「いや、はいじゃなくて」

 彼女は、僕の胸元にそのお菓子袋を渡してきた。どうやら、奢ってくれということらしい。

「自分で買ってくれよ」

「無理よ。あなたの家に行くまでに手持ちのお金なんてすっかりなくなってしまったわ。ほらっ」

 彼女は、使えない小銭がほんの少しだけ残っている自分の財布を僕に見せてくる。

「これ、買ってもいいけど。代わりにヒントは教えない」

「えっ!?」

「当たり前だろう。そもそもあの暗号も、そんなに難しいものでもないし」

「え、ちょ、樹男〜」

 彼女は僕の発言を聞いて、お菓子袋を棚に戻すかどうかを頭の中で葛藤して苦しんでいる。

「嘘だよ。ちゃんと買ってあげるよ」

「え、い、いじわる〜」

 僕の冗談に面白いくらい食いついた彼女は、ほっと胸を撫で下ろすと同時に、いじわるをする僕に、頬を膨らましてペシペシと叩いてきた。僕はそんな彼女を見て笑いながら、商品をレジに持っていく。

 途中、彼女が「これも買って」とオレンジジュースを持ってきたので、仕方なく商品をレジに通した。そういうところが彼女らしくて、とても懐かしい。

 コンビニでの買い物が終わると、僕らは、寄り道をせずに大人しく帰路に着いた。

 道中は、来た時よりも確実に暑苦しくて、気を抜けば本当に倒れてしまうんじゃないかと思ってしまうほどだった。

「今度海にでも行こうよ」

「泳ぐのか?」

「ううん、夏を感じるだけ」

「泳げないもんな」

「うるさい!本当のことを言わないで!」

 そんな会話をしながら、僕らは来た道を戻っていく。不思議と、行きよりは帰りの方が、時間を短く感じた。

 部屋に着くと、彼女は、僕の部屋のベッドに飛び込んだ。

「あ!樹男の匂いがする!」

「やめろ変態」

「ひっど〜」

「ひどいのはゆりみだ」

 僕はそんなことを言って、ベッドで横になる彼女にオレンジジュースを投げつけた。

「樹男は何も飲まないの?」

「冷蔵庫にある」

 そう言って、キッチンにある冷蔵庫からチューハイを取り出して、その場で開封した。プシュッと、心地いい音が部屋中に響いたため、彼女も僕がチューハイを飲み始めたことに気づく。

「あ!飲んじゃうんだ!」

「だめなのか?」

「だめだよ」

「まぁ飲むけど」

「あぁ!」

 自分だけオレンジジュースなのが気にくわないように彼女は悔しそうな顔をした。しばらくすると彼女は疑問そうな顔で僕を見た。

「そういえば、樹男なにも買わなかったね」

「そうだな」

 僕は缶チューハイをぐびぐびと飲みながら、彼女に返事をした。

「ずるいなー、私だけオレンジジュースだなんて」

「自分で選んだんだろ」

「ぐっ、何も言えない」

 彼女は口先をつんと尖らせて、不満そうな目で僕を見た。僕はそんな彼女の前で堂々と缶チューハイを飲み干してやった。それを見た彼女は、さすがに諦めたのか、僕のベッドに埋もれるようにうつむきになった。僕はそれを見て、ため息をつく。このため息は、面倒くさいからでも、呆れたからでもない。きっと、再び僕の感情を覆いかぶさったその懐かしさに、タメ息をついたのだ。

「なんだか、懐かしいね」

 彼女が、口元を僕の枕にうずめてそう言った。

 彼女が言うのだから、きっと僕のこの感情は気のせいなんかではないのだろう。

「そうだな」

 僕はそう返す。

 しまった。

 少しだけ、声が震えてしまったかもしれない。きっと、彼女もそれに気づいただろう。けれど、彼女は、何事もなかったようにベッドから下りて床に座った。

「じゃあ、ヒント教えてよね」

 そして、そう僕に言う。

 彼女は優しい。きっと僕のことだから、露骨に動揺して声が震えていたはずなのに――そして彼女はそれに気づいていたはずなのに――僕に恥じをかかせないようにと、知らないフリをしてくれた。

 本当に、彼女は優しい。 

 だから、僕は今でもこんな人間なのだろう。

「ヒントなあ」

 僕は、彼女と向かい合うようにちゃぶ台を挟んで座る。 

「バイナリーって覚えてるか?」

「ばいなりー?……二進数のこと?」

「そう。その二進数の暗号を短くしたのが、それだ」

「……ということは」

 彼女は首を傾げて考え始めた。

 きっと彼女は今、高校時代の数学部での会話を思い出そうとしているのだろう。高校時代の僕らはよくこの形式の暗号を解いていたので、その時の会話にきっとさらなるヒントがあると、彼女は踏んでいるはずなのだ。

「思い出したか?」

 しばらくして、僕は彼女にそう訊いた。

「うん、忘れた」

「おい」

 彼女は、その後も色々と頭を捻っていたが、結局何も出ずに強制的に僕に問いただし始めた。

「教えてよ~!もっと核心に近づけるヒント~!」

「揺するな、揺するな。アルコールが出てくる」

 ちゃぶ台(とはいっても、とても小さなサイズだけれども)を挟んで、彼女が僕の肩を掴んでぐらぐらと揺する。胃の中にあるものが全部出てきそうになって、僕も彼女の腕を掴んだ。この相手から強制的に答えを聴こうとする彼女特有のズルは、高校時代からよくあったものの、すっかり引きこもりになってしまって僕にとって、この揺れはもはや殺人的だった。

「これは十六進数だよ」

 当時ならもう少し堪えていたものの、今の僕はすぐに答えてしまうしかなかった。

「十六進数……?」

「十六進数は二進数を0と1の羅列を短くするために使われてるものだよ」

「うん」

「二進数が0と1なのに対して、十六進数は1から9までの数字とアルファベットで表記してる」

「ほぉ~」

「学生時代に何度も説明したけどな!」

 揺れは治まったけれど、さすがに僕の肩を掴む彼女の力が強すぎて肩が潰れそうだった。相変わらずとんでもない力をしている女だと思いながら、自分の身体が少しずつ衰えていっているのを感じた。きっとアルコールの呑みすぎだろう。

「解き方は?」

「ふつう、人の頭では解かない」

「えっ?」

「コンピュータが使う用の暗号だからな。人の頭でこれを解読することはあんまりない」

「えっ!?なに!」

「まぁ、これの送り主は頭で解いてほしかっただろうけどな。僕だってコンピュータなしで解いたし」

「じゃあ、私がここに来た意味ってなんなの!?」

「ほんとだよ。なんでお前ここに来たんだよ」

 彼女はそれを聴いて床に仰向けに倒れた。

 なんなのー、と嘆くが聞こえる。コンピュータで解けるような暗号なら、そもそも直接僕のところまで来なくてもよかったのだ。それを知って彼女はひどく落胆した。僕はそんなふうに呆れて倒れこむ彼女につい笑ってしまう。

「あとはまぁ、そのスマホで暗号解読するサイトとか調べて、その暗号を打ち込めば、答えなんて一秒で出てくるぞ」

「そんなぁー」

 世の中便利なったよな、なんて当たり前のことを言いながら僕はその場から立ち上がった。そして部屋の隅っこに置いてあったノートパソコンを立ち上げる。

「代わりに解いてあげるよ」

 パソコンが起動すると、僕は暗号解読サイトを開いて、そこに彼女に見せてもらった暗号を打ち込んだ。彼女はパソコンの液晶に食い入るように覗き込む。

 

『0d0a436f6e67726174756c6174696f6e』

  【変換】

『Congratulation』

 

 そして、一秒も経たずにパソコンは答えを導き出した。

「こんぐらっちゅれいしょん」

 彼女が下手な英語で解読された答えを読む。

「Congratulation……解読おめでとうって意味だろうな」

 彼女は、まるで思考が停止したように僕を見た。

「まぁ、所詮はこんなオチだろうと思ったけどさ」

 僕は、今度は呆れたため息をついてパソコンを閉じた。

 彼女はすっかり落胆しきってしまって、今にも泣き出してしまうんじゃないかと思うほどの形相で、歯を食いしばりながら僕を見た。

「なに?」

 僕は彼女に訊く。

「じゃあ樹男は、こういう答えだって、知ってたの?」

「うん、知ってた」

「なんで言ってくれなかったの?」

「言ったろ?こういう暗号は自分で解いた方が楽しんだよ。まぁ、ほとんどヒント出したけど」

 今にも泣き出しそうな彼女を横目に、僕はキッチンへ向かった。

「お酒でも飲むかい?」

「うーん、……うん!飲む!飲むしかやってられないよ!こんなオチ!」

「あはははっ!そうだな」

 すっかりヤケクソになった彼女を見てつい笑ってしまう。そして冷蔵庫から先程僕が飲んだチューハイと同じものを取り出して彼女に渡した。彼女はなんの躊躇いもなくチューハイを開封する。また、この部屋にプシュッと、耳を心地いい気分にさせる音が響いた。

「樹男ってお酒強いの?」

「強いわけじゃないけど」

「でも飲むのね」

「あぁ。潰れるぐらいまで飲んで、よく半日中寝てたりする」

「うわぁー。どおりでこのゴミの山なわけね」

 部屋に散乱しているゴミ袋の中には、空になって潰された缶チューハイがたくさん入っている。

「飲まなきゃ、やっていけないよな」

「ほんとそうだよ」

 彼女はグビグビとチューハイを飲んでいく。

 きっと彼女のことだから、大学生活で飲み会に行く機会だってたくさんあるはずだから、僕よりも断然お酒に強いのだろう。


 それから、二時間ぐらい経った頃だろうか。

 僕はベッドで仰向けになりながらスマホをいじっていると、彼女の静かな寝息が僕の耳に届いた。とても小さな寝息で、集中しないと気づかないぐらい可愛らしい寝息だった。物音を立てれば消えて無くなってしまいそうなぐらい微かなものだったのだ。

 ちゃぶ台の上にはチューハイが六本。時刻はまだ十時だった。昨日の夜から急いで、僕のところに来たので、かなり疲れていたのだろう。ちゃぶ台に突っ伏すように腕を枕にして、気持ちの良さそうな顔をして、彼女は眠っていた。

「まさか、本当に家に来るなんて思わなかったよ」

 僕は横目で彼女の寝顔を見ながら、そう言った。そしてスマホのメール送信済みボックスを開いた。

 そこには、彼女に送った暗号入りのメールが残されている。

「まったく……君は本当にバカだよ」

 この感情は呆れからくるものだろうか。それとも面倒くささから出来上がった感情だろうか。

 

 僕はきっと嬉しいのだ。

 再び彼女に会えて、嬉しかった。

 最後に彼女に会えて、本当に、嬉しかった。

 

 送信済みのメールボックスは、ほとんどが英語のメールばかりだった。

「……ゆりみ」

 きっと返答はないと分かっていても、僕は小さな声で彼女に言った。

「……来週からアメリカに行ってくるよ……」

 静かな寝息が聞こえる。僕は続けた。

「こないだSNS上で難問な暗号が話題になったよね。試しに解いたら、FBIの暗号解読班にスカウトされたんだ。FBIが優秀な人材をインターネットで探してるっていう都市伝説は聞いたことあったんだけど。本当だったんだね」

 彼女は起きない。僕は、まだ続ける。

「もう、会えないかもしれなくてさ。最後にキミに会っておきたくて。何かで繋がっていたいって思ってさ。このメールを送ったんだ。びっくりするくらい簡単に食いついて、さすがに笑いそうだったよ。でも、懐かしくて楽しかったよ」

 返事は返ってこない。けれど、それでいいと思った。

 

 僕は来週にはアメリカに渡ってFBIのサイバー捜査官になる。夢みたいな話だと思ったけれど、それでも、どうやらこれは現実らしい。他にも、アメリカの大学教授グループやインドの学者集団が、この暗号テストを解いたらしいけれど、日本はおろか、世界でたった一人、単独で暗号を解いた僕という人間がいたため、その人たちのスカウトは見送りになったらしい。暗号は今回ゆりみに送ったものとは違い、さらに複雑な暗号が、しかも複数重なっている超難問なものだったので、さすがに解くのには正直手を焼いたけれど、高校を卒業してからもずっと引きこもって色んな暗号解読に手を出してきた僕からすれば『あれ』よりはずっとマシな問題だった。

「海、行けないなぁ。ごめんな」

 そう、彼女に言ってみる。

 

 ずっと、恋は暗号だと思っていた。

 どんなに複雑に絡み合った、一見意味不明な二人でも、きっとどこかに『鍵』があって、それを用いればどんな暗号でも解読できるものだと思っていた。でも、実際は違った。

 恋は、もはや暗号にする必要がないほど。明確で、明白で、明晰な答えが初めから記載されているものなのだ。

 

 彼女に数学部に誘われて二年ほど経った、高校三年の夏の話だ。

 一年生の時はクラスが同じだったけれど、二、三年とクラスが同じになることがなく、その日も僕一人で部室までの校舎の廊下を歩いていた。

 そこで、彼女が廊下でとある男子と話している姿を見つけた。

 楽しそうに、嬉しそうに、会話をする二人。男子の方は、身長が小さい僕とは違って彼女よりも十五センチほど高いようで、理想的な身長差だと思わざるを得なかった。その男子は学校内のヒエラルキーにおいて頭一つ飛び抜けている人気者の男子で、僕は話しかけたことすらなかった。もちろん、彼女だって学校内ヒエラルキーではかなり上位に食い込むほどだったため、はたから見れば、二人は“お似合い”だった。

 頬を朱色に染める彼女。話している最中、やけに前髪の調子を気にして、うまく彼の目を見れないようだった。そんなこと、僕の時はなかった。

 それが初めての失恋だったかもしれない。

 僕には見せたことのない彼女の女の顔を見て、僕は絵文字の通り心臓が真っ二つに割れたような感覚に襲われた。あの絵文字は、ずっと過剰だと思っていたけれど。本当にハートが割れたと思ったのだ。これが、失恋かと。

 いつ彼女に恋をし始めたのかと訊かれると、僕は正確な日時は答えることができない。数学部で一緒に活動していくうちに、僕らは仲良くなった。けれど、異性として仲良くなったと思っていたのは僕だけだった。それが歯痒くて、悔しくて、切なくて。

 僕は大学には行かなかった。

 彼女は同じ大学に行こう、と誘ってくれたけれど、もう、彼女にこれ以上どんな顔をすればいいか、分からなかったのだ。

 きっともう、僕はこの先、彼女の事を友達として見ることはできない。もう、ただ一人の女として、僕の目には映っている。

 そんな僕に、これ以上彼女の友達でいる資格はないと悟ったのだ。

「好きだったよ。ごめんな」

 僕はそう言って、彼女に段ボールの山の一つから取り出した毛布をかけてあげた。

 この段ボールの山は、引っ越してきてからずっと残しているわけではなく、これから引っ越すから段ボールに詰めなおしたのだ。

「……」

 ふと彼女の顔をまじまじと見つめてしまう。やっぱり、綺麗だなぁっと思ってしまった。

「……」

 結局彼女とその男子は付き合わなかったらしい。その男子が他の女子と付き合っただとか、そもそも男子がかなり女遊びが激しいやつだったとか。クラスの端っこでこっそりと生きていた僕でも、そんな噂が流れてきた。真偽は判らなかったけれど、それでも僕が彼女を女として見始めていたことには変わりなかった。

 だから、余計に彼女のことを忘れられなかったのかもしれない。

 

 そして、メールを送ることにした。

 一か八かの賭けだったし、もしかしたら彼女が、この暗号に見向きもしない可能性だって充分にあった。けれど、奇跡的に彼女の心の奥底には僕という存在が居て、なんだか本当に助かったような気がした。これで、最後に彼女のことを一目見ることができたのだ。もう心残りはない。

「よっこらしょ」

 僕はそんなことを言いながら、ベッドから下りる。そして、カーテンを開けてベランダに出た。相変わらず外は暑くて、日差しは眩しい。でも、これが彼女との最後の夏だと思うと、何だか悪い気もしなかった。


 彼女は優しい。

 きっと高校一年のあの日、僕に声をかけてくれたのも、その底なしの優しさからの行動力だったに違いない。だから、好きなのだ。いつも笑顔で、明るくて、そのくせ怒りっぽくて感情の起伏が激しい女の子。それが、僕の大好きな黛ゆりみだった。今も昔も、それは相変わらず変わっていなくて、本当によかった。きっとこれからも彼女は、そうあり続けることだろう。彼氏が出来て、結婚して、子供が産まれても。そこに僕はいなくても、彼女はきっと、今までと同じように笑ってくれるはず。

 確証はないけれど、妙な自信がある。

 だって、わざわざあの暗号を見ただけで、真っ先に僕に会いに来てくれるぐらい優しい女の子なのだ。根暗だった僕に声をかけてくれて、部活に誘ってくれて。こんな僕ですら、すっかり好きになってしまうほど魅力的な女性なのだ。

 優しさのあまり、僕が「懐かしさ」に動揺したのを感じ取って、優しい嘘をついてしまうほどだった。こうやって、わざわざ僕に会いに来てくれたのも、感情を読み取ったからなのだ。あの暗号を書いたのが僕だと気づいて――。


「……あ、――」

 ふいに、振り向いて彼女を見た。

 

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彼女の暗号 たなかそら男 @kanata_sorao

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