変わることなかれ
泉ゆう
「先生?どうしたの?」
「高橋さん。児童はもう帰る時間ですよ。」
卒業式の時間だけでは、私はこの6年の全てを振り返ることができなかった。
私の教室。私の教壇。私の子ども達の机。過ごした月日を思い返すように、ただいつもの様に私は教壇に立っていた。
高橋さんは、そんな私を不思議そうな目で見つめている。
最初に見かけたのは3年生の頃だった。高橋さんは、明るく元気な子という印象だった。女の子も男の子も関係なくみんなの中心で休み時間は真っ先に外に飛び出していく、そんな子だった。
「先生はかえらないの?」
「えぇ、まだやり残した事があるので。」
視線の先。教室の奥の棚の上、ちょうど私の反対側には虫籠が置かれたままになっている。
「あ、ちょうちょ。だれも持ってかえらなかったんだ。」
「えぇ、みんな蛹には興味がなかったようですからね。」
夏の頃、男子の1人が持ってきた幼虫。殆どの児童が近寄らない中、その男子と高橋さんだけが甲斐甲斐しく世話を続けていた。いつか蝶になる日を待っていた。だが、幼虫が蛹になった頃、2人はいつの間にか蝶のことなど忘れどこかへ遊びに行くようになっていた。いや、忘れたのではなく興味を失ったというほうが適切だ。
「高橋さんは持って帰らないのですか。」
「え?うん。タケルくんも、もういいって言ってたし。先生、捨ててもいいよ。」
「そうですか。」
残酷だろうか。子供たちにとってはとるに足らないことなのだろうか。最初に会った頃の高橋さんでも同じことを言っただろうか。
「高橋さん。せっかくですから一緒に見てみましょう。これが最後ですから。」
嫌そうな表情の高橋さんを尻目に真っ直ぐ教室の中央を行く。虫籠には1本の枝。茶色くなった蛹がゴミのようにへばりついている。それだけ。何もないと言われてもいい虫籠。
「高橋さん。これがあなた達が育てた幼虫の今の姿です。あの頃はとても可愛がっていたじゃないですか。」
私が抱える虫籠を見る高橋さんの目は、なんでもないゴミを見るそれと同じだった。
「だって、タケルくんが可愛がってたから。私も、その。」
あぁ、やはり変わった。
「3年生の頃を覚えていますか?私が初めて高橋の担任になったときです。あの頃の高橋さんは誰とでも分け隔てなく明るく接する、とても良い子でした。全てに興味を持ち全てを肯定する。私は、はじめて会った頃からずっと、貴女のそういう部分が愛おしかった。」
「先生?」
「幼さの延長線だったかも知れない。だけど、その純粋さこそが、貴女の最も輝く部分だった。なのに高橋さん。貴女は、たった数年で、霞んでしまった。人を選び、人を蔑み、人を嘲るような!人を騙すような!!そんな!!薄汚れた子になった!!」
空の教室にこだまする声は他人のもののような気がした。高橋さんは怖がっている。普段は私が怒らないからだろう。
「せん、せい?何、なんで?なんで、そんなに怒ってるの?」
「コレ、いらないんですよね。」
籠は、割れるような音とともに容易く開いた。力を込めすぎて、中身は私の足元へと落ちた。ゴミ。そう高橋さんが言ったものが、ある。
「高橋さん。私はね。蛹が好きです。」
ぐちゃ
「だって折角愛情を込めて育てた幼虫が蝶になってしまえば手元から離れてしまいますから。ずっと蛹のままなら、ずっと側にいれます。」
高橋さん。どうしてそんな顔をしているのですか。今は怒っていないのに。
「高橋さんは、まるで蝶のようです。愛を注いできたのに私の手元から離れていく、私の知らない姿になって。」
温かい。高橋さんの熱と鼓動を感じる。まだ寒い季節なのに高橋さんの首筋はしっとりと濡れている。
少しづつ、少しづつ力を込める。
「だから、蛹のままでいて下さい。私の中で。蝶に変わることなく。」
変わることなかれ 泉ゆう @IzumiYOU
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