きみのためなら

りこ。

きみのためなら

朝起きて食パンを口に入れながら制服を着る。最速最短で準備をして学校に向かう。早く行きたいわけじゃない。できることなら家にいたい。一生。家から1番近い高校を選んで通っている。高校だけは卒業しておけと言う親からの命に従い、嫌々登校しては下校する毎日だ。


 学校に着く。僕の席は窓側の後ろから2番目。この席は、誰にも邪魔されない僕だけの特等席だ。そこから見える景色はいつも変わらず騒々しい。朝から元気だな、と小声で台詞を吐き窓の外を見つめる。太陽と木々の緑がまぶしい。からすがいた。からすはいつも集団で行動する。どの種もやることは変わらないな、と自分の中の仮定を肯定することでしか満足できない自分に嫌気がさす。1羽のからすが集団から外れてよろよろと飛んでいた。その姿が今の僕と重なって見えて空しくなった。


 チャイムが鳴り、大半のクラスメイトが席に着く。中々座らない女どもが教卓の前で群がる。時計くらい気にしろよ。いくら心で思っても声に出せない自分は弱いなとつくづく思う。そんな思いを知ってか知らずか、先生の姿を確認すると群れはすっと解消し、そそくさと席に戻っていった。


1日の終わりまで、群れの五月蝿さは衰えない。もしかすると終わりの方が、余計耳障りになっている気もしなくもない。ノイズにかこまれながら、帰りのSHRが終わると僕は机に突っ伏した。帰路につく人々と時間をあけ、静かに帰ろうという作戦だ。誰も僕を気に留める人はいない。早く帰りたい人、友達とゆっくり帰る人。ひとりになった教室でクラスメイトの放課後を想像しながらぼーっと過ごす。いつの間にか暗くなった空には一番星が輝いていた。


 次の日も、その次の日も、変わり映えのしない日々は続いた。学校に通えば何か起こるかと思ったけれど、そうでもないらしい。これから先もずっと変わらないと思うと生きている意味を知りたくなる。そもそもなぜ生きているのか分からない。僕は正直やりたいことなど何もない。”高校生のうちに生きがいを見つけなさい。”大好きだった祖母の遺言くらい守りたいのに…


 「有紗ー‼今日の数学の宿題って黒板に書くっけ?」

『え、どうだろ私も分かんない…ごめん!』

今日も朝から騒がしい。教室の端と端で話す声は嫌でも僕の耳まで届く。有紗、と呼ばれた女はパタパタと話しかけた女のほうに走っていった。今日も教卓の前には女の群れができていた。やっぱり朝から騒がしい。けれど僕は不思議と嫌な気持ちになっていなかった。

数学の時間が始まった。黒板には宿題だった問題がぎっしりと書かれている。結局書くことにしたんだな、と思いながら僕はノートの左上に日付を書いた。

「今日の宿題書かなくていい問題だぞー」

教室に入るなり教科担任の先生が言い放ち、ためらうことなく消し始めた。

『…ごめん!!』

後ろを向き、解答を書いた女に口パクで謝る有紗は心から申し訳なさそうな顔をしていた。僕はその無邪気な表情の奥を知りたいと思った。僕は、僕にない有紗の全てを知る必要がある気がした。理由は解らない。

 

  気が付くと、有紗のことを目で追うことが多くなっていた。授業中も、休み時間も。どんな時でも周りに人がいて、いつも笑っている有紗に興味を持っている僕がいた。有紗に会えるなら、有紗の声が聞けるなら。僕は高校に通う意味があると思えた。初めての経験だった。これが生きがいというのかは定かではないけれど、僕の中できっとそうだと確信に近い何かが生まれた瞬間だった。


 有紗はいつも笑顔だった。

『やった!満点!』

世界史のテストを掲げて飛び跳ねている時も、

『やばいこれバレたら生徒指導じゃない?!』

何をしたのかは知らないが周りの群れと煩く騒ぐ時も、笑顔だった。悩みなど何もないように思えた。僕はそんな有紗のことで頭がいっぱいだった。


 そんな有紗の異変に気付いたのは、目で追うようになってから数か月後のことだった。周りはいつの間にか長袖から半袖に変わっていた。そのころには既に、有紗の仕草から感情を読み取ることも容易だった。癖も大体把握していた。時々、いつも笑顔だと思っていた有紗が空に向かって寂しそうにしていることがある。有紗が、有紗じゃなくなる瞬間だ。そんなこと周りの群れの連中は知らないだろう。先生も、有紗の親も。僕だけが知っている有紗の秘密だと思った。静かに空を見上げる有紗は美しく儚い表情をしていた。その表情の真意は僕だけが知っている必要があると思った。


 「…環境整備委員はこの後前に。以上、挨拶」

「起立」

帰りのSHRが終わった。僕はいつものよう席に着いたままだ。環境整備委員、すなわち有紗が呼ばれている。何の話か気になるところだが、周りの集団に声も姿もかき消される。しょうがないからいつものように机に突っ伏した。周りの声が徐々に遠のいていった。


 気が付くと、3時間が過ぎていた。寝ていたみたいだ。結局、有紗の話は何だったのだろう。…もうすぐ有紗の塾の時間だ。すれ違えるように帰らないとだなぁ、と思い帰る支度を始めた時だった。

「…!!」

静かに外を見上げている有紗の姿がそこにあった。僕の存在に気付いているのだろうか。僕の動きが止まりがちになる。そのまま帰ろうかとも思ったけれどなんか違う気がした。

「あのー…」

僕は声をかけていた。

『んー?』

可愛らしい有紗の声が僕の中を駆け回る。首をかしげる有紗はきっと僕の心の中を読もうとしているのだろう。

「…大丈夫ですか」

『なにがー?』

「あの、今」

『あ。ううん、なんもないの。ふふ、ごめんね。全然平気。』

「僕でよければお話聞きますよ」

『申し訳ないし、ホントに大丈夫だから、ね。ありがと』

「話、聞かせてください!」

今年で1番、いや今までで1番大きな声が出た。有紗の目が一層大きくなる。そして僕と目を合わせた。

僕はためらう有紗に目で訴え続ける。…観念したのか、有紗が話始める。

『…あのね。お母さんに会いたいんだ。お母さん、私が小さい時におほしさまになったんだって。私、お母さんに伝えたいこといっぱいあるの。たとえばね、高校に入って優しい友達ができたこと、ピアノのコンクールで金賞をとったこと、先生に怒られて悲しかったこと、ほんとにたくさん。この前ね、私の友達がお母さんと2人旅に行ったんだって。羨ましくって。私もお母さんに会いたいよ…』

「……そうだったんだね。」

僕は相槌を打つことで精一杯だった。

『うん。…わ、こんな時間!こんなにも長い時間聞いてくれてありがと。』

話し終わって帰ろうとする有紗の背中に僕は問う。

「えっと…永瀬さんはどうしたいの」

僕の声は震えていた。

肩をビクッと震わせて、振り向いた有紗が言う。

『私も…お母さんとおんなじおほしさまになりたい。』

返す言葉が見つからなかった。有紗は今までで1番美しく愛しい表情をしていた。

『じゃあね、市原くん。また明日』

有紗は手を振り、にこっとはにかむと何も無かったように僕の前から立ち去った。思い出すと一瞬の出来事だったと思う。窓から見える景色が街灯に照らされて輝いていた。月の明かりが街灯に負けて弱々しく光っていた。


なにが1番、有紗にとって幸せなのか。僕は必死で考えた。有紗のいない学校ほどにつまらないものはない。これからもずっと有紗のことだけを見て過ごしたい。誰も知らない有紗のことをもっと知りたい。でも有紗はお母さんに会えなくてずっと寂しいと思う。それはそれで、有紗にとってつらいことなんじゃないのか。僕は考えた。そして、ひとつの答えにたどり着いた。これなら大丈夫。根拠はないけれど、有紗の笑顔が見られる気がした。


 (放課後、屋上で待ってる。市原舜)


 有紗の靴箱に朝入れておいた紙がちゃんと届いているか心配だった。そんな心配をよそに放課後、有紗は屋上にやってきた。僕が群れと一緒に教室を出たのは初めてのことだった。

『どうしたの?』

有紗が僕に問う。

「こないだの話のことなんだけど。」

『あぁ、こないだの』

「なろう、一緒に。」

『なろうってなにに?』

有紗はきょとんとしている。

「僕と一緒に、2人で、おほしさまになろうよ」

僕らの高校は5階建て。下はコンクリートだから飛び降りたら1発だ。有紗はキラキラした目で僕を見た。

『ほんとにいいの?』

僕はためらうことなく言う。


「もちろん」











「ありさぁあああ!英語の宿題見せてー!」

『いいよー!』

教室はにぎやかだ。このクラスにとってはこれが日常のようだ。

「「きゃー!!」」

開いていた窓から吹き込んだ風が窓際の席の人のプリントを吹き飛ばす。

その風に乗ってからすの羽が舞い込む。羽は窓側の後ろから2番目の机の上に落ちた。

チャイムが鳴って朝のSHRが始まっても羽はそのままだった。

「…今日の欠席者はなし。1日頑張ろう。以上、挨拶」

「起立」


学級委員の挨拶のあと、有紗は誰もいない席に落ちた羽を見つめていた。そして誰にも聞こえないような声で

『ありがとう。あなたのおかげで私は今幸せです。』

と呟いた。

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