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作戦は極めて単純かつ、脳筋が考えそうなものだった。彼曰く、一体一なら必ず勝てるとのことだったので、僕が一匹引き離し、筋肉だるまが残ったもう一方を確実仕留める。終わったら、加勢に来るから、それまで耐えろといくわけだ。強行突破よりは生存率が高いとあいつは、言っていたが本当かどうかはやってみないとわからない。まさに神のみぞ知る、だな。
漆黒はさっきから変わらず、唸り、動いていた。
正面から見て僕の獲物は右側、男の獲物は左側。全てはあいつの合図で始まる。
トラが二つに割れるように左右に移動した僕たちは、じっと時を待った。
あいつがこっちに一瞬目を向け、右の奴に向かって石を投げた。と、同時に僕も左の方に投石する。
拳一つ分ぐらいの石は綺麗な放物線を描き、トラの頭部に激突した。
死の眼光で僕の心臓を射抜くと、大地を震撼させるような遠吠えを上げ、突進を開始した。
「ボウズ、死ぬなよ!」
筋肉だるまの少し余裕そうな声が聞こえた時には、冷や汗をガンガンに垂らしながら、僕は一心不乱に走り出していた。
「し、死ぬー」
や、やばい、やばい。死ぬ、死ぬ、死ぬ。死ぬ、死ぬ。
心中でこの二言を連呼しながら、全速力で木々の間を通り抜けていく。骨の髄まで震えさせる雄叫びは、徐々に遠くなっている気がしていた。
な、なんとか距離は取れているみたいだ。
少し安堵するも、距離を詰められているようで、足を止めることはできない。いつ転ぶかわからない不安定な落ち葉の地面を必死に蹴り続けた。
幸運なことに雷のような咆哮が聞こえてから、ぴったりと足音、唸り声、気配までもがなくなってしまった。
足を止め、額から滝のように流れ出る汗を拭いながら、僕は思考した。
あの男が追い付いてくれたのか、それとも追うのをやめてくれたのだろうか。
刹那――。
「グゥォォォ‼」
横の茂みから歓喜の雄叫びをあげる、漆黒の虎が掴みかかってきた。
「なっ……!」
咄嗟のことで判断が遅れるが、凶悪な爪が肌に刺さろうかという間一髪のところで横に転がり、回避。
「あっぶな!」
起き上がって、なんとか数十メートルの距離を保ちつつ、にらみ合う。
や、やばい。
やばい。
予想にしていなかった事態が起こり、気が動転する。まさか、横から飛びついてくるなんて。
精一杯脳を回転させなんとか打開策を模索するも、いい案が浮かばない。
まず逃げるのは無理そうだ。この環境で虎は最高速度が出せない。だが普通に負けるだろう。
筋肉だるまが来るまで、この均衡を保ち続けるのはどうだろう。いや、いつ襲ってくるかわからない野獣相手に、この状態が長く続くとは考えづらい。
ということは、残った選択肢はもう一つしかない。
こいつは僕が倒す。
あの男がいつ来るかわからない状況で残された唯一の選択肢。もう生きるためにはこれしかなかった。
近くにあった手ごろな木の棒を掴み、両手で構える。
大丈夫、僕は一応、騎士志望だったんだ。
心臓の音がやけに大きく聞こえる。産毛が感じられる程度の微々たる風が吹いている。足の枯れ葉が割れる音がする。鼻には土のにおいが残る。普段は気にしないことを鮮明に五感が感じ取っている。
いまから行われるのは昨日までやっていた訓練ではない。
命と命の取引。生と死を天秤にかけられている。
この体験したことのない息苦しく重い空気に身を沈め、生唾を飲み込んだ。
僕は、いや……俺ならできる……。さあ、来るなら来い。
「グヴォォォォ‼」
覚悟を決めた途端、轟音を唸らせた虎がその体とは対照的な白い牙を剥きだし、飛び掛かった。
「うおおぉぉぉ!」
俺の絶叫と轟音は、体と同時に交錯する。一心不乱に叩きつけた木片は、右の紅玉に鮮烈な一撃を与えた。
入れ替わり、もう一度視線を合わせる。
なんとか一撃入れられた興奮と生き残っていたという安堵が俺の心を満たしていた。だが状況が一転したというわけでもない。どうにかしてもう片目を潰せたら安心だが、どうしたものか。
「グヴゥゥ」
片目を傷つけられた虎は、潰れていない片方の目で俺に語り掛けてきた。
殺す、と
そう聞こえてくる。幻聴だろう。だがそう訴えかけてくる。
次は必ず殺される。
俺はそう理解した。だからといって、こちらのすることは変わりない。この木の棒切れでは致命傷を与えることは無理だろう。目をつぶす。
ジワリと侵食する手汗を無視して、再び強く棒を握った。
「いくぞぉぉ!」
同時に地を蹴り上げた俺と一匹の二度目の交錯直前。俺の茶色の剣は狙っている右目に向かって一直線に振り下ろされていく。
決まったと、思った。その一瞬。
剣よりはやく、鋭利な影が俺の懐に入り込み、横腹を貫いた。
驚愕。同時に激しい痛みが発生した。空を切った二撃目の勢いで、そのまま俺は地面に倒れ込む。
「あ、ああ」
熱くなっている右横腹を抑え込んだ。勝利を確信したと思われる虎は、俺に覆いかぶさるような位置に移動した。
頭にある一つの単語が浮かんだ。
死。
完全に敗北した。
最後の一撃が肉体の最後を与える。肉を剥がれ、骨をしゃぶられ、そして終わる。その一連の動作が今にももう行われようとしている。
ああ、これが俺の最後か。
虎を一瞥すると、死神の鎌と言わんばかりの凶器を掲げ、勝者として、余韻に浸っているようだった。
俺は変われたのか。いいや、変われた。死ぬ前だからこそ確信して言える。
何もなかった男が必死に抵抗した。決して大きな成果ではない。でも、これは、変化だ。死ぬ前にこれだけでも思えたのなら本望だ。
瞳を閉じ、呼吸を落ち着かせ、来たる時を待つ。
死の一撃が振り下ろされた。
「ボウズ!まだ死ぬなぁぁ!」
一瞬だった。彗星、はたまた隕石が落ちてきたのかと思った。この叱咤とともに心臓を掴まれるような爆裂音が鳴り、強風が過ぎ通った。
「は……は?」
突然のことに目を丸くして、口は開きっぱなしになっている。
目の前は信じがたい光景になっていた。
拳が貫いていたのだ、虎の肉体を。というか、貫くというより完全に破裂している、と言ったほうがいいかもしれない。
絶命した虎はそのまま、無音で横に倒れた。
驚愕で思考停止している俺に、この結果は当たり前、という顔の筋肉ダルマは言った。
「ボウズ、大丈夫か?」
「いや、大丈夫がじゃないだろ。これ。どうなってるんだ」
「殴っただけだ。殴った。そんなことより怪我だ! 怪我!」
「あ、ああ」
鞄から包帯を取り出すと、脳がまだ追い付いていない俺に、男はきつく巻き付けた。
「よかったな、傷が浅い」
「お、おお」
とりあえず、生き残った、のか……。
絶体絶命のピンチから生還した安堵に心は包まれる。
気づけばもう空が白み始めていた。
「時間は大丈夫なのか?」
問うと、男も夜が更け始めていることに気がついたらしい、空と俺の顔を交互に見ている。
「や、やばい! 日の出前に場所にいないといけないのに!」
この空からしてもう日の出間近だろう。
「はやく、上るぞ!」
少し傷む体を立ち上がらせて、なんとか僕は歩き始めた。
最後の坂はとてつもなく途方のないものだった。傾斜四十度はありそうな坂道をもう百メートル以上歩いている。
害獣などはいないものの、さっき受けた傷が原因で、歩くのにも肩を借りないといけなかった。
「もう俺を置いて行ってくれ」
「いいや、俺はお前を見捨てることはできない」
何度も同じやり取りをした。
男の歩くスピードが俺と同じになり、必然的に到着時間も遅くなる。
いまは時間の方が大事なんじゃないのかという、俺の訴えには一切なびかなかった。ずっと俺の肩を支えながら歩いてくれた。
「ついたぞ!」
男の叫び声と最後の茂みをかき分けたのが重なり、景色が眼下に映った。
そこは雲よりも高い崖の上だった。視界に入るのは、青い天井。体の芯を温める、燃えるような橙色の球体。下には白い最高級品も劣って見えるような淀みのない白一色の絨毯。
絶句した。
これほどまでにきれいな光景があるのかと。
しかし――
「そんな……」
俺の口から一言零れた。
すでに太陽は登り切ってしまっていた。いつもは人々を明るく照らし、自分の心にも光を差し込んでくれるこの球体が今はやけ憎い。
「遅かったのか……」
この二言目を零した時だった。
「いや、待……」
男の言葉が終わらない内に、信じられないことが起こった。
下から一羽のハトが太陽めがけて飛び出していった。それを皮切りに十羽、百羽、最後は何千羽の白い個体がベールを描くように飛び立っていく。
純白が空を覆いつくした。青から一転、白い空。太陽光で反射した体はキラキラと金の鱗粉を散らしている。
目を奪われていると、隣でカシャリという音が三回なった。
「写真を撮っているだけ、気にするな」
僕は頷くと男に問いかけた。この男がどういった答えをくれるかわからなかった。だが、これだけは聞いておかなくちゃいけなかった。
「僕、いや俺、変われたかな」
男は少しだけ間を置き、堂々と言った。
「俺にはわからない。でも、昨日よりはいい顔してるぜ」
親指だけを上げた拳を僕の胸に押し付け、にこりと笑い、続けた。
「だろ?」
俺も苦笑し、一言。
「ありがとう」
吹き抜けていく風は、春のような暖かさを感じさせた。
●
これは十年前の話らしい。
今や、王国最高の騎士として謳われる一人の男が、毎日、語るお話。この話の真偽を知るものはこの世にいるかは不明である。
昔、騎士は、一人の写真家と旅をした。
短い、旅話だ。しかし、一人を変えた旅だったのである。
異世界写真録 卯鵜 馬宇摩 @umaumauma1818
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