3
「おい! 起きろ!」
「うわっ!」
突然の怒号に僕は、驚き、飛び跳ねた。
まだ若干思考停止状態の頭で周りを見る。
空が、白みがかり始めていた。どうやら昨日はいつのまにか、寝落ちしてしまったらしい。
「飯、できてるぞ」
「あ、ああ」
差し出された山菜たっぷりスープを、受け取りながら僕は頷いた。
「飯を食ったら今日はもういくぞ。そうしないと明日の朝に間に合わない」
スープをズズっと飲みながら男は言う。
「行くってどこに?」
「は? お前もあれを見に来たんじゃないのか?」
「あれ、とは?」
「嘘だろ……」
その巨漢な肉体に似合わず、男は絶句していた。
しかし一体何のことを言っているのか見当もつかない。僕の脳内にはハテナマークしか浮かんでこなかった。
頭を抱えていた男は、眉間にしわを寄せゆっくりと言った。
「じゃあ、お前は、何で、こんなところにいるんだ?」
僕は一瞬固まった。迷子になったなんて恥ずかしくて言いたくはない。が、この男には助けてもらった恩がある。正直に話すか。
とほほ。
「ま、迷子になった」
顔が火照っているのを感じながら口にする。
男、二度目の絶句。
「なんか、問題でも?」
強気の言葉とは裏腹に、尋常じゃない程の汗が額から噴き出しているのが分かる。
でもしょうがないじゃないか。気づいたらこの森の中にいたんだもの。
苦しい言い訳を心中で繰り返すが熱は引かなかった。
「じゃあ、ほんとに何の目的もなくここに来たんだな?」
確認するような男の口調。
「あ、ああ」
額から零れ落ちた汗を知らんふりして僕は頷いた。
ここで男は盛大なため息を一つ。
「露骨に残念がるなよ」
「いや、悪いなぁ。でも考えたら、荷物持たずにこんな山奥に入ってくるガキがこの世にいるわけがないな」
「で、この森の中に何しにいくんだ」
「写真を撮りに行くんだよ」
「え? シャ……シン?」
間抜けな声と共に僕は目を丸くした。
突然男は掌を勢いよく叩いた。何か思い出したようだ。
「あ、そうだな。写真っていうのは。うーん、景色を収める? 的な? そんな感じのものだ」
景色を収めるとはいったいなんだ。意味不明な説明で余計に混乱している僕にゴツゴツした背を向け、男は鞄から四角いものを取り出した。
「これがカメラっていうんだけど……。まあこれで景色を収めていると思ってくれればいい。そんなことよりお前はどうするんだよ」
痛いところを突かれた僕は静止する。『カメラ』についてもう少し聞きたかったが、今後の話をされたら答えないわけにはいかない。
何をどう言えばいいのかわからず僕は俯いた。
「……」
答えなくちゃいけないのだが、口が岩になってしまった。重い。開かない。
張り詰めたものを察してくれたのだろうか、男は柔らかに言った。
「もしなんなら、俺についてこい。こんな森の奥にいるってことは何かお前なりの理由があるんだろう」
「え……?」
顔を上げると、すでに鞄を肩に担いだ男は進みだしていた。
「ほら、いくぞ」
「あ、ああ」
情けない返事を返し、僕もその背中に続くのだった。
出発してもう十数時間が立ったはずだ。木々の隙間からから見える空は、青から橙に変り、黒色になってからしばらく経つ。
どれだけ歩こうと緑一色というのも飽きてきて、頭が狂いそうだった。道を歩くのと森を歩くのでは体力の減りにも差異がある。日々の戦闘訓練で鍛えている、とはいえ、疲れを意識せずにはいられなかった。
「まだつかないのか……?」
一歩進むのに重りをつけているのか、と勘違いしそうな足を、何とか動かしながら尋ねる。
「まだだ。今日はこのまま歩き続けるぞ」
筋肉だるまはこっちに顔を向けないで淡々と言い、続けた。
「そろそろ、迷子になった理由を話してくれてもいいんじゃないのか」
「逃げたんだ。変わることのない、自分が嫌になって」
言うつもりはなったが、反射的に口が開いてしまっていた。
一度、開いてしまった口が閉じることはない。
「最初から何ももってなかった。必死こいて、努力した。変わりたいと切に願っても、変わることはなった。結果は出なかった。結局、何も手に入れることはできなかったんだ。そんな現実に絶望したんだ」
手からこぼれ落とした後のように。
「何も……ね」
男も確かめるように呟く。
「そう、何も」
「でも、なにも本当に持っていないわけじゃないだろう?」
「ない……なにも」
「いや、最初からもっている筈だ。お前がやってきたことの結果じゃない。過程のことだ」
歩みを止めずに男は続けた。
「俺が写真をやっている理由が近いんだ。それに。撮るのは景色一枚かもしれない。でも、見返したときそこまでの道のりを思い出すことができる。その過程で一枚一枚の写真は変わってくれる。同じような景色でも変化がわかる。それが楽しいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、心がちくりと痛んだ。次いで少し、断じて少しだが、羨ましいと思ってしまった。
自分の持っていない『変化』をこいつは知っている。僕が欲してやまない、変わる、ということの本質が分かっている。
もしかしたら……。
「止まれ……」
血管が所々浮き出ている腕で制され、一旦停止した。
「なにがっ……」
「静かに……」
木陰に隠れ男はジッと遠くを凝視していた。僕から見たらそこらと変わらないのだが、この筋肉だるまには野生の感というものが備わっているのかもしれない。
「なにか、来る」
視線の方からぞろぞろと暗い影が出てくるのが見えた。数は二匹。
木々から零れ落ちる月明かりに映し出された、それは見たことのない動物だった。
本で一度読んだことのあるトラのような図体。だが色は黄と黒の縞々ではなく、沈むような黒一色。邪悪に赤く光る眼光は、凶暴さ、獰猛さ、を物語っていた。
腹を空かせて獲物を探しているのか、低く唸り、唾液を垂らしながらゆっくりと辺り巡回していた。
黒の動向から視線を外すことなく、男は掠れた声で言った。
「あれはなんて虎だ?」
心臓の高鳴りを抑えて、なんとか僕も口を開いた。
「僕が知っているわけないだろ。見たことも、聞いたこともない」
「だよな……。それより、ここからどうするかだ。目的の場所にはあそこを通らないと行けない。でも、虎三匹かぁ。一匹だったら行けるんだけどなぁ。うーん、まぁ、どーもなあ」
一匹なら行けるのもどうかと思うのだが、と心中で苦笑した時。
「よし、行くか」
澄んだ声で男は頷いた。
「正気か、お前」
驚愕し、恐怖した。同空間にいるだけで掌握されているような気分になる黒い相手に、迷いも無く行く、と言い切ったこの男に。
「俺は狂っちゃなんかない。元々やる一択だ。でも、お前がここで隠れているなら、俺は一人で行く」
筋肉の一言は躊躇なく、僕の心臓を鷲掴みにした。その真っ直ぐな自信の塊のような瞳は僕の心に語りかけてくる。
もし、ここで逃げなければ変われるかもしれない、と。
もし、ここで向き合えば何かを得ることができるかもしれない、と。
断定しているわけじゃない。何も得ることができずに、死んでいくだけかもしれない。
それでも、何か分かる気がする。何故か自信があった。
「行くのか、行かないのか」
再度問われた選択肢に僕は反射的に答えていた。
「行くに決まってる」
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