第3話


 キリルは眼の前が真っ赤になった。ここ最近、もう見ることはないと思った業火が地面から揺らめき視界を覆う。

 ——否、これは怒りだ。業火ではない。心臓を殴りつけ、全身の血を沸き立たせる、キリルの怒りだ。


「やはり、野人は耐久があるな」


 キリルは感情を隠すべく面を伏せつつ、拳を固く握りしめる。爪先が肉に食い込み、血が溢れ出るが痛みは感じない。


寿莉あれの側に二年もいるのに体調を崩さないとは」


 キリルの心情を知らない瑞王はくつくつと喉を鳴らしながら、きざはしを降りると門へと向かう。


「お前を捕らえることができて良かったよ。無駄な出費だと思ったがこれはまた良いものが手に入った」


 ああ、と瑞王はキリルに一瞥を投げる。


「あの毒女同様、愛想のない野人だな」


 軽蔑がこもった眼差しに、侮辱混じりの声音。瑞王がいかに寿莉とキリルを卑下にしているのかありありと分かる。

 足音が遠のき、聞こえなくなってもキリルはずっと俯き続けた。


(あの男が、母様を)


 奥歯を噛み締めた。もう過去のことだと自分に言い聞かせる。一族は殺された。土地と家財もすべて奪われた。

 今の自分には、ここでしか、寿莉の側でしか生きることができないのだから——。


 しばらくしてキリルはぱっと顔をあげた。


「……寿莉様の、髪を切らなくては」


 奉納の時期はもう目の前だ。キリルはなまりのように重くなった足を無理に動かしてはさみを取りに向かった。




 ***




 眼の前で揺れる髪はだいぶ長くなった。一房ずつ丁寧に縄で縛り、鋏で切って、それを鉄箱に仕舞い込む。

 その動作を何度か繰り返していると寿莉が鏡越しにキリルの目を見つめた。


「……どうかしたの?」


 優しい声音にキリルの手が止まる。


「瑞王様になにか言われた?」


 賢い主人は全てお見通しのようだ。


「俺の邑を焼いた、と言われました」


 面会から帰る時、珍しく瑞王はキリルに見送るように命じた。主人の夫である瑞王の命令に逆らうことはできない。厭々ながらキリルが見送りに向かうと、瑞王はぎこちない足取りを見て「火傷は痛むか?」と聞いてきた。

 寿莉が生家から取り寄せた軟膏のおかげで、火傷痕はだいぶよくなり、痛みも少ないが膝あたりの皮膚が溶けてしまったため、足を引きずるように歩かなくてはいけない。

 しかし、なぜ瑞王はキリルが火傷を負っているのを知っているのだろうか? 混乱するキリルが面白いのか瑞王はくつくつと喉を鳴らして笑う。


「あれだけ大規模な火災にするつもりではなかったんだ。すまないな」


 その言葉は罪の告白にも等しい。キリルの邑を、家族を、友人を、一族を焼き殺したと。


「……そう」

「寿莉様は、ご存知だったんですか?」


 否定して欲しい。一縷の希望を胸に抱く。


「知っていたわ」


 しかし、寿莉が口にしたのは肯定そのものだ。

 キリルは唇を噛みしめる。じわりと口内に血の味が滲んだ。


「そう、ですか」


 やっとのことで言葉を絞り出すと寿莉は「ねえ」と鏡越しで問いかけてきた。


「もう一度聞くわ。恩赦は本当にいらないの? 自由になれるのよ」

「……俺は、あなたの側でしか生きることができません」


 帰る場所もない。お金もない。足も悪い自分は寿莉の庇護下でしか生きられない。そんなこと、寿莉自身も分かっているはずなのに、あえてキリルの口から言葉として引き出すだなんてなんて残酷だな、とどこか他人事のように思う。


(……でも、不思議だ。寿莉様のこと、俺は恨んでいない)


 悲しいとは感じたが、それは彼女が真相を黙っていたから。それがキリルの心を守るためなのは、短い付き合いでもよく知っている。


「それに、もういいのです。もう、二年も昔のことですから」


 キリルは寿莉の髪を整え終えると、細心の注意を払って最後の一房を鉄箱に納め、笑顔をつとめた。


「……本当に?」

「ええ、過去は振り返らない性分なんです」


 キリルは即座に答えた。だが、その瞳の奥にある痛みを、寿莉は見逃さない。


「嘘ね」


 と小さく笑う。


「あの人があなたの村を焼いたこと、忘れられるはずがないわ。」


 キリルは黙り込んだ。何を言っても彼女にはキリルの本心を見透かされているような気がする。


「……でも、俺はここで生きます」


 子供が駄々をいうように不貞腐れて呟けば、寿莉がふっと息を吐いた。それは、笑いとも溜息ともつかない、彼女特有の感情の混じった吐息だった。


「あなた、後宮なんて退屈で窮屈な場所にいて、本当に平気なの?」

「平気です」


 キリルは寿莉をじっと見つめる。その目には嘘偽りがなかった。


「俺は寿莉様がいる限り、どんな場所でも生きていけます。それに寿莉様には俺がついていないと」


 寿莉はその言葉に返事をしなかった。ただ、鏡越しにキリルの姿を見つめ、しばらくしてから口元を緩めた。


「まるでわたしがさみしがりやみたいな言い方ね」


 寿莉は鈴の音のような笑声をあげる。


「でも、いいの?」

「なにがです?」

「わたしは瑞国と董家を結ぶための存在もの。あのお方が亡くなるまで後宮ここから出ることなんてできないわ。それに、亡くなったら処分されてしまうかもしれない」


 軽やかに紡がれた言葉には重みがあった。


「……母様は、俺に生きろといいました。その言葉を胸に、俺は生き延びるって決めました。そして生きる意味を見つけました。寿莉様の側にいることが俺にとっての生きる意味です」


 寿莉はゆっくりと立ち上がり、振り返った。

 二年間、寝食を共にしてはじめて近距離で視線が交差する。毒に覆われた存在が目の前に立っているのにキリルの目には恐れも憎しみもなく、ただ純粋な決意だけが映っているのが不思議で、同時に悲しく思った。


「本当に……馬鹿な人ね。あなたは今すぐにでも自由になれたのに」


 すぐに顔を背けて寿莉は吐息のような声をこぼした。


「あなたの側じゃなければ、本当のではありませんから」

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毒姫の狗 萩原なお @iroha07

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