女神の贈り物

棗颯介

女神の贈り物

 4月1日。学生や社会人が新しいスタートを切る、うららかな春の季節。

 冬のコートを仕舞い、春用の少し薄手の服をタンスの奥から引っ張り出した自分は、今朝も満員電車に揺られていた。春夏秋冬問わず朝の電車は常に満員御礼だ。だから、春夏秋冬問わず朝の電車は常に暑い。自分は今日から春物の服に変えたというのに、この電車は未だに暖房が効いている。周りを見ると他の乗客も大半が冬物のコートやマフラーで身を包んでいた。


 ———もしかしたら今日なら会えるかもしれないと思ったんだけどな。


 あの冬の日。勝手に”幸運の女神”と呼んでいた名前も知らない彼女に声をかけた日。

 あれ以来、彼女と同じ車両に乗り合わせることは一度もなかった。

 見たところ高校生のようだったし、もしかしたら大学受験とかで忙しくなったのかもしれない。だとしたら、4月の今はもうとっくにこの町を離れているのかも。

 彼女の姿が見えなくなってから、あまり良いことはなかった気がする。良いことが全くなかったわけではないけれど、なんというか朝の電車で彼女の姿を見ないと一日を安心して過ごせなくなっていた。自分でも気持ち悪いと思うけれど。


 でも、仕方ないのだろう。人にはそれぞれ人生があって、それは他人がどうこう出来るものじゃない。自分だってこの電車に乗っている知らない誰かから勝手に”幸運の女神”だなんて思われていて、ある日この町を去ることをその人に咎められたとしても「それはそっちの都合じゃない」と反論するだろう。


 そんなことを考えながらぼんやりと車窓に流れる景色を眺めていると、その速度が緩やかに減少していく。やがて電車が駅に停車する。普段は降りることのない、ただの通過地点でしかない駅。いつもなら乗客が降りたらさっさと電車は発車するはずだったが、今日は違った。


「お客様にお知らせいたします。ただいまこの先の駅で非常停止ボタンが押されました。安全が確認できるまでこの電車は当駅にしばらく停車いたします」


 乗客たちのほとんどは動揺や焦りを欠片も顔に出すことはなかった。もちろん自分も。朝の通勤ラッシュの電車でトラブルはそう珍しくない。

 ふと、今停車している駅があの日”彼女”に初めて声をかけた駅だと気づく。まさかもう一度会えるとも期待していなかったが、この駅で降りて歩いて行っても十分間に合う。降りよう。車内の人混みをかき分けて電車を降りると、まだ少しだけ冬の名残が残った冷たい風が自分を出迎える。額に汗を滲ませる程度には暑さに苦しめられていた自分には心地いい。


 ———ない。


 駅の改札を出ようとした時、鞄につけていたパスケースがないことに気付いた。

 念のため服のポケットや鞄の中も見てみるが、やはりない。目に見える範囲で駅構内の地面を見渡してみるが、それらしいものが落ちている様子はない。


 ———どこかで落とした?


 ———まずい、もしあの電車の中で落としていたとしたら。


 最悪のケースが頭をよぎった瞬間、駅構内の電光掲示板が無情にもホームに停車していた電車の運行が再開したことを告げていた。あぁ、最悪だ。4月の初日からこうなるなんて、本当についてない。

 僅かな望みをかけて駅の遺失物窓口に足を運ぶ。こういう時に”女神”のご尊顔を拝めたら安心できるのに、今は改札に向かう人の群れをかき分けて歩を進めるたびに気持ちが萎える。もういっそのこと今日は休んでしまおうかとさえ思うほどに。


「すみません、今朝ここにパスケースの落とし物って届いてますか?」

「えーと、少々お待ちください」


 初老の駅員さんはやや緩慢な動きで奥の部屋へと消えてしまった。あの部屋に落し物が集められでもしているのだろうか。

 駅員さんが扉を閉めた直後、不意に背中からかかる声があった。


「すみませーん、落し物拾ったんですけど」


 その聞き覚えのある声に、思わずとんでもない速度で振り返ってしまった。

 ”女神”がそこにいた。

 以前会った時と違って今日は私服に身を包んでいて、化粧もしているのか少しだけ大人びて見える。


「「あ」」


 自分と”女神”がほとんど同時に間の抜けた声を出した。

 彼女は自分の顔を見て。自分は彼女が手に持っていた”贈り物”を見て。


「「あの」」


 またしても声が被ってしまう。

 そして、どちらからともなく笑い声を漏らした。


 今日は、久しぶりに良い日になりそうだ。

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女神の贈り物 棗颯介 @rainaon

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