だって三日で忘れるし。
佐渡 寛臣
だって三日で忘れるし。
どうせ三日で忘れるし、と彼女は笑って私に言った。
いくつかの教科書を鞄につめて、私の頬に僅かに触れる。柔らかな唇が、何か言おうと開きかけ、再び噤んでまた笑んだ。
「ケイタイで、あたしの名前探してみれば?」
私に一言そう残して、彼女は教室を出て行った。振り返ることもせず、小さな背中は何かを伝えようとしていたのに、私はただそれを見送ることしか出来なかった。
どこか、嫌な感覚だった。気味が悪い、足先が崩れたような不安定さがそこにあった。
一人きりの教室で、私は自分のケイタイに目を落とす。
電話帳のアドレス欄、ゆっくりとスクロールする画面に彼女の名前が現れた。
――登録しているはずのない、彼女の名。
ぞくり、と背筋に冷たいものを感じた。
知らない番号に、知らないアドレス。無意識に遡る彼女との記憶の中に、まるでない情報。
ふと、気付く。
いつから彼女は私といたのだろう、と。
どれだけ掘り返しても、ここ数日以外で、彼女のいた風景がまるでない。すっぽりと抜けたかのように彼女だけがいなくなっている。
どこで、どうやって私は彼女に知り合ったのだろう。今は同じクラスのはずなのに、まるでそんな気がしない。
私は堪らず教室を飛び出した。気味が悪い、教室がどこか酷く歪んで見える。まるで夢にいるかのような感覚があった。
ケイタイが鳴った。
「――もしもし?」
彼女の声だった。私は、答えることも出来ず、ただ彼女の声に集中していた。声だけで、彼女と分かるのに、彼女が何者なのかがわからない。
クラスメイトで、放課後を一緒に過ごした……はずなのに。
「私のこと、わかった?」
静かに彼女は言う。わからない、ということがただわかった。そう答えることが恐ろしくて、私は震える唇を抑えた。
階段から、彼女が現れた。静かに視線を床に落として、携帯電話を片手に私に向き合う。
長い黒髪が印象的で、一度見たらきっと忘れない、はっきりとした強い意志を持った目をしていた。
通話を切って、彼女はポケットにケイタイをしまう。
「――私ってさ、三日間しか人の記憶に残らないんだって」
笑って言った。だけど、泣いているように私には見えた。
「そういう病気……呪い?なんだって」
目を合わせない、合わせられない。彼女の言葉、一つ一つが怖くて、悲しくて私は顔を上げられずにいた。
「もうさ、友だち作るのなんてホントは諦めてたんだ。ゴールデンウィークとか夏休みとか、三日間会わないだけで、みんなに忘れられてさ」
――先生にだって忘れられるし、と彼女はつけたしクスクスと笑う。
世界に忘れさられる。そんな感覚なのだろうか、それはどんな孤独なのだろうか。私にはまるで想像が出来ない。
「――だけどどうしてなんだろうね。悲しいことになるのなんてわかってるのに、私はやっぱり人と話して、仲良くなろうとしちゃう。一時の、ほんの三日間の思い出しかないのにね。それだって三日で消えちゃう思い出なのにね」
「今も、今もずっと消えていってるの?」
私は聞いた。震えた声が耳の奥で跳ね返る。何を話していいかなんてわからなかった。だけどこうして二人でいるのに、彼女一人が話すことはとても悲しいことのような気がして、思わず私は口を開いていたのだ。
「きっと、そうだろうね。こうして私が話したことも、きっと三日後には跡形もなく消えちゃうんだろうね」
指を組んで、彼女は俯く。ずっとこうして彼女は過ごしてきたのだろう。心を許した友人と、話し、笑い、泣いて、そして別れる。こんなことを何年も、何度も。
「――明日からの夏休み、明けたら私はまた転校生でこの学校に来るんだ。何事もなかったみたいに自己紹介してさ」
「やだ……そんなのおかしいよ」
きっと、私は毎日一緒にいた。だって、三日前も机を囲んでお弁当を食べた。放課後、帰りに寄り道だってした。
「――一緒に買い物行ったよね? ほら、食べた中華そば、めちゃくちゃまずくて二人で……怒ったじゃん。休み時間、宿題急いで片付けたじゃん、他にも……他にも……」
他に、たくさん思い出が。あるはずなのに、何もない。三日間という時間の制約。胸の奥から、痛みに近い悲しみがあふれ出し、心の中に充満していく。
「泣くほどのことじゃないんだよ」
彼女が優しい声で言った。私のすぐ傍に立ち、そっと頭を撫でる。私は溢れてくる涙を拭うこともせず、暖かい手のひらの彼女を見つめた。
「ごめんね。こんな悲しい想いなんて、忘れられる私が、させちゃいけないのにね」
あぁ、そうか。だから彼女は話してくれたのか。私を本当の友だちだと思ってくれたから。ただ忘れ去られることが、辛いから。
「――本当に悲しいの、あなたなのにそんなの言うの、反則だよ」
「三日経ったら、全部忘れるから。こんなこと、こんな話、こんな私。全部ね」
私は手を伸ばして、そっと彼女の頬に触れた。頬に触れた手に、彼女は自分の手を重ねた。
忘れるはずなんてない。忘れられるわけない。出会ったことも覚えていないけど、今確かにここにある、彼女への想いがまっさらに消えてしまうなんてこと、あるはずなんてない。
「――忘れない。忘れないよ。私、絶対忘れない」
無理だよ、と彼女は言った。困ったように眉を顰めて、口元をほんの少し緩ませるくらいの笑みを浮かべて。
「三日で忘れるんだったら、毎日会えばいいじゃない! 夏休みの間、毎日遊びにいってやる。忘れられないような思い出ばっかりの夏休みすればいいじゃん!」
例え私がそれを忘れても、彼女の記憶には残るでしょう。ずっと続くかもしれない、寂しい記憶に少しでも暖かなものを残せるなら、やってみる価値くらいあるよね。
「――ね? それでいいでしょ? だからお別れなんて寂しいこと言わないでよ……」
もう一度、確認するように私は彼女の目を見て頷いた。
彼女は下唇を軽く噛んで俯いた。小さく息を吐くと、そっと私の背に腕を回して強く私を抱きしめた。
「……変わらないね。いつまでも」
「うん、変わらないよ。いつまでも……」
彼女の背に腕を回して、抱き合った。誰もいない、静かな廊下。私たちは互いの鼓動に耳を傾けながら、ただ静かに約束を交わした。
決して、叶えられない、淡く脆い約束を。
☆ ☆ ☆
(――忘れられない思い出ばっかりにしてあげる)
高校に入学して、彼女を見つけたとき、思わずその言葉が頭を過ぎった。二人ぼっちの公園で、別れのときに交わした約束。
ベンチに並べたランドセル。二人で作った泥だんご。二人だけの内緒話。
私の中にだけ残る、小さな頃の、大切な記憶。
彼女は変わらぬ笑顔で私に声をかけた。私はどんな顔で答えたのだろう。彼女はもう覚えてないだろう。隣同士の席になって、昼食のときにはくだらないけど大切な、楽しいお話をしたね。
誰も知らない、私の大好きな幼馴染。不意に頬に触れようとするあなたの仕草ひとつで、私の心は小学生の頃に飛んでしまうよ。
幸せで、楽しくて、毎日が輝いていた。あの頃みたいに。
この幸せは、長ければ長いほど、失うときに大きく辛く、圧し掛かってくることはわかっていた。
だからもう、終わりにしなくちゃいけなかった。幸せだったから、終わらせなくてはいけなかった。
大好きだったから。
大切だったから。
悲しい想い、させてごめんね。
別れの間際、彼女は言った。あの、小学生の頃と同じ言葉を。
――あぁ、ほんとにこの子は変わらないんだ。
変わらないでいてくれたんだ。
その言葉を聞けただけ、私はもう満足だよ。
私との記憶はなくなっても、私との間にあった目にはみえない、何にも計ることのできない何かは、残っていくんだ。
わかるわけじゃないけれど、感じるわけじゃないけれど、そう信じられるなら、これから先のお別れも、きっと私はやり過ごせるから。
だから、ありがとうね。私の永遠のトモダチ。
☆ ☆ ☆
寂しがりやの転校生が、隣の席に静かに座った。どうして寂しがりやだと思ったのかはわからない。
表情ひとつ変えないで、彼女は静かに机に教科書を並べる。
綺麗な顔立ちなのに、嫌味な感じはまるでなくって、きっと優しい子なんだろうな、ってなんでか思った。
「こんにちは」
私は思わず笑って声をかけた。彼女はちらりとこちらを見て、呟くように、挨拶を返す。むぅ、ツレないなぁ。
――昼食、一緒に食べよう。帰り道はどこかに誘おう。アイスクリームが食べたいな。買い物だってしたいね。
フラッシュバックするみたいに、正体不明の心の高鳴りが胸の奥に満ちていく。わからないけど、なんだかすごく楽しいことが待ってる気がする。
綺麗な、白い肌。整った横顔を見ながら、私はついつい穏やかな気持ちになっている。
「――顔に、なにかついてる?」
「うぅん、綺麗だなって思っただけ。ほっぺたつるつるだよね」
「そうでも、ないよ」
照れたように俯く彼女。
「ねぇ、触ってもいい?」
彼女の頬に手を伸ばした。動じることもなく、彼女は頬に触れる私を見つめて、目を細める。
あぁ、なんだろう。よくわからない気持ちが胸から溢れて満ちていく。
(――変わらないね)
知らない誰かがそういった。
(変わらないよ、いつまでも)
知らない私がそう答えた。またきっと忘れられない毎日が始まるんだと、そう思った。
わからないけど知っている。
覚えてないけど、感じてる。
――だって彼女が笑ってる。だって私が笑ってる。
「――そういえば、自己紹介がまだだったね、私は……」
だって三日で忘れるし。 佐渡 寛臣 @wanco168
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