第4話 さあ、語ろうか

「……とっ、とてもおいしいです……!」

 感嘆の声をもらしながら、布江さんがつぶやいた。

 ふふ、だろ? と言いかけたけど自ら口を制した。

 風間さんの飯がまずかった試しなんて今までなかったし、それ以前に、空腹に染みない食事なんてありはしないのだ。

 今日の献立は魚の味噌漬けがメインで、右側にはさっぱりとした白みそで作られた味噌汁。シンプルな白飯にはシャキッとしたたくあんが添えられていた。

 前菜はみじん切りにしたキャベツのコールスロー。

 アクセントに赤キャベツと果実類が入っている。

「では、そろそろ私は帰らせていただきますね。坊ちゃん、ごゆっくり~」

 エプロンのひもをほどいた風間さんは、台所から終始やましい笑みを消すことなく玄関へと歩を進めた。

 きっと彼女の脳内では、僕らがどうこうなると本気で思っているのだろう。

「橋本さん、どうかしたんですか?」

 こんな純粋な子を、僕ごときがどうこうできるわけないだろ。

 ボッチという生き物は基本的にチキンなのである。

 防衛本能が高いからこそ対人関係での危険察知もぬかりない。そうして身を守らなければ、集団行動をとるクラスカースト上位の連中に対抗できないからだ。

「お、お世話になりました!」

「はーい。また遊びにきてくださいね」

 僕らふたりに嫋やかに頭を下げながら、風間さんは玄関の外側へと消えていった。

 今日も一日ご苦労さまです。

「……ふ、二人きりになってしまいましたね」

 布江さんは風間さんが居なくなるやいなや、すぐに様子を急変させる。

 頬にわずかな朱色が指したと思うと途端にうつむき、唐突に足をすりあわせ、指先は手持ちぶさたを紛らわせるように髪の毛の先端をもてあそんでいた。

 ……様子がおかしい! 

 さっき僕が洗面所に行っているあいだに、女同士で秘密の話し合いでもしていたのだろうか。女性たちの蜜月って、男が蚊帳の外になるから疎外感を感じるんだよなあ。……でも、だからといって男子がいる目の前で生理の話とかはやめてほしい。なんか意識しちゃうから……。


「ま、まあ、さっきも屋上でも二人きりだったし言うほどでも……」

 言うと、彼女はなぜかまたムッツリとした表情を浮かべて。

「……橋本さんには、下心というものがないのでしょうか」

 よく聞き取れなかったけど、あまりお気に召してなかったのは確かだった。

 ……なんか、女の子の思考って九割がた理不尽で作られているような気がする。

 布江さんは赤くなった頬を紛らわせるように、次々と口にモノを運んでいた。

「おいしいです! おかわり!」

「ないよ、急ごしらえだもの!」

 オマケにちゃっかりしていやがる。

 僕が苦い顔をすると、布江さんはその表情にじわじわと笑みを浮かべていった。

「……ぷっ」

「今度はなんだよ……」

「ああ、いえ。ただね」

 ことりと箸を置いて、噛みしめるように彼女は口を開いた。

「幸せだなあと、思いまして。今のこの時間が……わたくし、すっごく愛おしいのです」

 布江さんは、笑いながら薄い涙を瞳に浮かべていた。

「こうしてお友だちと過ごす放課後というのは、こんなにも居心地がよくて、胸の奥がきゅっと切なくなるみたいで……」

 そしていつの間にかぼくは、彼女の語り調に引き込まれていた。

「落語だけが友だちでした。何より重宝していました。……でもやっぱり、わたしの中で、なにかが足りなかった。それはきっと、こういう他愛ない日常なんです」

 ふと視線を向けると、猫缶を食べ終わったアザラシが、彼女の話しに聞き入るように、机の上にどっしりと身をのせていた。

 布江さんは微笑んで、アザラシをなでながら言葉を続ける。

「でも日常それは、とっても高価なものだから。『猫の皿』のように、わたしたちは高価な日常という皿の上で、出されたご飯を何も考えず食べている猫と同じなのです。それは、とても勿体ないことだと思うから――」

「だからわたしはせめて、この皿の価値を知れる人間でありたい。この幸福を存分に噛みしめながら、毎日を生きていきたい。それができれば、どんなに幸せなことでしょうか」

 布江さんになでられているアザラシは気持ちよさそうだ。

 いつも僕が撫でてやっても、すぐに居心地が悪そうにどこかへ行ってしまうのに。

 やっぱり、女子のほうが手つきも優しかったりするのだろうか。

 それとも、布江さんの独特の語り調がそうさせているのか。

 もしそうなら彼女は人間の僕ならず、猫までをも自分の語りの虜にさせたという事になる。それを才能と言わずして、なんと形容すればいいのだろうか。


 ――やれやれ。学校なんて狭い社会のなかに、思わぬ真打がいたものだ。


「……あのさ」

 言ってあげたかった。

 きみだけじゃないよって。

 僕だって、いつも一人だったんだ。

 両親はほとんど家には帰らない。風間さんだって、定時になったらもちろん帰ってしまう。風間さんは母性に溢れていて、とてもやさしい女性だけど。心のスキマを埋めるには、家族の輪が欠陥した穴はあまりにも大きすぎた。でも今は不思議と、それが満たされている。こんなにも恵まれた環境で育ってきて、何が不満なんだと、やるかたない自分に何度も問いかけた。

 今日が、その答えだ。

 ぼくは、布江さんと出会うために、今日までの孤独をすごしてきたのだ。――もしぼくが、心の孤独を知らない人間だったら。

 彼女のことも、どうとも思わなかっただろうから。

 あんなにも憂鬱だった孤独な夜の足音が、今はぜんぜん平気だ。

 もっと布江さんと話していたいと思う。自分の好きな落語について、好きなだけ語ってほしいと思う。

 だから、布江さん。

「もしよかったら、また来てよ」

 これが今の僕に言える、精一杯の言葉だ。

「あなたはもうひとりじゃない。今日からは、僕がいるから」

 すると布江さんは、心の底から嬉しそうな表情を浮かべえて。

「言われなくても、またお邪魔しちゃうんですから」

 ごちそうさまでした。二人の声が重なったリビングの机には、一粒のお米も残っていなかった。

「……では食事の終わりに、私の持ちネタをもう一つ披露してしんぜましょう」


 出囃子はおしまい。

 さあ、語ろうか。

 笑って泣ける、ぼくたちの落語噺にちじょうを。

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思わぬ真打~孤独な僕らと猫の皿~ 羽毛布団 @umou2355

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