第3話 おかえりの匂い
「いやあ、ご迷惑をおかけしますねえ」
不幸中の幸いか、布江さんの頭部はすり傷を作る程度の外傷しかなかった。
しかし、足をくじいて歩けないときたもんだ。しかたない、そうなれば僕が背負って送ってあげるしかないだろう。
そんなわけで、いま布江さんは僕の背中で揺られている。
聞くと、彼女の家はまあまあ遠いらしい。
だからひとまず僕の家を経由して、そこからタクシーでも呼んで帰ってもらう作戦だ。
ついでにウチの猫を愛でて心的外傷も癒してもらう運びになった。お調子者め……。
まあ、たまには相手をしてくれる女の子がいた方が飼い猫も喜ぶだろう。
そんなこんなで帰り道。
うぅ……周囲の視線が冷たくて痛い。
対照的に、背中の感触はとても暖かくて柔らかい。
緩急の差があまりにも激しくて、心臓はさっきから耳元まで鼓動を響かせている。
「橋本さん、耳まで赤いですよ。やはり熱でも」
「ないから」
今はあなたをおぶるので精一杯なんだ。
あとにしてくれ。
「はあ、さいですか」
布江さんは背中でくすっと笑ったようだった。
「どちらでもいいです。橋本さんの背中、温かくて気持ちいので……」
ぎゅーっと、僕の肩を抱きよせる彼女の力が、明らかに強くなる。
殺す気か?
「……もし本当に熱だったとして、風邪とか移っても知らないよ」
「それならそれで、学校を休む口実ができたことに感謝します」
「臨機応変だな!」
僕はやけくそで、彼女の発言に強めのツッコミを入れる。
すると背中から空気が抜けるような、空虚なため息が耳をくすぐった
「……わたくし学校、あんまり楽しくありませんもの」
ふりむくと、自嘲ぎみな笑顔を作った布江さんの表情が目に入る。
「……お友たちがいれば、わざわざ人気の少ない屋上でご飯を食べたりしませんよ」
屋上で落語を語るときに見せた笑顔とは正反対の、別世界のような布江さんの表情。
それはやがて、おえつに似たしゃくり声をほじくり出す。
「わたしはきっと、この世に要らない人間なんです。空気に水を指すような人間は、そいつが空気になればいいんだ」
泣きそうな声をあげる布江さん。
それに僕は、なんと声をかけていいか迷った。
僕も友だちがいないのはいっしょなのだと、自虐ネタで盛り返せばいいのだろうか。それとも上辺面だけの言葉で同情を装うべきか。
きっと、そのどちらも正しくない。
いまの彼女の心境を完璧に理解する術を、僕は持たないのだから。無力な僕に言えるのは、きっとこれくらいのものだ。
「……もしよければ今日、晩ご飯をごちそうするよ」
一軒の家からふわりと優しい味噌の匂いが風に流れて、僕らの鼻孔をくすぐった。目の前にあるのは、僕と飼い猫が住まう普通の一軒家である。
「いい匂い……」
「家政婦さんがいるんだ。うん、今日は魚の味噌漬けっぽい」
最後の力をふりしぼって、うんしょと背中の彼女の態勢を整える。
「おなかが空いた放課後にかぐ夕飯の匂いって、なんかホッとするよね。
あなたの帰りを待ってるよって、誰かに言われている気がする」
彼女の足をかついだままポケットに手を入れて、鍵を取り出す。
「べつに、無理しなくてもいいじゃないか。きみを必要とする人にだけ、必要としてもらえばいい。笑顔で出迎えてくれる人間が、絶対にきみのそばにいるハズだから」
玄関に入ると、りんごアメを溶かしたような色の夕日が差しこむリビングが目に入る。
パチパチと肉の皮脂が爆ぜる音や、炊飯器がご飯を炊き終わった音色。
さまざまな香ばしくしっとりとした効果音と匂いが、僕らのいる空間を満たしていた。
「風間さん、今帰りました!」
「あ、はーい。お帰りなさい坊ちゃん」
カチっとコンロの火をきって、家政婦さんがトタトタと廊下をふむ音が奥から聞こえる。
僕は布江さんにふりかえって、自分なりにベストな笑顔で口を開いた。
「いらっしゃい。布江さん」
彼女は潤んだ瞳で僕を見つめていた。
ぷっと噴きだすように笑顔を広げて、彼女は熱い吐息をはきながら。
「……はい。お邪魔、します……!」
家政婦の風間さん(29歳・未婚)が玄関まで出迎えてくれた。その第一声は、おおかた予想通りだったと言えるだろう。興奮した視線で背中の布江さんをとらえて、
「あらあら、まあまあ! うふふ……かわいい彼女さんですね!」
「風間さん」
「安心してください坊ちゃん、ご両親にはナイショにして差し上げますから!」
「親指を立てながら納得しないでください風間さん。僕の話しを聞いて……」
「いいんですよ? 坊ちゃんも男の子ですもんねえ。お部屋、いつもより念入りにお掃除しておいたほうがよかったかしら」
「風間さん?」
「いえいえ、家政婦のわたくし如きがご主人のご子息に異見なんてできませんもの。やだ、奥さまになんてご報告しようかしら~!」
「とにかく彼女を運んでください、捻挫してるらしいんで!」
「坊ちゃんのお部屋に?」
「リビングのソファにだよッ!」
2
終始楽しそうな笑顔を崩さないまま、橋本さんの家政婦の風間さんは、足をくじいた私を奥のソファにまで運んでくれました。私は彼女の柔らかい手に導かれて、お尻からふわりとソファに着地します
「足、ちょっと見させてもらいますね。タイツ脱いでもらえますか? あっち向いているので」
「あ、はい……」
私はリビングの入り口の方を気にしながら、風間さんの言うとおりにタイツを脱ぎました。さっきも見た、赤くはれた足の付け根が露出します。
「……これは痛そうですね。応急処置をするので、楽にしていてください」
「あの、そこまでしてもらうわけには……」
「あなたは坊ちゃんの大切な人ですもの、傷を放っておくわけにはまいりません」
「だから違うってば!」
びくっ。
言われたままに足を伸ばして楽にしていると、そこには橋本さんが立っていました。
風間さんはくすくすと上品に笑っていますが、その一方で私は、彼の大きな声に少しモヤモヤとしたものを感じます。確かに、私はあなたの大切な人ではないかもしれませんが、そこまで全否定されたら一人のレディとして、ちょっとショックなのですよ……?
「布江さん、捻挫だいじょうぶ?」
それで……なんですか。
今さら足の心配ですか。
「問題ありません」
「いや、けっこう腫れてるように見えるけど……」
「今こうして風間さんに療養していただいているので。それよりも、ご自分の体力の方を心配なさっては? 壁のふちにもたれかかるほど疲れましたか。そんなにゼーゼーするほど、わたしは重かったですかそうですか。ご迷惑をおかけしましたね!」
「……えっ、と。なんか怒ってる?」
「怒ってません」
思わずぷいっと、そっぽを向いてしまいました。
「坊ちゃん? 女性には常にさまざまな問題がつきまとっているのです。深く言及するのはお勧めしません。ほら、帰ったんですから手を洗って。うがいも忘れずに」
「あーもう……わかったよ」
風間さんが言うと、彼はふてくされたように洗面所とおぼしき場所に向かっていきました。
……少し、言いすぎてしまったでしょうか?
……どうも、さっきから私の思考が変です。
屋上で話していたときとは違う、浮足立っているような妙な感覚で。
彼の発言一つひとつに、どんどん敏感になっている自分がいる。
『きみを必要としてくれる人にだけ、必要としてもらえばいい』
……さっきのは不覚にも、ちょっとカッコよかったです。
あれ以来――といってもまだ数分なのですが――なぜか、胸がうずくのです。
今まで、さんざん色んな人に気を使って、水を差して、間違えてきましたが。
橋本さんに感じている気遣いはそのどれにも当てはまらないような気がします。
それは、なんだかあったかくて。むず痒くて。
上手く言葉にならないことがひどくもどかしくて、自然と頬が火照るのです。もしかして、本当に彼の熱が移ってしまったのでしょうか。
困ったなあ……。
と、頭を悩ませながら風間さんに診てもらっていると、ふと視界のはしに違和感がありました。
すぐ横どなりの襖の戸が、うっすらと開いたのです。
そこから流れるような仕草で、和室からひっそりと姿をあらわしたのは、なんと――猫ちゃんです!
「お、アザラシ。メシの匂いにつられて出てきたな?」
いつのまにか洗面所から帰った橋本さんが言いました。
橋本家の猫ちゃんの名前は、アザラシというらしいです。
確かに丸くふとった体と柔らかそうな灰色の体毛はアザラシのようにも見えます。今にでもモフりたい衝動を抑えて、私は彼に問いかけました。
「さ、触ってもいいですか?」
「ダメ」
「んな殺生な!」
彼はどこからか猫缶をとりだして皿に乗せ、それをアザラシちゃんの近くにセット。
「こいつはメシの匂いを嗅ぎつけると山のように動かない。だからとりあえず、何かを与えないと抱かせてもくれないぜ」
彼は慣れた手つきで「ほらよ」とアザラシにご飯を与えます。
猫は、待っていました! と言わんばかりに、ムシャムシャとそれを頬張っていました。
「さてと、人間の僕らもちゃんとご飯を食べないとね。――風間さん。今から夕食を一人ぶん多めに調理してください」
「彼女さんの分ですね! これの後、腕によりをかけて作りましょう!」
「だから彼女じゃないんだけど……まあいいや。お願いします」
風間さんは私の足にテーピングを巻きながら、満面の微笑みを浮かべていました。
「……本当に、なにから何まですみません」
「温かいご飯を食べれば心も安らぐ……っていうのが、橋本の教えなんだ」
彼はどこか照れ臭そうに鼻をこすりながら、ぽつりと呟くように言います。
「だから、まあ……ゆっくりしていってよ」
年頃の男子にはふさわしくない、とても小さい声音でした。どうやらさっきの私の発言は、ざばんと水に流してくれるらしいです。
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