第2話 猫の皿
それから、目に見えて嬉しそうな表情を見せた彼女は一度せき払いをして「えー……」と、枕言葉を打つ。
「その昔、旗師と呼ばれる商人がございまして……。まあ簡単に申しますと、古美術品の仲買人でございます」
その語りだしを聞いて、彼女の独特の口調は落語から来ているんだなと思った。
「――あっ、ありゃあ間違いねえ。三百両は下らねえ『絵高麗の梅鉢』じゃねえか……!」
……さすが、僕が教室で食べていない水曜と金曜日以外を、ずっとここで練習し続けているだけあってか、彼女が演じる人物たちは、それぞれ命が吹き込まれていた。
小道具である扇子やハンカチをつかって、上手く登場人物たちの会話模様を描いている。
「これはまた可愛い猫だねえ、おじさん。おれァ猫が大好きなんだ」
あとから聞いた話だが、『猫の皿』という演目はおおざっぱに説明するとこんな感じだ。
仲買人の主人公立が立ちよった茶屋で、彼は、絵高麗の梅鉢とよばれる高価な皿が猫のエサ入れとして扱われているのを見た。
彼は、猫ごとその皿を買い取ろうとするが、茶屋の店主に皿を売るのだけを執拗にしぶられる。なぜなら店主は、実はもともとその皿の価値を知っていて、主人公のような仲買人に高値で猫を売ろうとしているから……と、大体そんなお話しである。
「この猫よ、三両で譲っとくれよ。あと、その皿もつけてくれるとありがてェんだが」
「そんな、ただの猫にそんな額をいただくわけには……」
「なァに気にすんなって。どうせ百倍になって返ってくるんだから。……っと、いけねえ。なんでもねェよ!」
声音も表情もコロコロと見事にあやつり、そしてお噺は早くも終盤へ。
猫のエサ入れにしているくらいだし、『高麗の梅鉢』の価値を知らないであろうと踏んでいた店主が、あろうことかその価値を十分に理解していた。
……という、オチの場面まで進んだ。
「そんな高価な品なら、奥にしまっときゃいいじゃねえかよ! どうしてそんな皿で、猫にメシ食わせたりしてんだい!」
そこで、布江さんはニッコリと、普段でもしないであろう精巧な作り笑いを浮かべて。
「へえ。その皿で猫にご飯を食べさせておりますと、ときどき猫が三両で売れます」
お噺が終わり、僕はその場でできるだけ大きな拍手をパチパチと鳴らした。
「店主は過去にも主人公みたいな仲買人に出会って、味をしめていたんだ」
「そうなんです! きっとこの仲買人、さぞ苦い顔をしたんでしょうねえ」
よほど嬉しかったのか、彼女は自分のご飯もそっちのけで『猫の皿』について語りだした。
「……これは個人的な意見なのですがね。このお噺の面白いところは、絵高麗の梅鉢が高価であると知らないのは作中で猫だけ、という部分だと個人的に思っていて……っと、これは失敬。橋本さんには関係のないことでございました」
「いや、全然気にしてないよ。それより……」
僕が気にしていたのは予鈴までの時間だった。
お噺に聞き入っていたから、箸の進みが遅くなってしまっていた。手元にはまだ、半分ほど残された白飯と鶏肉のカケラが二つほど。
「かきこめばいけるかな」
柱に立てかられた大きな時計を確認して、僕は猛スピードで口にものを詰め込んでいく。
「いっき食いはお勧めしません。後々ご自分に反動がきてしまいます」
「大丈夫だよ。僕はこれでも食べるのは得意だから」
「おろ? そうなんですか。橋本さん、その割にはけっこう細いようなので」
「う……僕はなかなか筋肉がつかない体質なんだよ、気にしていることを……」
「す、スミマセン。わたくしはまた要らない口を」
布江さんがやってしまったと言わんばかりに、小さな口をすっぽりと手で隠す。
「あ、いや、別に布江さんが悪いわけじゃなくて。とにかく今はこれを片付けちゃうから、あなたは先に教室に戻っててよ。必ず本鈴には間に合うから」
「……分かりました」
そう断言した僕は、例によって腹を壊して五限目を退室した。
「言わんこっちゃないですね」
「面目ない……」
僕は保健室のベッドに横たわり、布江さんはそんな不甲斐ない僕を覗きむような体制で身をかがめている。
彼女の、決して小さくない胸が近づいたことで僕の心臓はドキリとする。
「顔も赤いでござんすよ。熱でもあるのでは?」
……これはあれだな。
美容室で、女性の美容師にシャンプーしてもらうときに胸が近づいて緊張してしまう状況に酷似している気がする。って、そうじゃない!
「そんなことないよ? 心配しないで大丈夫だから」
ふと時計が目に映った。
「え、もう五時!?」
「橋本さん、ぐっすり眠っていましたよ」
にこりとほほ笑む布江さん。
今度はドキリではなく、トクンと軽く胸が高鳴る感じがした。急に恥ずかしくなって視線をそらすと、そこには問題の弁当箱が置かれていた。
「それにしても、橋本さんも無理して食べなければよかったのに」
「うーん……まあ、普通ならそれでもいいんだろうけど」
気恥ずかしさからか、ほほがかゆくなって、それを掻く。
「――あんまり食べ物を残さないっていう、自分のなかでの決まり事があってね」
中学生のころのことだ。
母が腕によりをかけて作ったと意気込んでいた弁当は、具体的なことは憶えてはいないが、たしか、油ものが多かったのだ。全てを食べきれなかったぼくは、その日の放課後、弁当をバックから取り出して気づいた。
重みの残った弁当箱に張りついた、どうしようもない虚無感みたいなものを。
それは梅雨のジメジメとした空気のように、ぼくの心に重くたゆたったまま動かなかった。あれはきっと、これから捨てられる食材たちが、最後に教えてくれた食料の尊さなのだと今では思っている。
「へえ。それはいい心がけですねえ」
「……まあ、だからといって腹を壊したら、なんてことはないんだけどさ」
そうだ、大事なのは切り替えだ。
僕はぐーっと伸びをして、帰りの準備をしようとベッドから起き上がる。
「その通りです。ほんじゃ行きましょうか」
「え? どこへ」
「橋本さんの家へ」
「いや何でだよ!」
大事なのは切り替えだ、とか自分で言っておいてなんだが、これは想定外。
「橋本さんは病み上がりなのですよ? こういう時は好意に甘えなされ」
「え、じゃあなに? 布江さんが家まで送ってくれるってこと?」
「途中で気分が悪くなったら、私がおぶってさしあげます!」
「いやそれ、男子の面目丸潰れだから……」
思わず目頭を押さえる。
そんな絵面、想像しただけでも申し訳ない。
「さっきご自分で『面目ない』とおっしゃっていたじゃありませんか」
「それはそれ、これはこれ!」
もう、しょうがない人ですねぇ。みたいな感じで布江さんはため息をついている。しかし、これに至っては僕に軍配が上がるはずだ。
世界のどこに女に背負われる男がいるものか。
赤ん坊でもあるまいし。
「とにかく、ひとりで帰れるから」
「そっ、そうはいきません。家まで送った御恩に甘えて、お家の猫をなでさせてもらおうと思っていたのに!」
「ちゃっかりしてるなきみは! ……って、どうして僕の家に猫がいるって知ってるの?」
言ってないはずだけど。
すると布江さんは、僕の制服を指さして。
「毛がついているので」
「えっ? あ、ああ……」
さすが、目ざとい子だ。
確かに僕の家は猫を飼っている。
――布江さん、猫が好きなのか。
せっかくなら招いてあげたいところだけど……。
今の時間、家政婦さんがいるんだよなあ。同級生の女の子でも連れて帰ったあかつきには、なんて言われるだろうか。
絶対に何かしらの誤解をされて、いじられるに決まってる。
僕が不安でいっぱいのなか、布江さんは胸を張って。
「善は急げです。さっそく行きまっしょい!」
「あっ、待って。保健室の入り口には段差が……!」
前振りもなく手を握ってかけだすものだから、つい警告するのが遅れてしまった。
「あっ」
まぬけな声を出しながら、布江さんはやはり姿勢をくずして真正面からすっ転ぶ。
見るに堪えなかった。
僕が直前で手を放してしまったせいで、彼女はばんざいの姿勢で頭から廊下にすべりこみ、そのまま静止している。
……え、死んでないよね?
すると彼女は、両目をなさけなく潤ませながら座りこみ、上目遣いでこう言った。
「あし、くじいちゃいました……」
やはり、軍配は僕にあがったようである。
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