ピアスホール
国路奏
貫通
なあ、やっぱり開けるのかい?初めてじゃなくても怖いなあ。
うん、そうなんだよ。高校に入って二回目の夏に、両方の耳たぶに一発ずつ。ほら、沈んでいて暗褐色をした痕がひとつぽつんとあるだろう?消えなくてね。鏡に映るこの名残を目にする度に、目を逸らしていたい事実を突きつけられる思いがするから、かねてから消してしまいたいと思っていたんだ。開け直すんじゃあ、削除ではなく上書きにあたるけどね。似たようなもんだろう。少なくとも、次に鏡の中の僕を見て思い出すのは、緊張と興奮の混じった半笑いの君の顔になるさ。
そうだな、君の心が決まるまで、僕の一年と七箇月の短命な青春についてでも話そうか。震える手で偏った位置に風穴を開けられちゃあ、堪ったもんじゃないからね。
本当にね、真面目な人間だったんだよ。地域で一番賢い高校に進学して、どんな暗いやつでもしてないっていうのに、制服のカッターシャツのボタンは一番上まで留めて、授業だって一度たりとも寝たことなんかなかったさ。
でも、だからと言って本質的に謹厳実直な人間だったかと言うと、そうではない気がする。親が勧めてきたから、校則で決まっているから、授業は起きて受けるものだから、そうしていただけなんだ。それらに歯向かうのが悪いことだからしなかったとかじゃあないんだ。
曖昧な顔をしているね。同じことじゃないかと思ったかい?いや、これが結構違うんだよ。前者は空っぽだが、後者は中身が詰まってる。それまで培ってきた正義感とか、倫理観とか、そういうの。
僕はね、すっからかんだったんだよ。
校則ひとつとっても、他人の価値観を拝借しているせいで、僕の思考回路がいかに簡素だったかよく分かる。
例えば、「廊下を走ってはいけない」という校則があったとする。真面目なやつは、校則というのは学校生活を秩序立てるために存在し、これを破ることは混乱を引き起こす可能性があるから
ああ、そんなに顔を
僕の行動は、規則の存在のみに
おっと、勘違いはしないでくれよ。僕はもうそんな頭のおかしいやつじゃあない。高校二年の夏にピアス穴を開けるまでの僕に限る話さ。今、耳に傷のない頃の僕に思いを馳せると、著しい感情の欠如に悪寒がするよ。
どうして僕が
あのね、僕は人の心っていうのは、ふつう湯船の中に沈んでいると思うんだ。その湯船に張られているのは、まずは清冽な水だ。そして、外からの刺激、喩えるなら火や入浴剤かな。それらによってふつふつと泡を鳴らすくらい沸騰させられたり、色の要素を持たせられたりするんだ。きっと、苛立っていれば煮えて、幸せなら黄か薄桃かに色付いているんだろう。
それから、そこに浸かる心はさしずめ織物かなと思う。周りの水を織物が飲み込み、熱せられたり染められたりすることで初めて人は感情を抱くんだ。また、これは毛色の違う話だが、過剰に薪を焼べられると、素材によっては劣化してしまったり、溶けてしまったりする。あまりに強い怒りや悲しみを経験して、性格がひん曲がってしまったなんてよく聞く話だろう。そしてこの繊維の変質に加えて、人格の構成要素となるのが染色だ。生きていく中で吸着された色素が重なり合い、心はそれぞれ独特な色味や模様に染め上げられていく。
それと、不定期的に水は替えられるんだ。ある基準を超えるとゴム栓が外れる。ある基準っていうのは水中の温度、或いは着色料の濃度で、その上限は十人十色だ。外的な刺激によって、風呂水が温度や色彩を変容させられ、いつか基準を超える。そうなった風呂水を飲み込んだ心が規定の超過を感知し、放流の運びとなる。栓を抜く前に命が絶えてしまったりするだけで、僕らは永遠に悲愴に溺れ続けることはない。心がいつか踊るのを止めてしまうようにね。勿論、流れ切れなかった水滴が次に張られた水を濁す、つまりは
さて、僕の場合を話そうか。
僕は幼い、それこそ物心もついていないような頃にね。水を抜いた時、心も一緒に流してしまったんだ。
僕の母親は度が過ぎた完璧主義者で、彼女の信念はその夫や僕にも適応された。僕が小学校に上がる前に父は愛想を尽かし家を出てしまい、母は僕の統制に拍車をかけた。幼少期は
心は排水管のずっと奥まで濁流に手を引かれていった。でも、配管の突起にでも
心はすっかり乾いてしまったわけだが、水抜きが行われたら丸く収まるじゃないか。排水管を通る風呂水の、お
だから織物は何にも汚されることなく真っ新、つまり自己形成が出来ておらず、僕は物差しを得ることができなかったから、他の誰かが用意したそれを自分のと比べて吟味する手立てが無かった。だから行動に至るまでの過程において本来あるべきいくらかの段階を
とは言っても、十何年も風呂水を塞き止め続けていれば、ゴムも劣化してくるものだ。年月の流れがそれにひびを入れる。涙が頬を伝うように漏れる濁り水を、枯れた心が貪欲に吸い込んだ。長年の気持の動力を溜め込んだ風呂水の調合は、運悪く好ましくないものだったらしく、突然に、僕の中で漠然とした社会への反抗心が芽生えた。
僕は、一学期の終業式を終えた
ええと、売り場に向かっていた時に僕がどんな感情の支配下にあったかだったね。一般に、高校生が耳に穴を開けるというのは、社会規範の逸脱の象徴と認識されていると思う。その行為をする意志を持って歩んでいるのだと思うと、僕は笑いが止まらなかった。勿論心の中での話だ、表には出さなかったさ。
いや、どうだろう。もしかしたら抑えきれずに、気味悪く口の端を上げていたかも知れない。まあ、そんな薄笑いを貼り付けながらピアッサーを探していたんだよ。でも店を三周しても見つけられなかった。
結局、店員に売り場を尋ねた。その時のね、彼女の表情は傑作だったよ。当時、僕は一目で堅物だと分かるような人間だったんだ。分厚いレンズの角張った金属縁の眼鏡に、整えられず野暮ったく伸びた髪、上までボタンの止められたシャツ。ピアスが最も不格好な人種と言っても過言ではなかった。彼女は僕に呼び止められて返事をした口のまま、僕の頭の
案内されたのは髪飾りが陳列された棚だった。その端に追いやられるように一列分だけ吊られていた。不規則に皺を寄せて曲線を描くシュシュや色とりどりの華やかな花形の髪留めの並ぶ中、無機質な直線で構成された、白濁色の地味な長方形は異質だった。僕は
家に着いたら、鞄も下ろさず台所で保冷剤を回収して、階段を駆け上がった。母親は夕方には帰ってくる。自室の置時計の短針は四と五の間を指していた。悠長にはいられなかった。学習机の足に鞄を
ピアッサーには先の尖った、ちょうど針のようなピアスが埋め込まれていて、それを皮膚に貫通させることで穴を開けるのだけれど、今はまだ皮膚に傷さえ付けていない。これで最後だ。僕は雑巾を絞るように瞼を閉じ一思いにと、もう一度指に力を込めた。親指の付け根がもう痛かった。普段鉛筆くらいしか持たない手だったからね。
今度は何の音もしなかった。ただ、心臓が耳の奥にあるんじゃないかってくらいやけに近く鼓動を感じた。そして、ピアッサーのボディがピアスと分離する。これで完成なのだが、圧迫感があっただけでちっとも痛まないから、社会への反発の象徴がこんなにも手軽に手に入れられて良いものかと拍子抜けした。残念にさえ思ったよ。
もう片方も済ませたら、ようやく鈍痛が滲んできた。熱をもった皮膚が、肉が、僕の非行を実感させる。腹の底が渦を巻くように冷える感じがして思わず身震いしたが、顔は火照って暑い。額の汗を拭い、再会した鏡の中の自分は見たことも無い表情をしていた。目は鋭く光を照り返し、口は三日月に歪み、汗ばんだ肌の突出した部分が日光に濡れている。僕は笑った。今度こそ声を上げてね。
栓は遂にひび割れて、溜まっていた風呂水が勢い良く排水管に雪崩込んだ。背徳感と達成感の決壊に混じる少しの罪悪感はそれらを強調して、僕を煽る。痺れるような法悦が、
どれくらいの間そうしていたか、大分と
その日から僕の青春が始まったんだ。青春、というのが人生の中で最も鮮やかさを持ち、振り返るとあまりの眩しさに目も当てられないものだと定義されるなら、間違いなくあれは僕にとっての青春だった。手洗い場の鏡や電車の窓、街角の硝子張りの壁面に自分が映る度に顔を傾けては、毛先から覗く耳の、誕生石を模した合成樹脂の品のない輝きに酔い
でも、物事には代償ってのが付き物だ。灰色の濃淡だけで描かれていた日々が急に彩度を持ち始めたんだ、当然さ。皺寄せは大学受験に生じてしまった。そうなんだよ、僕は君より一つ年上なんだ。皮肉なことに、装飾具禁止の校則も真面目腐った親ももう僕を見放して縛り付けないから、不合格通知と共に僕は晴れて自由の身になった。でも、あんなに陶酔していたというのに、それを境に金属が耳の穴を埋めることは無かった。合格発表の日の夜、期待外れの結果に加えてそれと因果関係のない僕の人間性を母に叱責され、
僕は、感情を取り戻したと言っても正常になった訳ではなかったんだ。本来ならば浴槽に溜まる水は、受け取った刺激を薄める役割も担っている。つまり感受性の豊かさは、風呂水の規定量によって決まってくる。少なければより濃い刺激を受け取るから心が動かされやすく、多ければ何事にも動じない磐石な精神を持っているということだね。僕はと言うと、湯を溜める機能は栓が散ってしまったからもう使い物にならなかったんだが、恒常性を保とうと、規定量まで水を張ろうとする給湯器の無駄な足掻きが、溶けてもいない刺激を心まで連れてくる。心は一瞬にして深く強く染まってしまうから、耐えられる刺激の量の限界を切り詰めざるを得なかった。だから僕は自己防衛のために、人生で初めての挫折をまるきりピアスのせいにしたんだ。
ちなみにだけど弊害として、感情の起伏が激しくなることだけでなく、
結局、僕のピアスに向けた恋慕はピアスそれ自体にではなく、それが持つ社会への反発の象徴性に対してだけだったんだろう。放置されたピアスホールはいつの間にか空間を閉め出してしまった。けれども完全な更地にはならなかった。鏡に映る残り香が鼻を掠める度、僕は苦い記憶を掘り起こされる。それ
さて、こんなところかな。他人の身体に穴を開ける決心は付いたかい?
はは、冗談だよ、すまないね。意地の悪い言い回しだった。
さあほら、早く。油を長いこと差していない、
痛、た。手間でも氷を貰ってくれば良かったな。ああでも、いいよ。どうせすぐに閉じさせてしまうだろうから。化膿を防ぐための手入れも面倒だし、今は傷でしかないこれが、穴であると自覚し皮膚を持つまで待っていられない。それに、厚い皮膚が出来るまで付けっ放しにする必要があるというのに、垢抜けない装飾も気に入らないな。
いいや、無意味なんかじゃないさ。だってこれでもう、鏡は僕の敵でなくなった。
時に君、以前に僕の家へ遊びに来て、これは何だと聞いてきたものが三つあったね。二つは玄関と洗面台で、新聞紙が長方形に貼り付けられていたのに対して。二年前を
ピアスホール 国路奏 @dryeye
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