第3話 モエニアに煙る夜
夕日が地平に沈み、幾許かの時が経った。
オスキラトル共和国の辺境都市、シラレツの街。中心から少し外れた広場に店を構える酒場からは色とりどりの灯りと酒飲みたちの喧騒とが漏れていて、たまに酒瓶や投げ飛ばされた人間なども漏れていた。
とはいえ酒場の中は人々で賑わい、それなりに楽しげな雰囲気がある。
そんな中、店の端、あまり目立たない席を選び、ハヌカと黒髪の若者が今後のことを話し合っていた。
しかし、如何せん周りの騒ぎが喧しく会話が難しい状況である。
ハヌカは最初にこの酒場に立ち入った時、辺境都市の酒場の治安などこのようなものであろうとも考えたが、聞けば今日は殊更に荒れているようなのだ。それも即ちオリム記念祭の影響である。
ひどい不平等条約であるオリム計画は、強者の側であったゲシュム王国の民には好意的に受け入れられ、ともすれば聖典のように崇められていたが、弱者の側であるオスキラトル共和国の民には悪法中の悪法、歴史上最大の汚点であったという認識が広まっている。
それもそうだろう。向こう二千年ほどは国力を固定するなど小国は小国のままでいろと言うことに他ならない。番狂わせの芽を完全に抜き取ったのだから、小国にとってはたまったものではない。
そんなこともあって、オリム記念祭という祭りはオスキラトルにおいては古の愚者を罵倒する日になっているらしい。
それに世界がその枷から解き放たれた今、鬱憤を溜めに溜めた小国群により大規模な暴動が起きること危険性も十分にある。
「それで、追っ手を撒いてここまで来たのは良いが、これからどうするつもりだ?」
ハヌカの向いに座る若者がこちらに聞こえるように若干声を張って訊ねた。
改まって彼/彼女の顔を見たハヌカは「そういえば」と手を叩き、今更ながらに至極当然の質問を投げかけた。
「あなた名前は?」
思えば今まで必死に追ってから逃げてきたせいで来歴はおろか名前すら知らないのだ。その端正な顔立ちからは男性か女性かという判別すらつかないし、逃亡の際に行使した黒炎の魔法をとっても謎に過ぎる。冷静に考えれば正体不明にもほどがある存在であった。
「ああ、まだ名乗ってはおらなんだな。」
言いつつ自信ありげに胸を張り、艶やかな黒い長髪を腕でなびかせる。
「余は獄吏天カヌス。死と魔性、恐怖を司る冥府の長だ」
「それ、本気で言ってるの?」
あまりに突飛な言葉を受けたハヌカは思わず机に身を乗り出す。
「いやでも……」
その言葉が嘘だと言える根拠もない。実際に目の前で得体の知れない魔法を使って刺客を撃退しているし、その姿からは何か人間からはかけ離れたものを感じられる。
「うーん」
だからと言って『神』というのはどうにも信じがたいことだ。神と信じるにあたってはまだ為したことの規模が小さいし、それに『獄吏天』といえば神の中でも最上級の位階に属する強大な神だ。
それが……コレなのか?
判断を決めあぐねるハヌカを見て神を自称する若者が笑う。
「まぁ今は信じられずとも良い。後になれば判ろうよ」
「……そうね。あなたの行動を見て判断するわ。それで、あなたは『彼』? それとも『彼女』?」
「我ら神祇に定まった性別など無いが、余は男神と捉えられることが多い故、その形態をとっている。まぁそんなことは些事だ。今は目下の問題を解決すべきではないか
? 貴公は次にどう出る」
言われてハヌカはハッとした表情を浮かべる。
酒場の賑やかさに当てられてこの最悪な状況を頭の片隅に追いやっていたが、確かにそれは考えねばなるまい。国内で暗殺を仕掛けられた以上、身の振り方ひとつでいつ命を落としてもおかしくはない。
「国内に戻るのは全く得策ではないでしょうね。おそらくは内部の誰かが手を引いているのだもの。だからといって王女として国外に当てがあるかというとそれも無い……身分を隠してオスキラトルに潜伏するのがよさ――」
「た、大変だァ‼」
彼女の言葉を遮ってひどく焦燥した男の叫び声が酒場中に響いた。
「面白い展開になりそうではないか」
カヌスが言うのを尻目にハヌカはその声の方に振り向く。周りの酒飲みも異常事態を察してどんちゃん騒ぎを止め、皆が一斉にその声の主を探した。
「ハァ……ハァ…………モエニアが……モエニアの街が、ゲシュムに攻撃されてるんだ‼」
見た目からして四・五十代と思われる初老の男は酒場の入り口に膝をついて肩で息をしており、背中にひどい火傷を負った幼子を抱えていた。その両者の顔はどちらも黒く煤けており、火災にあったことが伺える。
動揺した周りの客たちが彼に肩を貸し介抱する中、その男は続けて叫んだ。
「ゲシュムの王族が第一王女以外みんな殺されて、残った第一王女が王位に就いたって話だ……それで、訳が分からねぇが、ゲシュムの兵がモエニアを襲ってる! 街は火の海……そして奴らは、街のみんなを……うぅッ。一体なんなんだよこれはよォ‼」
◆◆◆
夜も深まりつつある平野を二頭の馬がひた走る。
目的地、モエニアに向かって。
「貴公の姉とやらは血を見るのが好きなのか?」
「そんなわけないでしょう! それにモエニアへの侵攻だって姉様が指示したことかどうかわからない。何か大きな策謀に巻き込まれたのかもしれないし……そう……事実を探さなきゃ」
ハヌカは混乱する心をなんとか鎮めるべく無心で馬に跨る。頬に風を受け、『落ち着け』と自身に呼びかけている。
王族が第一王女を除き全て殺されたなど質の悪い冗談であってほしいが、自身がいやに執拗な暗殺を試みられたこともあって、どうしても嘘だと思うことが出来ない。だから実際にモエニアに赴きゲシュムの兵士を捕まえ、そして聞き出すのだ。本国の情勢を。
そうしてひた駆けること一時間の後、夕焼けのように赤く染まった空が地平の先に見えた。
オスキラトル共和国はゲシュム王国の南東に隣接する形で存在している。ゲシュム領カダレヤとオスキラトル領シラレツはその国境を挟むような位置関係で多少の距離が開いており、モエニアはシラレツから北へ行った地点にある。
ゲシュムからの距離を比較するとシラレツとモエニアはおよそ同じ位置にあり、ハヌカたちが刺客を撒きシラレツに向かう間に、あるいはその少し前からゲシュム兵がモエニアに侵攻することは可能であった。
――だけどそれは……事前に計画しなければ実行できることじゃない。
おそらくは王族殺しからオスキラトル侵攻までの流れは全て、ゲシュム内部で何者かが軍部に根回しをして計画を練ったものだ。そうでなければこの動きの迅速さに説明がつかない。
馬に跨るハヌカたちはついにモエニアの街を至近に捉える。
火災によって空を覆うほどに立ち昇る黒煙は立ち向かう者を気圧すように威圧感を増しており、街の中が只ならぬ状況であることを視覚に訴える。
ハヌカが正面で燃え上がるモエニアの街から右に視線を移すと、そこには夜闇に浮かび上がる複数の小さな灯りが街に向かって移動しているのが見えた。灯りは自然光ではない強烈な白色で光を発しており、それが魔鉱を触媒として発光する軍事用の携行ランタンであることが伺い知れる。彼女は自国の軍事支給品に一通り目を通しており携行ランタンについても仕様を把握しているため、右手の方向で移動する灯りの持ち主たちが自国兵ではないと判った。
――ゲシュムのものは青みがかっているはず……オスキラトル自衛軍の制式採用品はゲシュムから卸しているものだし……たしかこのやたらに強い白い光は。
通常、戦場での使用を想定した軍事用の携行ランタンの灯りは出来るだけ目立たないように明度を抑えたものになっている。しかしコピー品などで設計の精度が粗い場合には、明度の微妙な調節が出来ずに強い光を放つのだ。そのような品を使う集団となれば明らかに正規軍ではない。それに正規品の横流し物すら購入する費用を厭うとなれば、ビジネスでやっている傭兵でもないだろう。その上この状況に駆けつける集団とくれば――。
「オスキラトル義勇軍……ってところかしら」
モエニアの南から北上している二人から見て右手の方向――つまり東――に進み続けるとオスキラトルの首都たる『パリエスルベア』が存在している。そこに地下組織として潜伏しているのが対ゲシュムの急先鋒であるオスキラトル義勇軍だ。
おそらくは何らかの情報網でこの騒ぎを知った義勇軍が市民の救助とゲシュム兵の鎮圧のために部隊を遣わしたのだろう。彼らがこの街に到着したとなれば、状況は更に混乱することになる。
「不味いわね」
「そうだな」
街の外郭を囲む城壁を見上げる程に迫る中、カヌスがポツリとつぶやく。
「死の匂いがここまで漂ってくるか。これはまた随分と荒れているようだぞ……あの壁の中は。余としては歓迎するところだが、貴公は良いのか? 刺客共の同輩がいて再び命を狙われる……などということもあるかもしれぬぞ」
カヌスが言い切ると同時だった。
二人はようやくモエニアの城壁にたどり着いた。彼女らは木陰になる人目のつかないところで馬を降りる。
ハヌカはよく働いてくれた馬を労いその場に休ませ、開け放たれた城門に向かっう。彼女は何のためらいもなく燃え盛る街中に向かって進み、振り返らずに口を開いた。
「……その時はあなたの力を頼らせてもらうわ。カダレヤで私を助けてからその対価を要求してこない辺り、大方私を生かすことそのものが目的なのでしょう?」
「ハハハ。その計算高さ……正しく支配者の持つそれだな。いいだろう。この憐れな神は貴公の策にまんまと乗せられてやるさ」
◆◆◆
我々が恐る恐る踏み入った街の中は夜天に逆巻く大火に満ち、そしてそれ以上に夥しい死に満ちていた。
俺は激しい火災の灯りのために不要となった不良品の携行ランタンを消灯し、部隊の皆に手振りで前進の合図を送る。
現在、我々オスキラトル義勇軍実働部隊第二班はパリエスルベアの本部からの伝令を受け、モエニアで勃発したゲシュムによる侵略行為を鎮圧すべく現地に赴き行動を開始したところだ。
俺が班長として率いる義勇兵は六名であり、その誰もが熟達の技量を持つ勇敢な兵士である。……ではあるのだが、このモエニアの現状に対処するためには若干の不安が胸を過る。
本部の情報網はオスキラトルに存在する全ての都市に駐在させている使い魔の“目”を介して精神感応系の魔法保持者が視界を得て監視するという機構を取っているが、その使い魔を処理されれば現地の状況を知る術が無くなる。おそらくはモエニアの“目”は早々に潰され、本部はこの事件をそこまで大規模なものと考えていなかったのだろう。だから我々七名だけがこの街に遣わされたのだ。
装備は夜闇に紛れる黒地の革鎧に一振りの直剣、そして口腔内には敵に捕らえられ脱出が絶望的な状況で使用するための自死の丸薬。たったそれだけだ。
「コイツぁ相当だぞ……一体ここの連中がゲシュムに何をしたってんだ……!」
あまりのやるせなさにポツリと小言が漏れる。
本当にひどい状況だ。
この一帯は街の東側――つまりゲシュムの兵士が入城したであろう西側とは正反対の位置にあり、おそらくは火球投射の魔法によるものとみられる爆発痕と火災だけで収まっているものの、遠目に見る限り東側に近づくほど破壊の痕が色濃く表出している。そちらに行けば多くのゲシュム兵と会敵することになるだろう。
だが今回の行動の目的はゲシュム兵との交戦でも殺害でもない。この状況の鎮圧だ。その中には当然、市民・怪我人の救出が含まれる。敵方の正確な規模が掴めない以上、今は慎重に救助活動に専念することが得策であろう。
「ロメオ、敵方の戦力を分析してくれ。それ以外の五人はこの辺りで逃げ遅れた市民を救助し、城壁の外にある身を潜められるような茂みに誘導するんだ。その際には……オットリーノ、君が隠蔽魔法を施すこと。以上、かかれ」
救助活動には想像以上の労力を要した。
単純に火災がひどく倒壊した家屋に容易に近づけないという点もそうだが、火災に伴う騒音が助けを乞う市民の悲鳴を掻き消してしまい、被害者の捜索には細心の注意を向けねばならなかったのだ。それに、既に大火に巻かれ炭化してしまった遺体をそのままに見捨てなければならないのは非常に心苦しかった。そして何より辛かったのは、下半身を瓦礫に覆われてしまっているもののまだ息のある少年を見つけたときだ。我々が必死の思いでその瓦礫を取り除いた時、彼は既に致命的な損傷を受けていたのだ。苦渋の決断の末、長く苦みを受けぬよう、彼の首を俺の剣が
我々はその後も暫く救助を続行したが、芳しい成果は得られなかった。あるいは、この絶望の状況にあって三名の逃げ遅れた市民を救助できたのは僥倖であったと言えるかもしれない。
付近一帯をあらかた捜索し終えるかという時、敵の戦力分析に取り組んでいた班員――長身の優男ロメオ・ロザーリオが俺に向かって言葉を飛ばした。
「エツィオ班長、解析出ました」
俺は彼に目配せしてから班員たち全員を手招きで
「魔法による破壊痕から推測される敵方の魔法化兵数はおよそ四十。ゲシュムが攻城戦に用いる主な陣形の白兵戦力・魔法戦力の比率は二:三ですから……今回の侵攻における敵兵総数は概して、百ほどはあるかと……」
それを聞いた皆は口をつぐみ、一瞬の沈黙が生じた。炎の燃え盛る音が嫌に騒々しく聞こえる。
「仮にこちらに兵が五十いようが戦闘は避けたい数だな。ましてや実際には現状こちらの戦力は七人だけ……周囲の索敵を厳とし、なんとしても会敵は避けるぞ」
俺がまさにそう言ったその時だった。
視界の端、彼我の距離およそ三十メートル。
崩れた家屋の角から出てきたのは、急所を金属のプレートアーマーで固めた軽装鎧の一団だった。兵装の意匠は黒に深い空色で統一されており、遠目にははっきりと確認できないものの左腕に装備する
「総員戦闘態勢。ゲシュム兵。敵は四、いや五人。鶴翼Ⅲで行く。数ではこちらが有利だ。訓練通りにやればいい」
班員たちに口早に報告を飛ばし、それを受け取った班員は皆迷うことなく路面を駆ける。
会敵は避けたかったが、出会ってしまったものは仕方がない。
幸いにも敵はまだこちらに気づいていない。であれば、敵に姿を見せて逃亡するよりは奇襲をかけて増援を呼ばせないことのほうが重要であろう。
地形は両脇を崩れた家屋が囲む一本道の突き当りに丁字路という具合で、敵のグループは偵察中にその丁字路に差し掛かったと見える。
俺と近接戦闘に長けた小柄のカルロ、筋肉質でがたいの良いノルベルトが正面を行き、軽業に長けた痩躯のパスカーレと紅一点のノーラがそれぞれ左右の家屋の僅かな足場に飛び乗り僅かに先行して敵を挟み込む形を作る。そして後にはロメオとオットリーノが魔法による支援を役割として続く。
距離を半分まで詰めたところで敵方もこちらの存在に気づき、若干の驚きを隠せない様子ではあったがスムーズに戦闘体制に移行し、腰に提げたシンプルな片手剣と
しかしながらその対応はこちらの速攻にすんでのところで間に合わず、正面から駆ける俺たちに気を取られ、両脇から飛び掛かったパスカーレとノーラからそれぞれ一人ずつ致命傷を受けたのである。
奇襲で仲間が二人倒れ、残り三人となったゲシュム兵は、しかし狼狽えることもなく冷静に我々との間合いを測る。その内訳は、長身の男、顔に傷のある男、そして長い髪を後ろで結った男という構成だ。そうして彼らはお互いに背中を預けるように固まり、一切の隙を排除した。その異様な挙動はまるでからくり仕掛けのようで、得体の知れない気味の悪さを感じさせるものであった。
「気をつけろ! こいつら何かがおかしいぞ」
そう俺が班員たちに注意を促すが、気づいた時には既に長身と長髪のゲシュム兵二人が握る短剣がパスカーレとノーラの胸を貫いていた。
「――――は⁉」
そしてすぐに金属が落下する音が聞こえたかと思いその音の発生源を一瞥すると、そこには今しがた胸を貫かれた二人が手に構えていた直剣が横たわっていた。
……馬鹿な。あの一瞬で二人の剣を巻き上げて刺突したというのか? それも二人が同時にそれぞれ一人を仕留めるなど……並みの練度ではない。
眼前で鎧を引き裂く音と共に短剣が引き抜かれ、彼らの足元には血溜まりが生じる。パスカーレとノーラの目からは既に生気が抜けており、路面に打ち捨てられたその姿からは、つい先ほどまで共に言葉を交わしていたのにもかかわらずこのたったわずかな一瞬で彼らがただの死体に成り果ててしまったのだということを痛感させる。
しかし悲しみに暮れている暇を敵が与えてくれようはずもない。
敵の内の一人――顔に傷のある兵士が最も近い位置にいた俺に片手剣で下段から逆袈裟に斬りかかる。その動作は滑らかそのもので、構えから攻撃に移行したという事実を認識しづらくさせ、僅かにこちらの反応を遅らせた。俺は咄嗟の判断で剣で上方向へ勢いを受け流す。金属の強く擦れる音が耳元に響き、火花と共に相手の剣が打ち上った。そして受け流した勢いをこちらの剣に乗せて大きく上段に振りかぶったその時、相手が半身に隠していた左手の短剣を一太刀目の逆袈裟の回転のままに突き出すのが見えた。
――マズい‼
俺は振りかぶった腕に無理を言わせて瞬時に振り下ろし、ギリギリのところで上体を反らして短剣の切っ先を躱すと同時に右膝を大きく振り上げた。俺の直剣の
流石のゲシュム兵も身体的疲労には勝てぬようで、肩で息をしているのが見えた。
とはいえ彼が不気味であることに変わりはない。何ら感情を示さないという部分もそうなのだが、剣を振るうのにも一切の気合を乗せないほどに口を開かないのは明らかに異常である。精神的な干渉の魔法を受けているのか?
「はッ!」
今度はこちらから上段に仕掛ける。
相手は既に左手の短剣を失い、手数の多さというアドバンテージを奪われている。左手に装備する小盾が厄介ではあるが、逆に考えれば俺が攻撃を仕掛ければ相手はその盾で弾く可能性が高いと言えよう。上段からの斬撃などは特に小盾で守りやすいはずだ。故にこそ俺は――。
……かかった!
相手は思惑通りに腰を落とし小盾を高く掲げる。俺の攻撃を反らし、右手に持つ剣で反撃をする算段だろう。だがそうはさせない。
俺は剣を振り下ろすのを途中で止め、その勢いのまま相手の脛を蹴り飛ばした。
「――――⁉」
思わぬところに衝撃を受けたゲシュム兵は重心のバランスを崩してうつ伏せの形に転倒し、背中をがら空きにして大きな隙を許す。俺はこの好機を逃すまいと見切りを付け、直剣を相手の胸に突き立てんとする。
――が、咄嗟に体を捻ったゲシュム兵が渾身の力を込めて左腕を振り払い、俺の剣の軌道を反らして被害を横腹への掠り傷のみに留めたのである。彼はそのまま片手剣を俺に向けて牽制を行い、互いに決着をつけ損ねた形で再び距離を取る。
その瞬間、それを、俺たちは互いに理解したのだ。即ち――彼我の力量は互角であり、このまま剣を打ち合っても明確な勝敗は決しないだろうということを。
このままではジリ貧だ。どうにか状況を打開しなければ。しかし数ではこちらが……。
「待て、皆は――」
俺が振り返った丁度その時、カルロの首が宙を舞い、血飛沫で円弧を描きながら路面に転がっていった。
長髪の兵士。
その首を刎ねた凶刃は血を滴らせながらノルベルトの喉笛に吸い付くように突き出され、正中線からは外れたものの彼の太い首を確かに貫く。だというのに、ノルベルトは声にもならない裂帛の叫びと共にその剛腕で渾身の横薙ぎを繰り出したのだ。
「ッ‼ ぐアアァァァァ‼」
空を切る音と共に剣の一閃が走り、ノルベルトの首を刺した兵士が腰を境に両断される。それを最後にノルベルトは力尽き、カルロとゲシュム兵、そして己の血によって形成された大きな血溜まりに臥した。
「カルロ! ノルベルト!」
俺はただ、仲間が命を散らす光景をただ一瞥することしか出来なかった。
なんと情けないことか。目の前の敵との戦闘に集中して周りへの注意を怠るなど、班長として失格だ。
しかしそんなことは与り知らぬとでも言うように、俺と対峙する兵士は剣戟を仕掛けてくる。俺をこの場に釘付けにして身動きを取らせないつもりだろう。
「貴様ら何が目的だ」
返答は無いと知りながら問いを投げかける。この状況を打開するための策を思案する時間を少しでも稼がなければ。
「や、やめろ!」
後方からオットリーノの叫びが聞こえた。
もうこれ以上殺さないでくれという願いが叶うことはなく、刺突の音と僅かな叫び声だけが俺の耳に届く。
後方には長身の兵士が行ったのだろう。
残るは俺とロメオのみ。敵も二人ではあるがそのどちらも非常に練度が高く、こちらが不利な状況である。ここでまともに戦っても勝機は非常に薄い。
「退くぞロメオ!」
ここで戦って死ぬか、死ぬ可能性を抱えながら逃げるか、選ぶのであれば後者の方が幾分かマシなものだ。無駄に命を落とす必要など、どこにもないのだから。
俺は正面の相手の剣を捌き、片手で腰に提げたランタンのツマミを思い切り捻る。そして手早くそれを敵の眼前に突き出すと、夜目を刺すような眩い白色光が爆ぜるように点灯した。俺は突然の発光に目が眩みたじろぐゲシュム兵の胴に一太刀浴びせてから踵を返し、全力でロメオのいる後方へと駆ける。
「班長、ヤバいかもしれん!」
そのロメオの声色からは諦観のようなものが感じられた。
前方を見据えるとロメオに対してじわじわと距離を詰める長身のゲシュム兵の姿と、左腕から大量に出血している状態で気合だけで立っているようなロメオの姿。
およそ十メートルの距離。割って入るにはあまりにも長く、遠い。
ロメオは優秀な魔法技士であるが、白兵戦に長けているわけではない。次に剣を打ち合えばその時が彼の最期だろう。
走れ、走れ、走れ。
脚がひどく重く感じる。このままでは間に合わない!
長身の兵が剣を振り上げる。
これはもう駄目かと諦めかけた瞬間だった。
火災の音と自分が路面を蹴る音だけが満ちた空間に、突如として地面を鋭く抉る固い金属音が響いた。何事かと音の方向を見遣れば、まさに剣を振り下ろさんとしていたゲシュム兵の右の大腿を投擲槍が貫きその脚を文字通り釘付けにしていたのだ。続いて脇の倒壊した家屋から人影が躍り出て、もう一本の槍で兵士の胸を穿った。
見ればその人物はオスキラトルには珍しいヘーゼルの髪を持つ中年の男で、
「すまない。助かったよ」
避けられぬと思った死から救われて安堵したロメオが男に謝辞の言葉をかけるが、男はロメオに目を遣らず、ゲシュム兵を貫いた二本の槍を引き抜き俺の背後を見据えた。
「そりゃどうも、だがまだ一息吐くには早そうじゃあないか」
振り返ればそこには当然、一時的な失明から復帰した
先ほどは俺と互角に剣を併せていた練度の持ち主だが、ランタンを使って逃げた際に俺から一撃を食らった上に、今は負傷者がいるとはいえこちらが三人、対して向こうはたった一人、さすがに多勢に無勢が過ぎるというモノだ。
ここは叩いておくのが賢明だろう。そう判断した俺は自衛軍の男に協力を仰ぐ。
「我々の戦闘に巻き込む形になって申し訳ないが、協働していただけるか」
「へいへい、こっちもソイツが仕事なもんで。ま、一つヨロシクてこった」
その返答には目線で答え、剣を構える。まさか自衛軍の兵と組むこととなるとは、戦況はどう転ぶか分からんもんだ。
あとは挟撃して斬るのみ……そう思った俺の視界には、またしても予想外のものが映り込んだ。
「――ありゃ……なんだ?」
横で立ち尽くす男も思わず呆気にとられたような声でつぶやく。
我々の目線の先にはゲシュム兵がいる。そこまでは良いのだが、その男の胴体に巻き付くように突如として黒い粘膜質の巨大なナメクジのようなものが現れたのだ。ソレは兵士の体を締め上げて気絶させたかと思うと、黒い霧のように宙に掠れて消えたのである。そうして残ったのは、路面に臥す兵士の姿ただ一つ。
「あんたらの仕掛けたモノじゃあないよな、アレ」
「違う。使い魔といった感じでもなかったが、一体…………いや、ひとまずあの兵士を拘束しよう」
「違いないな」
ひとまずの危機も去り落ち付いて会話する中、ロメオが我々に向かって叫ぶ。
「気を付けろ! そいつ体は動いている」
言われてよく見ると確かに兵士は「うぅ……」と唸り声をあげ、悪夢でも見ているかのように体を捩っている。やはり何らかの手法で精神に干渉を受けていると考えるのが妥当であろうか。
我々が拘束しようと近づくと意識が戻ったようで、瞬時に上体を起こして辺りを見回している。彼の顔にはまるで状況が呑み込めないといったような困惑の表情が浮かべられ、記憶が混濁しているのであろうということが見て取れた。
「ここは……?」
彼は俺の姿を見ると何かを恐れるように後退り、何かよく聞き取れない言葉をボソボソと呟きながら全力で走り出した。
「待て!」
ゲシュム兵は一目散に逃走する。ここで追撃すれば彼一人であれば倒せるとは思うが……。
「やめておいた方がいいぜ。
◆◆◆
「はぁ……はぁ……はぁ」
燃え盛る路地をひた走る。
自分は何故こんなところにいるのか。
ここは何処なのか。
いつ負傷したのか。
分からないことが多すぎる。
しかし、そんな中でも覚えていることが一つあった。それは、この手で多くのオスキラトル人を殺めたことだ。何故そんなことをしたのかは分からないが、とにかく私が手に持つ剣でオスキラトルの兵士の首を刎ね、ものも分からぬ子どもの胸を刺し、逃げる女の背を斬り、立ち向かう男を撫で切りにした。まさしく魔性のような振る舞いだ。
いや、果たしてそれは本当に私がやったことなのか? あまりに現実感が無さすぎる。しかし、あの肉を断つ感触は確かに私の手に残っている。何が本当なんだ。
いや、いや、いや、いや……。
もう何も考えたくない。恐ろしい。真実を知ることが。
それに、鎧に付与された止血の加護によって出血は止まっているものの、胴に受けた傷が深い。内臓には達していないものの既に相当の血を失っているらしく、思考がおぼつかない。
ああ、いっそ私が殺される側であったらよかったのに。
自分がどこに向かっているのか分からないまま、とにかく走った。途中で仲間と思しきゲシュムの兵士とすれ違ったが、今の私にはどうでもいいことだ。どこか、ここではないどこかへ逃げなければ。
考えることをやめた辺りで、唐突に首根っこを掴まれた。
「そら、ちょうどいいところにゲシュムの兵士がいたではないか」
誰だろうとどうでもいいが、早くここを去らなければ。
どこかへ。
◆◆◆
時は少し遡る。
モエニアの街に入城したハヌカとカヌスはこの世の地獄を見た。
我を失って街を破壊するゲシュム兵。それに応戦するも物量に圧され蹂躙されるオスキラトル自衛軍駐屯兵。理由もなく虐殺される数多くの市民。まさに「血で血を洗う様な」と形容すべき惨劇。
数人の兵士を捕まえて尋問したが、この攻撃を指示した者については皆一様に一切口を開かなかった。しかし共通の答えも見られた。王族が第一王女ザカリヤ・ジンベルを除いて皆殺しにされたこと、そして彼女が女王の座に就いたということだ。
そんな中、「こんなふざけた侵攻、今すぐにでも止めさせなくちゃ。ゲシュムの王族として、それはやらなきゃならない」と意思を固めるハヌカであったが、如何せんその小さな体一つでは何もできない。彼女はカヌスに助力を乞うも「余は貴公を死なせないだけ……貴公に成し遂げたいことがあるのなら自らの力をもってそれを行え」と窘められ、自分がどのような行動を選択すべきか深く思案していた。
この場において彼女一人の力で出来ることと言えば、奇襲をかけて数人のゲシュム兵を無力化する程度のものだ。しかしそれは意味が無い。かなりの人数を率いて街攻めをする彼らから数人が欠けたところで焼け石に水、取るに足らない軽微な被害に留まるだろう。それに何より、それは王女として為すべき仕事ではない。王女には王女なりの戦い方というモノがあるはずだ。
ひたすらに思案するハヌカを眺めるカヌスであったが、意を決したように口を開いた。
「余と契約して力を行使する……という方法もあることにはあるぞ。この街にいるゲシュム兵全ての意識を奪うくらいならば造作もない」
ハヌカはぎょっとして振り向きカヌスの顔を見つめる。その顔は至って平静……ではなく、僅かに心苦しそうな、あまり気乗りのしないような表情であった。
彼女はハヌカの不穏な表情に引っ掛かりを覚えるものの、どうやら伊達や酔狂で言っている訳ではないらしい。半信半疑ではいたが、もしもカヌスが本当の獄吏天カヌスであるならばその力が絶大なものだろう。他に方法が無い以上彼を信じるしかないとハヌカは意を決し、言葉を返す。
「その契約、どう結ぶのかしら」
「余に死を捧げよ。分かりやすいように言葉を換えるとだ……貴公がその手で直接、人を殺めるのだ」
◆◆◆
こうして、ゲシュム王国第二王女ハヌカ・ジンベルは一人の自国兵士の命をその手で奪い、これを代償としてモエニアに侵攻したおよそ百名のゲシュム兵を鎮圧、ゲシュムによるオスキラトル侵攻の足掛かりを潰し、結果として多くの命を救うこととなった。
彼女が代償と引き換えに得た黒炎は正しく神の権能の一端。
この規模での権能の行使は古き神代が終わりを告げて人の時代に遷ってから、史上初の出来事であった。
◆◆◆
同刻
オスキラトル共和国首都パリエスルベア、中央回廊“黄金塔”。
月明りに照らされた尖塔の屋根上に人影が一つ。白髪の少女の形をとるモノは遠く西方を見つめ、呟いた。
「……カヌス様、お戻りになられたのですね」
◆◆◆
同刻
モエニアの街、城壁の上。
火災で赤く染まった夜空に外套を翻す影が浮かぶ。
ソレの周囲には月明りを反射するタールのような黒い粘液が漂っている。ソレは外套から漏れ出る触手に粘液を吸収すると踵を返し、宙にぽっかりと開いた黒い孔へと歩み入り虚空へ消えていった。
◆◆◆
同刻
ゲシュム王国王都シギュラ、シギュラ城国王執務室。
月明りが射し込む薄暗い部屋には種々の細かい意匠が施された調度の数々が置かれ、窓寄りの中央、この部屋の主役とでも言うべき豪奢な執務机には、黒革に青の刺繍が施された軍服様の衣装を纏う若い女性が就いている。背中で編みこまれた長い金の髪はゲシュム王族の女性の特徴であり、中でも彼女が首元に着けるダイヤモンドの装飾と純金の竜があしらわれた徽章は国内における地位の最高位――国王の位を示すものである。
「どういう因果か、あの子も神を味方につけたということか」
彼女がポツリと独り言ちると、部屋の暗がりから言葉が投げかけられる。
「いずれにせよ
◆◆◆
こうして盤上には何も知らない二つの駒が放り出された。
片や命を狙われ国から追われた秀才の王女。片や悠久の時を封印されていた死の神祇。偶然か必然か、出会ってしまった彼女らは多くの者を巻き込みながら自らの目的に向かい突き進む。
その端緒がオスキラトル共和国の辺境、モエニアでの契約に始まったのだ。
死の神様と亡命王女の国盗り戦 vosem/ぼせみ @vosem_8
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