第2話 カダレヤ逃走

 自分が初めに認識したのは空だった。

 次いで雲。その下を滑るように飛ぶ鳥の群れ。

 そして持ち上げた自分の手の平。

 後頭部にはくすぐられるような感覚と、やわらかな地面の感触。

 

 は自分が草原に横たわっているのだろうと予測する。


 その予測は当たりだった。

 ここは高山。

 切り立つような山地の中腹に開けた雪降る野原。

 辺りには苔むした白亜の神殿の残骸が散乱している。石柱は幾本かの列を残してすべてが倒壊しており、ツタと野花に覆われ本来あるべき形を失って久しいと見える。

 雪は草原に触れてはすぐに透明の滴となり、一面に深く降り積もることは無い。一部の遺構の上のみが漂白されている。


 自分は眠たげに体を起こす。

 体の感覚を確かめるようにゆっくりと両手を開閉する。

 深呼吸。


「あぁ……久しいな…………。さて、起き抜けの散歩にでも行こうか」

 両の足で草原を踏みしめ、大地に立ち上がる。

 

 遥かな年月を無人で過ごした高原の遺構にはただ一人分の足音だけが響き、それもすぐに遠くへと消え去っていった。


◆◆◆


「ちょっと訊くけれども、そこなおじさん、今日は何かの祭りか?」


 黄昏時。

 西の空を見ると、低く沈む鮮やかなオレンジと高く広がる深い夜の群青とのグラデーションに、街を取り囲む城壁と幾本もの尖塔の影が浮かび上がっている。

 木造の牧歌的な建物が密集して連なる街中は、特別らしい煌びやかな様々の飾りと柔らかな暖色の明かりを放つランタンに彩られ、多くの人々は皆一様にして陽気な雰囲気に包まれている。

 そんなハレの日の街の一画、自分は落ち着いた色調の漆喰で塗られた大きな宿屋の軒先で、揺り椅子に座る人当たりの良さそうな老人に声をかけた。


 豊かな白髪と髭を蓄えた好々翁は眠たげに首をもたげ、周囲の喧騒をぐるりと一周見回してから、その言葉が自分に向けられたものだったと理解したようだった。

「ああ、そうだとも。この祭りを知らないっていうとアレだな、あんた少なくともこのゲシュム王国のモンじゃあないね」


 しゃがれた声に朗らかな笑いを含ませながら老人は言った。

 彼はそこでの容姿に目を止めたようで、二、三秒かけて視線を上下させ、僅かばかりの興味を顔に出して訊ねた。

「あんたえらく若く見えるが、よくも祭りを知らずにこんな辺境に足を運ぶもんだよ。旅人さんかね」


「あぁ、まぁ、たしかに、この国の出じゃあない。そして旅人かどうかと訊かれれば、そうなのだろう、きっと。私は旅人だとも」


「随分、迂遠な言い方をするもんだ。あんた詩人かね? ははは、まぁ、なんだ……せっかくだから祭りを見ていくといいよ。あっちの道を行けば広場に出る。そこで今、王女様が挨拶なされてるだろう」

 老人はそう言いながら、一際幅広く賑わいのある通りを指差して微笑んでみせた。

 なるほどその通りにはいくつもの露店と大勢の見物人らしき人混みが見て取れ、それが街の中心へ繋がる大通りなのだということが分かる。


「王女様、か……どうも丁寧にありがとう。行ってみるとしよう。それじゃあ、良い晩を」

 自分はひらひらと左の腕を振って、ランタンの光と賑やかな人々の声とで飽和したかのような雑踏へと踵を返した。

「しかし……」

 一つ違和感を覚える点があった。

 ――血の匂いが濃い。

 換言して、殺しを生業とするような人間の気配がいくつも感じられる。

 祭りというのは果たしてこういうものなのだろうか。

「王女だとかの護衛の人間と言えばそれで説明はつくが……」

 場の雰囲気に酔った人々の波を掻き分けつつ、ポツリと呟く。

 何故だろうか、そういう空気ではないのだ。

 

 殺気立っている。

 

 これは期待せずにはいられない。

 血が流れるのは良い。

 誰かが死ぬのはもっと良い。

 

「それを観測するのが余の仕事だ」


 自分は足早に件の広場へと向かった。


◆◆◆


「誰⁉」

 ハヌカは咄嗟に叫んだ。

 すると黒髪の若者は皮肉気な微笑を口の端に浮かべ、端的に言葉を紡ぐ。

「この場でそれは必要か?」


 ――もっともだ。今はただ、この状況から脱することこそを優先すべき。


 ハヌカは一切の余分な思考を捨て、演壇から飛び退る。

 その瞬間、警備兵を毒殺したと思しき二名の刺客が演壇の両脇から飛び出した。彼らは懐から黒塗りの刃を何本も取り出したかと思うと間髪入れずに投擲する。

 放たれた凶刃は扇状に広がりながら彼女の跳躍する軌道を捉えた。

 

 ――マズい――!


 それは直感だった。考える時間などない。

 どう体を動かそうと避けられる軌道ではないし、防御のための魔法の励起時間は刃を弾くのに間に合わない。


 急所を避けて体で受けるしかない!


 彼女がそう思考を巡らせた瞬間だった。

 痛みを覚悟して体を固めた彼女に来るべき痛みは訪れず、凶刃のすべてが蒼黒い炎に包まれ焼失したのだ。

 

「毒だ。受ければ死ぬぞ」


 ハヌカは自らの両眼を疑った。

 若者はただそこに悠然たる笑みを浮かべて立っていただけだ。

 それが、何の予兆も無く幾つもの刃を正確に灰燼に帰した。

 何の動作も無くあれだけの燃焼力を持つ魔法を行使したというのだろうか。


 ――いや、そんなことよりも。

 毒が塗布されているという可能性を考えなかったのは全く以て冷静な判断ではなかった。

 生き残るためには常に冷静でいなければ。

 彼女はそのまま受け身を取って広場へと着地し、若者の下へ駆け抜ける。

 周囲の聴衆は何が起きているのか分からぬ様子で演壇と彼女とを見遣り、ある者は叫びある者は放心し、またある者は好奇の目で状況を観察している。困惑のどよめきがハヌカを中心として伝播してゆく。

 若者は目前に飛び降りた私の表情を見ると、ただわずかに口角を上げ、黒い外套の翻る影に踵を返した。そしてただ一言、

「ついて来るがいいさ」

 そう言って街路へと駆けた。


 刺客からの逃走劇は舞台を移し、彼女らは地域の住人が生活で使うような入り組んだ狭い路地をひた走っている。

 物干しのために設けられたと見える縄が壁から壁へと所狭しと伸びており、地には雑多な生活用品が散乱している。とてもじゃないがここを全速力で駆けるのは無理がある。

 事実、それが先を行く彼の狙いなのだろう。

 広い直線の道を行けば七人の刺客に挟まれる。そうでなくとも、彼らは対象を追跡する訓練を受けている筈であって正攻法では逃げ切れない。

 であれば、この狭小な路地で追手を巻くほかあるまい。


 普段から護身術の稽古で運動する程度のハヌカにとって、走りでの競争はともかくとして障害物を避けつつ移動するのであれば人並み以上には出来る。

 ひたすらに逃げ切る事だけを考えて走る。

 そうしている間に、広場の方向から聞こえてくる喧騒とは別に一定のペースで鳴り続ける物音が聞こえた。


「これは……」

 彼女は走りながらも耳を澄まし、注意深く音の正体を探る。彼女の耳に入る音は探索魔法の効果により増大する。自分の心音、呼吸音、足音、そして後方から聞こえてくる刺客の足音。祭りの喧騒、虫の鳴き声、生活音。

 そして、レンガを踏む僅かな音。

 方向は――

「上か! 蚊のように鬱陶しいッ!」


 見上げたと同時、黒塗りの湾刀がハヌカの首目掛けて夜の帳を切り裂く。風切りの音は危ういところで彼女の首筋を掠め、その白い肌に血の滴を浮かべた。

 すれ違いざまに見えた湾刀の持ち主は全身を黒いボロ布で覆い、顔には無地の黒面を装着していた。手がかりとなる意匠などは何一つなく、己の正体を隠すことを徹底した装備だ。

「――ッ、これも毒か」

 刃が掠めた傷がジンジンと燃えるような痛みを生み出している。

 だが、軽度なモノであれば彼女にとって問題にはならない。

 傷口の出血はすぐに止まり、傷でさえも目に見える速度で治癒されていく。常時発動型の治癒魔法と解毒魔法が効果を発揮したのだ。

 ハヌカ・ジンベルという王女は、仮に国内が安全だと知っていても暗殺や強襲への備えを一度たりとも解除したことが無かった。それこそ、彼女が持つ国の在り方への不信感の表れである。

 そして絶えず抱いていたその不信感が、このような嫌な事態でこそ役に立ったというわけだ。なんとも皮肉なものである、と感じさせられる。

「今はそんなことより……!」

 延々と付け狙ってくる厄介な刺客は処理しておきたいところだが、ここで足を止めていては後続が増えるだけで状況は好転しない。

 このまま逃げるしかないと意を決したハヌカは、飛び込んできた勢いに任せて後方に受け身を取るボロ布の刺客を一瞥し、真に迫った声で言った。

 

「ここで貴殿を相手にしている時間は無い。追うと言うなら追うがいい」

 その上で付いて来るのであれば自分も容赦はしない、と半ば自分自身に言い聞かせるように告げ、再び前を向いて走り出す。


 そんな彼女の言葉を聞いた黒髪の若者は面白げに肩を揺らし口を開いた。 

「クク……大層な事を。見得か?」


「そうね、立場のある人間というのは何をするにも……逃げるのにも儀がなければまかり通らないのだから」

 不思議と、ハヌカは黒髪の若者の言葉に不快感を覚えなかった。ただ泰然とそこにある自然……そういったモノに語りかけられたかのよう。

 彼、あるいは彼女は一体何者であるのだろうか――そんな疑問すら大したことではないと思わせるような、既視感、郷愁が彼女の心の中にあった。

 ――以前に会ったことがある? どこかの王族か……いや、思い出せない。


 そこからしばらくは刺客に追いつかれることもなく、順調に路地を進んでいった。

祭りの喧騒と切り離された裏路地にはただ乱暴な物音だけが風のように通り過ぎてゆく。

 とうとう門前広場にたどり着き、二人は勢いを緩めることなく真っ直ぐに門へと向かう。この門を抜ければ街の外に抜けられる。そうなれば逃げ場はいくらでも見繕える。そこまでの勝負だ。


「彼らに協力してもらおう」

 出し抜けに黒髪の若者が言った。

 一体誰に……と思って彼/彼女の視線に習って見ると、そこにあったのは馬の厩舎だった。

「ええ、そうね」

 言いつつハヌカは懐から一切れの紙を取り出し、そこに「馬二頭」と記入する。


「何をしている? 早くこの場を去らなければならないのでは」


「徴発の証明書よ。このまま盗むわけにはいかないでしょう。これで飼い主には後で代金が支払われるわ」


「生命に所有者など存在しない、などと……栓無きことだな。好きにすると良い」


 ハヌカはその証明書を目立つように厩舎に置いてからすぐ、鞍が載せられた馬にまたがる。王族として乗馬術は一通り学んでおり、十分に乗りこなせるという自信はあった。

 彼女が馬を落ち着かせ前進を促していると、後方から刺客が迫って来ているということが索敵魔法によって報される。

 型どおりにやっている場合ではないか。馬に多少負荷をかけてしまうことにはなるが、今は早々に馬を走らせるのが要だろう。


 ――けれど……。

「なぜここまで執拗に付け狙うの……?」

 今この時でなくとも、作戦を練り直す時間はいくらでもあるだろう。おそらくは演壇で暗殺を遂行する手筈だったのであろうが、それが失敗したにも拘わらず諦めず命を狙うとは、このタイミングでなければならない理由があるとしか考えられない。


 二人は城壁の外の暗闇を目指して馬を駆る。

 追跡の手練れといえども化生の類ではあるまい。彼らは人間だ。開けた場所での競走で馬に競り勝つ道理はないだろう。

 

 街と外界を隔てる門まであとほんの僅かな瞬間という所だった。

 城壁の上、そこで待機していたのであろう鴉のような黒衣の刺客が跳躍した。

 遠くからは装束の黒が夜闇に溶け込んでそれと判別出来なかったが、彼らを頭上に見上げるほどに接近してしまった今、その死神の如きボロ布の姿をしっかりと視界に捉えることが出来た。

「上に!」


 次いで、背後から迫り来る気配。

黒衣の刺客たちが二人の駆る馬の速度に追いつかんばかりに、舗装された広場のタイルを蹴っているのだ。


「そんな馬鹿な――!」


 ――広場と言えど客足多い祭りの街中、馬を疾駆させるには都合が悪かったことは認めよう。だが同時に、そも刺客の足の速さそのものが尋常の域を超えているのだ。

 背後の刺客はあたかもその身に獲物を追う飢えた獣を宿したかのように、容赦なく二人を追い詰める。

「これだけの数は……!」

 ――どうしたものか。


 馬に乗っていれば頭上から迫る凶刃に首を刎ねられる。

 馬から降りて身を翻せば背後から迫る凶刃に臓腑を抉られる。

 かくなる上は魔法の力に頼る他ないが、魔法を使ったとしてこの状況を打破できるとも限らない。


 ――が。

「ここを切り抜けられねば後に死ぬも同じかしら」

 独り言ち、自らを中心として周囲に拡散する爆風を巻き起こすべく意識を集中する。これが上手くいかなければ命はそこまでだと意を決する。

 

 その時、ハヌカの不意を突くように黒髪の若者が口を開いた。

「逸るな。助かりたいなら、と言った手前、余がどうにかするのが筋だ」


 黒髪の若者が僅かに腕を振ると、周囲の霊素エーテルが地鳴りのような音を立てて蠕動する。瞬間、彼/彼女とハヌカを包むように轟々と蠢く黒い炎が立ち現われたのだ。

 黒炎は周囲の刺客を焦熱で煽り、空間を焼き尽くそうかというようなその熱は爆風となって刺客たちを三々五々に吹き飛ばす。

「重畳哉。我が腕も鈍らにはならなんだか」


「――これは⁉」

 思わず口をついて驚愕の言葉が漏れ出てしまう。


「久方ぶりのことでどうなることかと案じていたが、杞憂だったな」

 飄々と言ってみせる彼/彼女だが、ハヌカがその顔に視線を向けると、その態度とは裏腹に心底満足げな笑みを浮かべていた。


 二人の乗る馬たちはその尋常ならざる炎に驚き勢いよく走り出す。ハヌカは我を忘れて暗闇に向けて疾駆する馬から振り落とされぬように手綱を握りしめ、背後にて今尚もうもうと燃え盛る炎を一瞥する。

 その色、その勢いからして普通の炎ではないということは明らかだった。むしろ炎というよりはその場で渦巻く煙に近いか。その場のエーテルが直接「黒炎」という現象に変換されたのだ。

 ――何にせよ、人の為せる業ではない。そして、その人ならざる炎は刺客を灰燼に帰すことなく吹き飛ばすに留めた。何のために?


「珍しいものを見たという風だな」


「そうね。実際、あんな芸当はこの現世において如何な達人、賢者、秘伝の技法、最新の研究を以てしても成し得ない業だもの」


「そうか……まあ気にしないのが良かろうよ。その仔細を知りたいとあらば――またいずれ。ともあれ今はこの場を脱し安全な場所へ身を隠すのが先決だろう。当てはあるのか?」


「都に戻ることも考えたけれど、そも刺客が国外ではなく内部からのものだという可能性が高い以上、国内に潜伏するのは悪手でしょうね。であれば必定、国外逃亡せざるを得ないわ」


「心得た。して、どこへ」


「この道を行った森の先に小規模な街があるわ。『シラレツ』という、『オスキラトル共和国』の辺境都市……オスキラトルは国と言ってもゲシュム王国の支配下にある『自治都市という名目の植民地』のようなものだから、他の中立国や敵対国より幾許かは入り込みやすいでしょう」


 次第に馬はカダレヤの街から遠ざかり、二頭と二人の周りには夜の暗闇だけがあった。もはや街の明かりは麦芽の一粒にも満たぬほどに小さく見える。

 月明りだけが照らす草原は風に揺れ、銀色の海が波打つようであった。


「さて、刺客は完全に撒いたようね」

 先ほどからハヌカが走らせていたエーテル動作系索敵魔法は人間や使い魔の類が発するエーテルの揺らぎを一切関知していない。さらには熱源索敵魔法も同様。周囲の危険性は全て取り払われたのだ。


「けれど……難儀なモノね」

 ハヌカは嘆息と共に松明に明かりを灯す。

 安全を実感した今、ようやく自分が置かれた状況の特異性とその解決の困難さに直面したのだ。

「これから何が起こるのかしら」


◆◆◆


 同刻、ゲシュム王国、王都『シギュラ』。

 空に抜けるような高い天井を持つ広大な謁見の間に、人影が一つ。

 は血溜まりになった床に波紋を立てながら一歩一歩ゆったりと足を進める。空気に触れて凝固し行く血は粘着質に彼女のブーツの靴底にまとわりつく。まるで縋るように、彼女を止めようとするように。

 しかし、彼女は歩みを止めない。

 そうして玉座の前にたどり着くと、後ろを振り返らずに声をかけた。

「オスキラトルへ侵攻せよ。蹂躙し、辱めよ」


「御意のままに」

 その返答は日暮れの闇に覆われた謁見の間の入り口から発せられる。


 言われた彼女は顔色を変えずに体を翻す。そして玉座に掛けたかと思うと、固く閉ざしたその口を開いたのであった。


「――そう。これはゲシュム王国第一王女改め、王女ザカリヤ・ジンベルの王令である。戦火に薪をくべよ!」

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