第7話 アラウンド・バッド
「ママ」は簡単に二階のベランダまで駆け上がった。室外機や手すりや窓などをクライミングしていく様は圧巻だった。だがなにより驚かされたことは男の私を背負って軽々と事を成したことだ。夏場であり網戸にしていたためガラスを割る労をせず進入に成功した。
昨晩何があったか一目瞭然の男女の寝室は精液の臭い以上に脇や股間から立ち上る獣の臭いで満ちていた。冷房をつけようとしたが涙ぐましい節約中のようでリモコンに電池が入っていなかった。
「貴方はこいつの変わりになるの」と呟いた。
「ママ」は寝ている男の首に膝をのせて―男は一瞬で目が覚めた―腕をつかみローギアからトップギアにチェンジレバーを動かすがごとく肩関節を外した。両肩が無力化した声は寝乱れていた女を起こすには十分であった。髪から全身の肉体に至るまで震えつつも逃げるために跳ね起きた。
ショーツだけしか身にまとっていない女を私は抱きかかえて「ママ」が来るのを待った。
「落ち着いてください。聞けばあなたは借金を返せばいいだけらしいじゃないですか」
「はなせ」と女は言うが予想をはるかに下回る全く力のない抵抗をする。張り合いの無さに腹が立ち始めていた私を助けるかのように「ママ」は女の顔を叩いた。私もなんとなく女を抱える力を強くした。
台所や玄関まであちこちに落ちているチラシや酒瓶や洗濯物や紙くずに私は嫌悪感を禁じ得ない。
「金だけじゃないでしょ?」と女の顎をつかんで「あのガキから奪ったメスはどこ?」と既に死にかけている男を指差した。
「メス? なにそれ。外科医から奪ったのかお前は?」
「さっきの紙に書いてたでしょ?」と笑った。
「この女の顔をよく見て」歯がボロボロであった。よく見れば腕も注射器の痕だらけであった。
「ママ」は私を脅すのにも使った包丁を取り出した。
「あまりじらせないで? ガキ出す穴と糞出す穴を弄られたい?」
「ママ」は私に包丁を持たせて喉にあてるように指示した。そして寝室から浅い息をしている男を引きずってきた。浅くて荒い呼吸である男は顔面からも血を流している。
「ママ」はどこから持ってきたのかゴキブリ駆除スプレーを男の口に入れた。
男の鼻から白い煙が吹き出した。
眼はみるみる充血した。
唾液をじゅるりと口から吐き出した。
女は私の胸に顔を埋めた。あまりにも残酷な男の末路に私は義憤にかられつつも女の顔をそちらに向けて目を見開かせた。
私の手が涙で濡れた。
「ママ」は無表情だったが禿頭の頭頂部が赤くなっている。なにかの感情は動いているようだ。
その感情の動きは愉悦だったのか今となっては分からない。だが「ママ」が油断していたことは断定できる。駆除スプレーがガス欠になりその缶を捨てたときなぜか私が手にしていたはずの包丁を持っていた女が―引ったくられてしまったらしい―無防備だった「ママ」の心臓や喉を突き刺した。止めどない流血にもかかわらず女は刺すのをやめない。
そんな女の頭を酒瓶で動かなくなるまで殴った。
以上が非常に愉快な出来事の顛末である。余談だが私は三人を丁寧に始末した。このことを語るにはまた別の物語を拵えねばならないが、今はやる気がない。
アラウンド・バッド 古新野 ま~ち @obakabanashi
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