天上に至る青さよ

草森ゆき

天上に至る青さよ


 ある日きみがいなくなってしまって失意に落ちたぼくだったけれども、帰ってきてくれたときは本当に嬉しかったし、今またこうしてきみを追い掛ける日々に戻れたことに望外の喜びを感じているよ。

 きみはどこまでもどこまでも飛んでゆく。大空を羽もないのに羽ばたいてゆく。赤色の雲を割り、ねじまきのような青空を進み、どうしてまだあなたは飛ばないのかしらと、時折ぼくを振り返りそう言いたげな顔をする。

 青色の風が吹きつける。笑い声が耳に届いて、ぼくはスポンジの大地を踏み締める。灰のような草花が散って、一瞬でまた芽生え、気体の花を撒き散らす。



 きみは自由な人だったね。きらきらと清々しく、零れ落ちるくらいに自由な人だったよね。

 喫茶店で待ち合わせて、ちっとも来ないと思っていたら、電柱の烏をカメラに収め続けていた。ぼくとの約束については頭から抜けて烏のエサにしてしまって、それでも悪びれずにそうだっけ、なんて言いながら手元のカメラを覗き込み、烏ってくちばしも黒いのね、なんて一人の世界に入ってゆく。

 会えば会うほど物足りなくて、なんだかだんだん物足りなくて、物足りないことが自然になって、物足りなさがいつしか溢れて零れ落ちてきみの足をひどく濡らして、もののたりなさって自分の至らなさから来るのよって、きみは冷静に言った。

 そうなのだろうか。そうかもしれないしそうじゃないかもしれなかった。ぼくは確かに物足りないのだけれどこの物足りなさは本当にぼくが感じているものなのか、恋人というのはもうちょっと粘つくような関係になるという自意識外からの圧力によるものなのか、時間という作用点が退屈をイコールで渇望と結びつけた現象なのか、わからないんだけど物足りない。

 きみは鼻でわらう。ぼくは肩を揺らして、また物足りなさを感じながら、でもぼくはきみがいれば幸だし同時に幸せにしたいしそう思うってことは出来るはずなんだよって、腕組みをしながらぼくを牽制するように見るきみに訴える。

 あなたは自分がないひとなのね。

 本当に、本当に、自分のない人なのね。

 しがない修理工だってわからないのね。



 悠々飛んでゆくきみはとても自由だ、以前よりもずっと自由で奥深い。その瞳。めまぐるしい空をうつすその瞳。ぼくの距離からはほんの少ししか見えないのだけれどはっきりとわかるその瞳の色。解き放たれた人間の色。七色の雨が降る。ぼくは全身を虹にしながらなぜかひとつも濡れないきみを走って走って追い掛ける。

 ねえ、待って。どこにいくの。

 西の方。

 声は直接頭に響いて、西の方、とぼくは口に出してたしかめる。

 追い掛けるうちに朝日が沈んだ。ゆっくりと夜になって星がきらめきひとつずつ弾け飛ぶ。その中をきみはやっぱり飛んで、ぼくはやっぱり追い掛ける。



 いつ辿り着くのか、ということについて、ぼくはきみの意見が聴きたい。音楽のように浸透する言葉で聴きたい。肌にしみこむ音符の群れに打ち震えたときのように、きみの紡ぐ言葉という恩恵を永遠に聴きたい。

 そしてなにに辿り着くのか、ということについて、ぼくは物理的に辿り着くと心理的に辿り着くとはまったく意味合いが違うのだと、星がすべて弾け切った夜空を見上げてかんがえる。

 月が。

 まだ月がある。

 あれが光るということは太陽もどこかにある。

 でも本当にあるのかどうか、本当は誰も知らないのではないか?

 きみはどう思うだろう。飛ぶ後ろ姿に声をかける。太陽はどこにあるのだろう。きみは答える。太陽はひとつのところにいないから、ほとんどないと同じなのよ。ずっと変わってゆくものがずっとそこにあるなんて、誰が決めたっていうのよ。

 そういうものかもしれない、とまたきみの言葉に同意しそうになる。それできみはそう決められたような口ぶりで、あなたは自分がないひとなのねと繰り返す。繰り返す。繰り返す。そらをとぶ。



 辺りはじわじわ夕方になる。そこでやっと時間が反対だ、と気付く。でも本当は朝とか昼とか、そういう取り決めもぼくたちが勝手にしたものなのだから、反対だと思うこと自体が真実からもっとも遠ざかる意見なのかもしれない。

 真実。なんだかつよくて嫌な言葉だ、ぼくは西へ向かうきみを見る。西にはなにがあるのだろう。果てがあるのだろうか、果てとは誰が決めた果てなのだろうか。

 うずまく大空がわっと叫ぶ。そうだ空には果てがない。ぐるっと一周、ぼくたちの星を包んでいる。輪廻のように、ぐるっと一周、ずっとそこにあるものだ。じゃあ飛ぶきみはいつまでたっても西に辿り着かないんじゃないかな。そう声をかけると、でも西なのよ、と返ってくるので、西なのか、とぼくも納得せざるを得ない。

 ぐるっと一周。くすくす笑う虫の声、真っ赤に流れるそばの川、どうにもざわつくぼくの皮膚、西なのよときみの声。

 果てはわからなくとも寄る辺はあるのだ、ぼくはどうしようもなくきみを追う。優雅に飛んで、たゆたって、華麗に回るきみを追う。ねえ、どこにいくんだい、どこにいってしまったんだい。

 ぼくはきみというひとが、いなくなってしまった日を思う。


 きみがいなくなった日は、土砂降りで事故がおおくて、冷酷な日だったね。

 ぼくはすっかり全身物足りなくて、きみに会うことでどうにか補強して歩いていたので、きみがスリップしたバイクの後ろに乗っていてそのまま死んだということが、なにひとつ信じられなかったけれども。

 遺品のカメラはぐちゃぐちゃで、中の烏もぐちゃぐちゃで、たぶん遺体もぐちゃぐちゃなんだけれどそれは見られなくってぼくは病院の廊下でおおいに泣いた。なみだすら物足りなくって、もっと全身から流れ出やしないかと人間の肉体構造ににくしみを覚えたほどだった。きみがいない生活なんてできるわけがなくて、だからいま、戻ってきてくれたことにひどく感動しているんだよ。

 走っているうちにぼくは涙を流し、汗を流し、ときどき膝をついてしまうけど、見上げればきみはおなじ位置でぼくをまっている、やわらかい地面とぼくの膝はゆらゆら溶けてほとんどおなじものになって、ぼくは地面が息をしていることを知る、そしておそらく、いいや確実に、ほかのものも息吹くし芽吹くしそれは一本の線、あるいはひとつの輪のなか、凝縮された液体のように、ちいさく切り取られた紙片のように、待ち針が山をつくる裁縫道具のように、いっしょくたになってあるものなんだと気付き始める。

 紫色の葉っぱがそよぐ。舞い上がってきみのまわりを飛び回る、飛び回る、まるできみが操っているように……いいやすべてはひとつなのだから、そういうことはできるはずだしぼくは、ぼくは、きみに手が届かないはずはないのだと気付いて、泣き崩れそうになる。



 ずっと一緒にいてくれるかい。ずっと物足りないんだよ、枯渇しているんだ。なんでも捧げるよ、きみのこともきみのカメラもぼくは愛しているんだよ、唾棄しないでくれ、いっしょに物足りなくなってずっとぼくを求めてくれよ。でもきみはそんなことしないので、だから愛しているんだよ。



 極彩色の雷が落ちる。ばりばりと金色の空を割り、中からは卵の黄身のような液体が、体液が? 次々溢れ出てきてこれはなみだなんだとぼくは思う。思うというかわかっている、人間は人間だけが特別なわけではなくて相対的にみればすべてに意思があって、そして、ぼくがずっと真実だとつよい言葉で感じていたことが本当はゆらめく影絵だったということを、もう体感として知っている。だから大空は本当にないたのだと知っている。かなしいときに泣くのだとぼくは知っている。

 大空のながす青い青い、真っ青ななみだを背景にして、君はぼくを振り返る。両腕を伸ばして、首をちょっと横に傾けながら、あなたは自分がないひとだけど、本当はみんな自分があるわけじゃないのよ、と甘くて物足りなくなる声で話す。

 ぼくはきみがいなくてはてんでだめで、きみのいないときの生活をまるで考えられなくて、モノクロの日々を過ごして過ごしてでもきみがいるときは、世界に色が溢れてしかたがなくって、そのまばゆさだけで生き続けてきたもんだから、なににも気付かなかったんだ。

 本当はきみはずっとここにいて、ずっとどこにもいなかったけど、ぼくが気付けばいつでも会えた、会えたんだよ!


 きみはそらのなみだを背中で受けながら両手を広げる。

 ぼくは歓喜して浮き上がり、祝福するように桃色になったなみだの色にはじめて物足りなくない、ほんのすこしは物足りなくないよ、と笑っているきみの腕の中に飛び込んだ。

 ぼくをゆるしてくれるのかい。

 彼女は微笑んだまま、黙っている。

 朝がまた夜になる。ぼくはきみをしっかり抱き締める、抱き締めるが、不意に浮遊感は消えてきみも消えて色がごっそり抜け落ちて硬くなった地面に向かって落下する。





 ……

 …………

 ………………




 ソファーから転がり落ちたらしい。ぼくは天井をぼうっと見上げていて、全身が痺れたように気だるかった。ここはどこだったか……十秒ほど考えるが、ああ自分の部屋だ、と納得してゆっくり身を起こした。

 部屋は汚い。あちこちにものが散乱していて、嵐が過ぎ去ったあとのようだ。

 けれど机に置いてある、きみの写真だけは傷ひとつなく汚れひとつない。


 溜息をつく。ぼくはあと少しで許された。だからまだ足りないのだ、物足りない、物足りない、きみがいなければ物足りない。物の足りなさは至らないからだ。もうすぐぼくは自分がわかるしきみのこともわかるんだ。

 きみは自由な人だった。きみをバイクに乗せた男はきみの次の恋人だった。そのバイクのタイヤに小さな小さな不備を設けて事故を起こすように仕向けたのはぼくだった。きみが死んでしまうなんておもわなかったんだゆるしてほしい。


 きみにゆるされるにはまだ足りない。

 ぼくは西に向かうきみ、天竺に向かうきみを追う。

 そのための紙幣を取り出して、ぼくは深く息を吸ってから、それを舌の上へと押し当てる。真理がぼくを駆け巡る。

 部屋の屋根が一気に割れて大空が顔を出す。浮かぶきみを探しながらぼくは飛ぶ。



 さあ、天上に至る青さブルーヘヴンよ。

 ぼくをきみまで、連れて行ってくれ。







【ブルーヘブン】

 LSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)の別称。強い幻覚作用を持ち、哲学・宗教的妄想に陥るとされる。

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