第6話

 天啓院が反旗を翻したのは、ローゼが自由を手に入れた七日後のことだった。

 城を守る風も城門も反乱軍を招き入れるように開かれ、天啓院の組織した武装魔術師の部隊はほとんど何の抵抗も受けることなく城内へ侵入し、城を守る勢力を瞬く間に制圧した。城を守るはずの防御機能が全く働かなかったからだ。王が生きている間に城が機能を失うなどあり得ない。そして普段なら先頭に立って王を守るために戦うはずのローゼが姿を現さないことも、城に住む人々の不安を煽った。

 ――王は既に死んでいるのではないか。

 錯綜する情報の中でそんな噂が立ち始めるのに数刻も必要なかった。アレクシスが容赦なく自らの親族を殺してしまったので、王の血を引く者は今、アレクシス以外に誰もいない。アレクシスが亡き者となれば、この城の次の主が誰になるのか、もはや誰にもわからないのだ。主を失った城は暴走を始めるのではないかと恐れる者もいた。だからこそ、天啓院もアレクシスのことは生け捕りにしようと未だに城の中で捜索を続けている。でも、彼らももう間もなく諦めるはずだ。

 離れの棟で火の手が上がっていた。殺戮を目的としていないはずの天啓院の部隊が火を放ったとも思えないから、混乱した誰かによる失火か、あるいは自暴自棄な反撃の結果だろう。逃げ場のない飛空城の中で火災は致命的だ。そのこともあって、人々はもう侵略者に反撃することより、自らの命を長らえさせるために逃げることしか考えていないようだった。

 我先に脱出艇を目指す人々を、ローゼは広間と前庭を両方見下ろせる小さなバルコニーから眺めていた。炎がこちらの建物にも届き、煙が立ちこめ始めるにつれて、行き交う人々の流れも減っていく。今逃げ遅れている人々は、何らかの理由で動けない者だ。哀れには思うけれど、だからといってどうにかしてやる義理もローゼにはない。

 最後までこのままでいたって構わない。そう思いながらも、ローゼはふわりとバルコニーから飛び降りた。既に無人となった広間にローゼの姿を見咎める者はいない。普段なら壁や天井で回り続けているはずの大小の歯車すら、今はぴくりともしない。

 廊下に足音を響かせながら、ローゼはキーリの部屋へと進む。誰も閉じ込められたままの少女に気を配ったりはしなかったのだろう。少女の気配はまだ王妃の間の中にある。クラウディオも場所を特定出来ていないのか、そこには辿り着けていないようだった。炎がこちらにも回り始めているから、このままではクラウディオの努力が無駄になってしまう。

 別にそれでも構わないはずなのに。

 自由をくれたからといって、クラウディオに恩義を感じているわけではない。互いに利害が一致していた。ただそれだけの関係だ。向こうだってローゼがアレクシスを裏切ったことに、感謝の気持ちを覚えるはずもない。

 ただ、アレクシスと向き合う瞬間が来るのを遅らせたいだけなのかもしれない。覚悟など決める必要もないと思っていたのに。

 そんなことを考えているうちに、キーリの部屋の扉の前まで辿り着いていた。廊下には既にきな臭い空気が充満している。じきこの場所も炎に呑まれる。

 この部屋は城の主の命令なくして開くことはないけれど、城の主に逆らうことがないはずのローゼには同じ権限が与えられていた。開け、と思考の中で命じるだけで、かちりと音が鳴って鍵が開いた。ローゼは躊躇うことなくその扉を開く。部屋の中では、ちょうどキーリが窓に向かって椅子を振りかぶったところだった。

「やめた方が」

 止める間もなく、椅子が跳ね返される勢いの良い音が響く。その勢いで後ろに倒れそうになったキーリに、ローゼは素早く駆け寄った。片手で椅子を押さえ、片手でキーリの背中を支える。

「あ……」

「この部屋からそういう手段で逃げ出すことは、普通の人間には不可能です」

 部屋にあった中では一番軽かったのだろうドレッサー用の椅子を、ローゼは片手で放り捨てた。

「ちょっ……」

 窓にたたきつけようとしていたくせに、その雑な扱いは気になったのかキーリは慌ててそれを止めるような素振りを見せる。もちろんそれは間に合わず、背もたれのない椅子は重そうな音を立てて床に転がった。

「クラウディオ・レームクールならもう間もなく到着するはずです」

 キーリを立たせてやりながら、ローゼは淡々とそう告げる。

「クラウが……?」

 その名を聞いた瞬間、張り詰めていたキーリの表情が崩れる。瞬く間に潤んだ瞳を隠すように俯いても、わななく唇は隠せていない。その素直な感情の発露から、ローゼは無言で目を逸らす。少女から逸れた意識が、廊下を駆けてくる人の気配を拾った。

「サナ!」

 全力疾走のそのままの勢いで部屋に駆け込んできた青年は、ほとんど反射的に手にしていた銃をローゼに向けながら叫ぶ。それが少女の本当の名前なのだろうか。今さら、どうでもいいことだけれど。

「邪魔をするつもりはありません。あなたからは自由を与えていただきましたしね」

 警戒を解いて良いのかどうか迷う青年がローゼからその背後のキーリへ視線を寄越した途端、少女は我慢しきれない様子で走り出した。

「クラウ……クラウ……!」

 泣きながら、叫びながら、少女が彼に手を伸ばす。クラウディオも銃口を床に向けて少女の肩を抱いた。しっかりと抱き合う二人の姿を、どこか遠い世界の出来事のように眺めながら、ローゼはまた廊下の先に別の人間の気配を感じていた。気怠い足取りで扉と二人の間に歩み入り、廊下の向こうを見つめる。気温が上昇している。炎がすぐそこまで来ているのだ。炎と、そして――

 逃げていれば良いと思っていた。逃げているはずがないとわかってもいた。

「アレクシス様」

 どこかで怪我でもしたのか、足を引きずりながら現れたアレクシスは不機嫌そうに眉根を寄せる。

「ここにいたのか、ローゼ」

 低く呟く声に、ローゼは微かに目を眇める。今までローゼを探していたのだとしたら、相当判断力が鈍っている。探しても無駄だということくらい、アレクシスにはわかっていたはずだ。

「何をしている。捕らえろ!」

 なぜ彼は叫ぶのだろう。怒りに燃える瞳を何の感慨もなく見つめながら、ローゼはぼんやりと考える。ローゼがその命令を聞くはずがないことくらい、わかっているだろうに。

「ローゼ、本当に……?」

 次に呟かれた言葉は呆然と力の抜けたもので、ローゼは薄い笑みを浮かべた。

「その目で見るまで信じられませんでしたか?」

 冷酷な問いを投げつけながら、背後の二人に逃げろと手で示した。少女の手を引いて横を走り抜けていくクラウディオも、彼について行きながらちらりと不安げな視線を寄越す少女も、まるで目に入っていない様子でアレクシスはローゼを呆然と見つめている。その視線が妙に心地良くて、ローゼは酷薄な笑みを深めた。

「どうやって」

 なぜかアレクシスは引きつった笑いを浮かべる。

「クラウディオ・レームクールが見つけたのです。この城の防衛機構を統括する端末として設定された『人間』を、その役割から解放する方法を」

「……人間?」

 アレクシスは嘲るように笑いたかったのだろうが、その演技には失敗していた。

「……お前は人間に戻りたかったのか」

 アレクシスがローゼに背中を向けてキーリを追いかけてくれていたら、もう少しまともでいられたのかもしれない。ふとそんなことを思って、ローゼはまた嗤った。

「まさか。今さらでしょう?」

 答える声が自分でもそうとわかるくらい歓喜に満ちていた。背中から翼が広がる。大きく羽ばたいた風圧に、少年の髪が揺れる。

「こんな機械仕掛けの翼が生えた人間はいない。何百年間も年を取らずに生きながらえる人間もいない。戻れるはずなんてない。そうでしょう?」

 小さく首を傾げながら、ローゼは剣を抜いてアレクシスに向けた。

「僕を殺すのか、ローゼ」

 ひとときの驚きが過ぎ去って、少年の瞳は完全に凪いでしまった。問いかけとは裏腹に、怯えた様子はどこにもない。そのすぐ背後にまで、炎は迫っていた。逃げ出すのなら、さっきキーリとクラウディオが逃げたときが最後のチャンスだったのかもしれない。

「そんなことをしている時間があったら逃げた方が良いと思うけどね」

 王になってから、アレクシスはようやく忘れていた笑顔を思い出したようだった。再び見せるようになった笑顔は王に求められる前の屈託のないものではなく、今彼が見せているような、見つめているだけで足下が崩れていくような空虚なものだったけれど。

 ――いや。なぜだろう。力の抜けた笑みは空っぽだけれど、今までとは何かが違う。違うような気がする。

「私が逃げる? どこへ?」

 廊下は炎に包まれている。背後の窓は開かない。そうでなかったとしても、この機械仕掛けの空飛ぶ城を出てしまえばローゼは不老不死の化け物だ。受け入れてくれる場所なんてあるはずがない。長い長い生の中で、異端者がどんなふうに扱われるのか、ローゼはいやというほど思い知らされてきた。

「そう……ないのか……」

 空っぽの笑顔すら消して、アレクシスはふらりとローゼの側をすり抜け、窓際に歩み寄る。疲れ切ったように壁にもたれかかって座り込むその顔は、ローゼよりも無表情で人形じみて見えた。その前に立つと、アレクシスはローゼのつま先を見つめながら微笑する。窓から差し込む赤い光が作る影の中に、アレクシスは座っている。

「赤は好きだな。君の色だから」

 対照的に光の中に立つローゼに、アレクシスは呟いた。

「何の話ですか」

 半ば呆れた調子で問いかける。自由に意見して良いと言われたのは、彼が王になってすぐの頃だった。その命令の意味も、最初は違っていた。

「炎だよ。この城がこんなによく燃えるとは思わなかったな」

「炎の赤と一緒にしないで下さい。逃げるなら手伝います」

 跪いて顔を覗き込むと、アレクシスは力なく微笑する。

「……いいよ。僕にだって行き先がないのは同じだ」

 だからさっさとどこにでも行けという、弱い拒絶を感じた。それでもローゼはその場を離れない。

「今さら忠義をまっとうする気か。お前だって僕を裏切ったくせに」

 そんなに覇気のない調子では、自分自身すら騙すことは出来ないだろう。微かに笑みを浮かべたローゼに、アレクシスは少しだけ視線を強めた。

「君だって炎に巻かれれば死ぬんだろう」

「恐らくは。試してみたことはありませんが」

 炎の爆ぜる音が、もう部屋の中にまで入り込んできている。天井に溜まり始めた煙が降りてくるのももうすぐだろう。

「……君と」

 会えたのが、と咳き込みながらアレクシスは続ける。

「もっと前だったら良かった」

「そうですね」

 それきりローゼの視線を拒絶するように、アレクシスは瞳を伏せる。沈黙の中で、肌を焦がすような炎の熱が近付いてくる。もはや光も影もない。あるのはただ、二人を取り巻く炎だけだ。

「どうして、一人にしてくれないのかな」

 泣きそうな声で、アレクシスは呟いた。貼り付けたような妖艶な笑みは、もうそこにはない。そんな表情のアレクシスを見るのは二度目だ。誰も救いの手など伸ばしてくれないのだと、一人きりで庭園に蹲っていたあの時と同じ。

「君だって僕を裏切ったんだろう。城内に反乱軍を招き入れたのは君だ。僕にわからないとでも思った?」

「そうですね。招き入れたのは私だし、あなたにわからないだろうなどとも思いませんでした」

 あの時アレクシスがローゼに求めたもの。それが何だったのか、今でもローゼには理解出来ない。空を飛びたい。それは自由を求める言葉だったようにも思う。けれど、ローゼには自由な意志などなかった。

 決して王を裏切らないということは、アレクシスが王になるまでは絶対に味方にもならないということ。そして王になってしまえば、完全に彼の道具になる。それはつまり、ローゼが彼のものであろうとなかろうと絶対にアレクシスを裏切らないということだ。もしかしたらアレクシスが求めたのは、そんな確信だったのかもしれない。決して自分を裏切らない存在。

 でも今、彼の目の前にいるのは、そんな確信すらも覆してアレクシスを裏切った存在だった。

「君だけなら今からでも逃げられるんだろう。その翼があれば」

 信じるものすべて。すべてが壊れてしまった今、アレクシスはただ一人になりたいと願っている。なのにその願いすら、ローゼは叶える気にはなれない。

「助かるでしょうね。でも、あなたがいなければ生き残る意味なんてありません」

「裏切り者のくせに。僕のこと好きなの?」

 半ば自暴自棄になったように尋ねるアレクシスに、ローゼは微笑した。自由を得たかった理由はただ一つだ。ただこの言葉を吐き出すため。それだけのためだった。ただ一つ、自由がなければ、この言葉は嘘になってしまう。

「お慕いしていますよ。ご存知ありませんでしたか」

 アレクシスの眼差しが、戸惑うように揺れる。

「……知らないよ。もっと早く言ってくれれば良かったのに」

「言ったら何か変わりましたか?」

 アレクシスの命令に逆らうことのないローゼがそれを告げたところで、いったい何が変わったというのだろう。

 諦めきったアレクシスの表情に、ゆっくりと笑みが広がる。

「……このまま、最後まで一緒にいるつもり?」

「最初からそのつもりでしたが」

 思い出せない。ローゼの中には何もない。けれど、今目の前にある彼の笑顔に胸のどこかが満たされていく感覚は――いや、それも本物とは言えない。ローゼ自身が本物ではないから。でももう、そんなことはどうでもいい。

 ――私はここにたどり着きたかった。

「そんなことしても、僕、もう君に何もしてあげられないんだけどな」

「最初から何も期待してはいません。今さらあなたが私に与えられるものなど、何もない」

 ほしいものはもう与えられていた。その先を望むのは、なんて貪欲で愚かなことなのだろう。それでも求めずにはいられない。

「……どうして、なのかな」

 跪いたままのローゼに、アレクシスが身を乗り出して手を伸ばす。近くなる距離を、そのままローゼは受け入れた。

「あなたが誰も信じず、愛さない限りは」

 その瞳をじっと見つめたまま、人としての生を失ってからずっと忘れていた感情を言葉に変える。

「私の欲しいものは、決して手に入らないからです」

 躊躇いながら伸ばされた指先は、ローゼの頬に触れる直前で動きを止めた。

「そうか。君は、僕に愛して欲しかったのか」

 蒼玉のいろの瞳が、涙に潤む。煙のためではないそれに、ローゼの胸の奥が満たされていく。なんて浅ましい感情だろう。

「違います」

 それを与えられる者が自分一人であれば良いと願った。他の救いなどなければ良いと。そのために誰かを不幸の底に突き落としても、その命を犠牲にしてしまっても良いと思っていた。

「幸せになって欲しかったんです。あなたに」

 アレクシスが微笑む。残忍な王のままでなんて死なせてやらない。今、この最後の一瞬だけは、すべてを忘れてしまえばいい。ローゼのこと以外、すべて。

 触れてくれなかったアレクシスの手を、ローゼは自分の意志で掴む。とけるような眼差しを見つめたまま、ローゼは彼の唇を奪った。

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方舟の城のローゼ 深海いわし @sardine_pluie

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