第5話

 夜明け前、ローゼはそっと主の部屋を抜け出して自分の部屋へ戻った。濡らした布で身体を清め、うすく白み始めた空を窓越しに眺める。

 約束の通りなら、クラウディオはもう昨日と同じ場所に来ているはずだ。ふと鏡を覗いて、首筋についた朱い傷痕を見つめる。

 アレクシスはきっと気付かない。今ここを出て行っても。その先でローゼが何を手に入れても。

 彼が信じているのは、ローゼが王の命令に逆らえないこと。この城に住み続けるためなら人はどんな理不尽でも受け入れるということ。それだけだ。でも、どちらも真実ではない。信じれば裏切られる。アレクシスが物心ついてからずっと、あらゆる形でその身と心に刻み続けられてきた事実。その事実がまた一つ積み重ねられる。ただそれだけのこと。

 ――滅びた世界の言葉でローゼは薔薇の花を表す言葉だった。

 じっと鏡を見ているうちに、とっくに消えてなくなったはずの記憶の底から今さら意味のない情報が浮かび上がる。その花に似た傷痕を、ローゼはそっと指先で撫でる。

 アレクシスは前の王を殺してローゼとこの城を手に入れた。前の王のお気に入りであり、王位継承者として大切に育てられてきたアレクシスがなぜ王を裏切ったのか、ローゼが疑問を感じることはない。

 七つを超えた頃からアレクシスは王の寵愛を受けるようになり、王位を得るために身体を売ったのだと人々は密かに噂した。その噂を裏付けるようにアレクシスは夜ごと王のもとへ呼び出され、そして笑顔をなくしていった。

 噂は真実だったのだろうと、ローゼも思っている。各地を視察するために飛行船で出かけたとき、王はアレクシスとローゼも伴った。護衛のために飛行船の上空を飛びながら、ローゼは船室の窓際でアレクシスの身体をまさぐる王と、何も考えるまいとするようにただひたすら虚ろな瞳で空を見上げるアレクシスの姿を見下ろしていた。

 すべてを諦めた仮面のような顔の下で、彼はすべてのものを憎悪しているようだった。己に触れる王のことも、生け贄のように己を王に差し出した母親のことも、王位に少しでも近付くためにアレクシスを暗殺しようと機会を伺う腹違いの兄弟たちのことも、助けの手を伸ばさない城中の人間たちのことも、すべて穢らわしいと言わんばかりに。

 ローゼと目が合った一瞬だけ、空を見上げていたアレクシスの瞳に光が宿った。無気力な態度と表情を裏切る、苛烈な、すべてを焼き焦がすような瞳のいろに、ローゼは見とれた。

 けれどそれも一瞬のことだった。見えるところを飛ぶなという王の命令で、ローゼはその場を離れた。


 視察のしばらく後、王が寝てしまった夜明け頃に、寝所を抜け出したアレクシスの後を追いかけたことがある。確かアレクシスが十三の頃。目を離すな、あれが死なないように守れと、王に命令されていたから、だから追いかけた。

 ローゼが彼を見つけたとき、アレクシスは屋上の庭園の隅で蹲っていた。膝を抱えてぼんやりと、焦点の合わないうつろな瞳で自分の手を見つめていた。袖から覗く手首に、さっき王からつけられたのだろう噛み傷がまだ血を滲ませている。

「ローゼ」

 白み始めた夜の薄明の中に、アレクシスの冷え切った声が響いた。そう求められている気がして跪いたローゼに、アレクシスは手を差し出した。つけられた傷を見せつけるように。

 ローゼは無言のままその手を取って、傷口にそっと口づけを落とす。そうさせるような何かが、その時のアレクシスにはあった。それこそが王を狂わせたものだったのだと、ローゼは確信している。

「空を飛びたい」

 ローゼを見つめるアレクシスの視線に、感触などあるわけもないのに触れられているような気分になったことを覚えている。その瞬間、ローゼは本来の自分の主である王のことを忘れた。常に王の命と命令を最優先に考えるように設計され、作られたはずの機械仕掛けの化け物が。

「お連れします」

 王以外のものの命令を聞くなど、あり得なかったはずなのに、ローゼは迷わずそう答えていた。命じられたからではなく、自分の意思でそうしたいと思った。自分に『意思』などというものがあることを思い出したのすら、たぶん数百年ぶりのことだった。


 その数ヶ月後に、前の王はアレクシスの起こした反乱に斃れた。アレクシスは自らは指一本動かすことなく敵対するものすべてを抹殺し、当然のような顔をして玉座に座った。数十人の死と引き替えに捕らえられたローゼもその足下に投げ出され、前の王の死体の前でアレクシスのものになった。その瞬間からアレクシスは城のすべてとローゼを動かす権限を手に入れた。

 ローゼに否やはなかったし、誓う必要すらもなかった。王が変わればローゼの主も変わる。ただそれだけのことだ。

 協力した貴族たちは、アレクシスが城を動かす力とローゼを手に入れた直後に、様々な罪を理由にして処刑されているから、アレクシスがどうやって彼らの協力を取り付けたのかは今となっては誰にもわからない。

 わからないけれど、わかる気はする。アレクシスはきっと、生まれついての支配者なのだ。同じように生まれた前の王は、だからこそアレクシスを支配しようとせずにはいられなかった。

 でも、彼は負けた。支配者となったのはアレクシスだった。


 そうやってアレクシスは王になった。暴君として君臨する、恐るべき王に。

 まず粛清されたのは、前の王におもねって私欲のままに暴利を貪っていた者たち。そしてアレクシスの兄弟たち。自らの母親。

 そこまで手が及んだところで、人々は新しく王になった少年が血に飢えた獣だったのだとようやく気付いた。前の王と同じように、逆らう者、自らを不快にする存在を情け容赦なく排除していく、恐ろしい獣なのだと。

 そしてローゼは、やはり前の王に仕えたのと同じようにアレクシスに仕えた。何も変わらない。王になったアレクシスにとってローゼはただの道具に過ぎない。前の王にとってのローゼがそうであったように。

 誰かを殺せと命じられるのも、女としての身体を求められるのも、これまでの王たちと何も変わらない。変わらないはずなのに。

 ローゼの中の感情は、今までとどこか違う。ずっと凍りついていたはずの何かが、胸の奥底でどろどろと溶け始めている。

「今このときから、君は僕の道具だ」

 彼につかみかかろうとして背後から別の誰かに斬り殺された前の王の返り血を浴びた凄絶な姿で、アレクシスはそう言った。その言葉を肯定しなければならなかったはずなのに、ローゼは未だにその言葉に答えていない。

 ――もうクラウディオのところへ行かなければ。

 傷痕をなぞっていた手を下ろす。鏡の中のローゼは、たぶんあの瞬間ときと同じ表情をしている。

 アレクシスの道具になんてなりたくなかった。なぜそう願ったのか、その先にある願いが何なのか、本当はわかっている。

 だから、行かなければ。


 クラウディオとの約束を果たして別れた後、ローゼは城壁の縁から飛び降りた。

 落下する瞬間の高揚。体重と共に自分の存在さえ吹き飛ばされてしまいそうな圧倒的な空の広さ。その瞬間を存分に味わってから、ローゼは翼を広げる。翼が風をはらみ、凶暴なほどの上昇気流と空の重さが全身に襲いかかる。

 上昇気流と重力の間で押し潰されそうになりながら、一気に天高く上昇する。さっき飛び降りた王城の崖をほんの瞬き二回ほどの間に通り過ぎ、螺旋を描くように舞い上がるローゼの眼下で、真っ白な雲海に浮かぶ王城の偉容は瞬く間に小さくなった。

 ローゼは顔を上げて空を見つめる。足下に雲を置いてきてしまったから、上空には何もない。ただ一面の青だけが広がる。このまま、もっと高く高く、この空を越えてどこかへ行ってしまいたい。だってどうせ何も戻っては来ない。

 失ってしまった過去の記憶も、そこにあったのかもしれないひとのぬくもりも。この手で奪ってきた命も。守れなかった誰かの命も。何も、何も戻っては来ない。

 主の許可なくこんなに遠く王城を離れたのは翼を得てから初めてのことだった。今まではそうすることが出来なかったから。

 今は、自由。肌を刺す冷たさと薄い空気の中で、どこにだって飛んでいける。

 でも、そうはしない。そんな自由はいらない。

 ローゼはふっと瞳を閉じて、翼から力を抜いた。翼が光の粒になって消える。失速した身体が落ちていく。

 このまま墜ちて、地面にたたきつけられて、粉々になってしまえたらいいのに。そう思って力を抜いていても、地面が近付けばローゼの意思に反して浮遊の力が自動的に働き始めてしまう。

 風の流れが変わったのを感じて、ローゼは瞳を開いた。すぐ間近に浮かぶ真綿のような白い雲。その向こうの鮮やかに輝く青空。一瞬のうちにそれが緑色に覆われて見えなくなり、ざっという耳障りな音と同時に背中に痛みが走った。城の中庭の木の枝に引っかかったローゼは、力なく空へ手を伸ばす。

 木漏れ日の向こうに見える空。

 何のために手を伸ばしたのか、自分でもよくわからなかった。

 クラウディオの計画の要はローゼだ。天啓院で弾圧をくぐり抜けて何百年も密かに続けられてきた研究。その最後の一手を、クラウディオは執念で完成させた。

 なぜ今なのだろう。あと少し、あと十年早かったなら。

 そんな仮定に意味はないとわかっている。クラウディオは決して天才型の魔術師ではない。これまでの蓄積があったからこそ、彼は辿り着けたのだ。今でなければならなかった。そう頭ではわかっている。

 幾人もの研究者たちの犠牲と絶望の果てに、ようやくローゼは手に入れた。

 遅すぎる自由を。

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