第4話

 王が探している。部屋に戻ったローゼに、王の侍従が怯えた様子でそう告げた。

 もう夕食の時間だ。今日は会食の予定が入っていたなとローゼは思い出す。王が人前に出るのなら、ローゼは護衛につかなくてはならない。少なくとも行動の面では決して王を裏切ることのないローゼは、彼がただ一人背中を任せられる存在なのだから。

 部屋に迎えに行ったとき、アレクシスは相変わらず不機嫌なままだった。

「遅い」

 第一声で叱責されたローゼは「失礼いたしました」と深く頭を下げる。

「さっさと終わらせたいんだ。今日は人と話したい気分じゃない」

 アレクシスの言葉はほとんど独り言みたいなものだ。ローゼに答えを求めているわけではない。そう判断して、ローゼはただ黙って頷くのみにとどめた。

 着替えを手伝い、食堂に向かう間もアレクシスはずっと不機嫌だった。彼が足を踏み入れた瞬間に不穏な空気を察知した貴族たちは、今日提案するつもりだった要望をすべて引っ込めることに決めたらしい。賢明な判断だ。それが出来なければ、この城では生き残れない。

 きらびやかなシャンデリアの下、端から端まではとても声が届かないような長い食卓で、皆無言のまま豪華な食事を口にする。冷ややかな空気で温かい食事すら冷え切ってしまいそうだった。実際、誰も料理の味を楽しんでいるような表情はしていない。

 無表情にそれを見守っているうちに、アレクシスの手が止まった。いつもの半分くらいしか食べていないけれど、無言で立ち上がるアレクシスを誰も咎めることは出来ない。このような不作法を許される環境は、たぶんひどく不自然なものだ。アレクシスにもわかっているに違いない。それでも彼は自分の感情を抑えることをしない。抑える必要がないから。

 無言のまま食堂を去る主の背を守りながら、ローゼは微かに目を細めた。アレクシスはローゼ以外に無防備な背中を見せようとはしない。彼には信じられるものなど何もない。機械仕掛けの、主の命令に逆らえないように作られたローゼのことも、その機能を知っているから背中を任せられると判断しているだけだ。信じている、などという話ではない。

 キーリに告げた、言葉の通り。


 部屋に戻った後、アレクシスは着替えを持ってきたローゼを待つことなくベッドに寝転がってしまった。

「お召し替えは」

「面倒だ」

 言い捨てたアレクシスに、ローゼは黙ってその場に立ち止まる。いつ彼の気が変わっても良いように黙ってその次の指示を待った。長い長い沈黙も、今さら苦には感じない。どうせローゼの時間は止まったままだ。化け物に作り替えられたそのときから、ずっと。

「どうして……」

 ランプの明かりに揺らぐ天蓋の影に向かって、アレクシスは小さく呟いた。

「どうして僕の欲しいものは、いつも手に入らないんだ……」

 片腕で目を覆ったアレクシスは、歯を食いしばって嗚咽を堪えている。愚かな問いだけれど、笑うことも答えることも出来なかった。今のアレクシスは、そのどちらも求めてはいない。それがわかるのに、それ以上のことはわからない。

 ローゼは低い嗚咽を聞きながら、黙ったまま窓の外を眺める。アレクシスがローゼの存在を思い出すのはいつだろう。ぼんやりとそんなことを思う。

 本当は忘れられているこの瞬間が好きだ。何も信じない彼が、ただその時だけは無防備に弱さをさらけ出すから。

 ただ耳を澄ます。低い嗚咽と、遠くから微かに響いてくる機械仕掛けの城を動かす歯車の回る音。庭の木々のざわめき。何もかもが遠い。遠ざかっていく――

 沈黙に身体が慣れた頃、ローゼは微かに身動ぎした。そろそろアレクシスも寝た頃だろうか。嗚咽が聞こえないからと、ローゼはそう判断して部屋を出ようと歩き出した。

「ローゼ」

 まるでずっと見ていたように歩き出した瞬間に呼び止められる。振り向いたけれど、アレクシスはまだベッドに横たわったままだった。

「こっちに来てくれない?」

 頼んでいるような口調だけれど、有無を言わさぬ空気があった。命令ならば、ローゼが逆らうことは出来ない。まだ手にしたままだった着替えを片手にベッドの側へ歩み寄る。

「座って」

 言われるままにベッドに腰掛けると、顔を隠していた腕をアレクシスがどけて、まだ涙に濡れたままの瞳がローゼを見た。

「君にはわかるの?」

 わからない。今、彼がどんな答えを求めているのかさえ。

 黙ったままのローゼに、アレクシスはふっと力の抜けた笑みを浮かべる。

「僕はどうしたら手に入れられる?」

「キーリ様のお気持ちは」

「違う!」

 唐突にこみ上げた怒りをぶつけるような怒鳴り声に、ローゼは無表情で主を見下ろした。

「違う……」

 怒りにこもった瞳でローゼを睨み付けながら、アレクシスは起き上がる。

「やっぱりお前は人形だ」

 襟首を掴み上げられて、手にしていた着替えが床にすべり落ちた。

「こんなに側にいるのに、お前にはわからないんだ」

 無表情のまま、ローゼはじっとアレクシスを見つめ返す。息が苦しい。でもアレクシスの方がずっと苦しそうな表情をしている。そのままベッドに押し倒されて、アレクシスの体重を両肩に感じた。触れ合ったところから、少年の体温を感じる。首筋に微かに感じる手の冷たさとは裏腹の、生ぬるいぬくもり。生きている人間の体温。

 なぜ彼は王なのだろう。ただの人間の子どもなのに。ローゼが今手を伸ばせば、簡単にその喉を切り裂いて命を奪ってしまえる脆い存在なのに。その薄い皮膚を引き裂けば、あっという間にただの物体に変わってしまうよわいいきものなのに。他の者たちと同じ。今までローゼが彼の命令で命を奪ってきた人々と同じ。それなのに生きていたくて、そのために誰かの命を奪って、奪い続けることが日常になってしまった哀れな子ども。殺せと命じることは出来ても自分で手を下すことは出来ない。臆病で傲慢で愚かな人間。

「憐れむな」

 襟を掴む手に力が入って、呼吸が詰まる。

 殺してみれば良いのに。自分の手で。誰かに――ローゼに命じるのではなく、自分の手で殺してみれば良い。その瞬間の快楽と絶望を知ってしまえば良い。

「僕を憐れむなと言っている!」

 アレクシスは衝動のままに掴んでいた襟を引き、ローゼの服を引き裂いた。布地が裂ける耳障りな音にも、ローゼは眉一つ動かさない。アレクシスはそのまま、追い詰められた獣のようにローゼの首筋に噛みついた。

 鈍い痛みに微かに眉根を寄せる。痛みの上に触れる、柔らかくて生暖かい感触。ローゼの血液は人間と同じものだから、きっとアレクシスは今血の味を感じているだろう。生暖かい血の感触と味と匂いが、アレクシスを怯ませたのに気付く。そのまま喰い殺されたって、ローゼは一向に構わないのに。

 そのままアレクシスは動かない。ローゼにも動く理由はないから、ただぼんやりとベッドの天蓋を眺めた。贅を尽くした夜空の色の絹の天蓋には、夜光虫の吐いた金糸で星が縫い取られている。窓の外でも眺めれば良いのに、わざわざ偽物の夜空を見上げて眠りにつこうなんて正気の沙汰じゃない。そんなどうでもいいことを思う。

 主にこんなふうに求められるのは初めてのことではない。アレクシスが初めての相手というわけでもない。だから何も感じない。何も――

 首筋を掠める嗚咽の気配に、ローゼは静かに目を閉じる。

 人間の子ども。思いどおりになる人形の前でしか泣けない子ども。いつかローゼを置いていく子ども。

 たとえクラウディオがローゼに自由を与えられたとしても、それは変わらない。ローゼはこの城に付属する翼の生えた殺戮兵器で、アレクシスはただほかにどうしようもなかったからという理由だけで権力とローゼという力を手に入れて、それを自分の身を守るために使っているうちに本当の目的を忘れてしまった、ただの愚かで臆病な子どもだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る