第3話

 それからしばらくの間は変わらぬ日々が続いた。アレクシスはキーリの部屋を毎日のように訪れ、そのたびに上機嫌になったり不機嫌になったりした。

 変化は緩やかに訪れていく。キーリがアレクシスを拒絶するのは変わらないけれど、アレクシスが不機嫌な顔をして戻ってくる割合が少しずつ増えてきている。

 いつ破綻の時が訪れるのか、城内の誰もが固唾を呑んで見守っているようだった。早く受け入れてくれとキーリにこっそり訴える者もいたが、それに気付いたアレクシスは余計な真似はするなとばかりにその者を城から追放した。

 そしてそれから数日経った頃、珍しくローゼを伴ってキーリの部屋を訪れたアレクシスは、ローゼの目の前でキーリを口説き始めた。庭園に咲いた薔薇を見に行こうとか、音楽が好きなら君のために音楽会を開こうとか、案外まともに相手のことを思いやった提案をしている。しかしキーリの方はと言えば、不機嫌そうに窓の外を睨み付けたまま返事もしない。

 そんなふうに十分くらい不毛で一方的な話が続いたところで、アレクシスが不機嫌になり始めた。最近の彼にしては長く保った方だ。

「ねえ、キーリ。どうしたら機嫌を直してくれるの?」

「……クラウのところに帰して」

 頑としてこちらを見ようとしないキーリに、アレクシスの顔が強張った。

「嫌だよ。君は、あいつのことが好きなんだろう。戻ったら君は彼のものになってしまう」

 ばっと振り向いたキーリは、目をつり上げてアレクシスを睨み付ける。

「私は誰のものにもならない! 私は私よ! あなたのものにだってならない!」

 感情的に叫ぶキーリに、アレクシスが辛うじて貼り付けていた余裕も剥がれ落ちた。

「あいつを忘れさせてやる! 君は僕のものになるんだ!」

 早足で歩み寄ったアレクシスはキーリの肩を掴み、その華奢な身体を揺さぶりながら怒鳴る。

 思いどおりにならないもの。自分の言うことを聞いてくれないもの。今までだってそんな存在はいたけれど、アレクシスは冷酷にそういう人間を切り捨ててきた。今彼が苛立っているのは、彼が思いどおりにしたいものがキーリの感情で、それはどうがんばっても彼に変えられるものではなくて、そして思いどおりにならなくてもアレクシスがキーリを切り捨てられないからだ。

 そういう苛立ちに厭いたからこそ、アレクシスはすべてを冷酷に支配する道を選んだはずなのに。また繰り返している彼に、ローゼはため息を押し殺す。

 その間にも途切れることなく怒鳴りあっている二人を、ローゼはそのまま冷めた目で見つめ続けた。何が起ころうと、王の命令がない限りローゼは動けない。

「言ったでしょう!? 私はあなたのものになんかなりません! 力ですべてが手に入れられると思ったら大間違いよ!」

 アレクシスの手から逃れたキーリが、泣き出しそうな表情で叫ぶ。

「……知ってるよ。そんなこと。君に言われなくても」

 拒絶する少女に近付けないまま立ち尽くすアレクシスは、感情を抑えつけようとして声を震わせる。身体を強張らせたまま近寄らないでと全身で訴えている少女に、アレクシスはどうしようもない様子で手を伸ばした。

「それでもキーリ、君がほしい」

 懇願する言葉。彼がそれを口にするのは、あの時以来だ。けれどキーリはそんなことは知らない。知っていたとしたら同情はしたかもしれないけれど、でもそんなことに意味はない。

「私は……私はあなたなんか嫌い……嫌い、嫌い! 大っ嫌い!」

 伸ばされた手を、キーリが思い切り払い除ける。乾いた痛そうな音が部屋に響く。

「触らないで! 出て行って!」

 アレクシスの横顔がさっと怒りに染まり、けれどそれは頑なに拒絶し続ける少女を見つめながら徐々に諦めの表情に変わっていった。

「……また来るよ」

「来ないで。クラウのところに帰して」

 背中を向けてうずくまりながら震える声でそう言った少女に、それは出来ないよ、と力なく答えて、アレクシスは部屋を出て行く。ローゼは黙ったまま、その背中を追った。


 自室に戻ったアレクシスは、一人で寝るには大きすぎるベッドに腰掛け、しばらくぼんやりとしていた。ローゼも無言のうちに求められた沈黙を守り、ただ静かな時間だけが流れる。やがてアレクシスはぽつりと口を開いた。

「どうして嫌われてしまうのかな」

「既におわかりになっていることを復唱する必要がございますか」

 淡々と返したローゼに、アレクシスは一つため息を落とす。

「……いいよ。言わなくて」

「かしこまりました」

 アレクシスはまた数秒考え込んで、それからどこか歪んだ笑みを浮かべた。

「キーリを目の前で切り刻んでやったら、クラウディオとやらはどんな顔をするんだろうね。あるいは、その逆でも」

「お望みならその通りにいたしましょう」

 またいつもの強がりだ。わかっていながら、ローゼは淡々と答える。

「君はそれをしてみたいの?」

 アレクシスは歪んだ笑みを貼り付けたまま、こちらを見もせずに呟いた。

「いいえ。陛下が望まれるなら、そうするというだけの話です」

 心のうちに暗い炎が生まれる。それは今、アレクシスの心を灼いているのと同じ炎だ。それが嫌になるほどわかってしまって、ローゼは命令を逸脱するほどの言葉を心のうちに収めておくことが出来ない。

「陛下はご覧になりたいのでしょう。自分の意のままにならない少女が、地獄のような痛みの中で悶え苦しむ様を」

「ローゼ」

 ようやくこちらを振り向いた少年は、憎々しげにローゼを睨み付ける。

「そんな言葉を許した覚えはない」

「失礼いたしました」

 この少年のことを知っている人間なら縮み上がって命乞いを始めるような視線をものともせず、ローゼは淡々と頭を下げる。

「君は僕の命令にだけ従っていれば良いんだよ」

「その通りです、陛下。それ以外の選択肢は私にはございません」

 自分の意志など、ないようなもの。頭を下げたまま、ローゼは唇の端に自嘲の笑みを浮かべる。

「……そうだね。君は主の命令にだけ従うように作られた人形だ。人間じゃない」

「その通りです、陛下」

 淡々と肯定するローゼの反応に、アレクシスがどんどん不機嫌になっていくのがわかった。

「もう、下がれ。呼ぶまで来るな」

「御意」

 頭を下げて退室する。アレクシスはこちらを見ようともしない。

 ローゼも振り向くことなく真っ直ぐに廊下を歩き、与えられた自室に戻る。ローゼの容姿に見合うようにと揃えられた黄金やルビーや白大理石で飾られた部屋は豪奢が過ぎて、未だに馴染むことが出来ずにいる。

 ――いや、どこであろうと、自分が馴染める場所などないのだろう。造り物の、不自然な存在である自分が馴染める場所など。

 どこにも、あるはずがない。

 ローゼは出窓に座り、じっと外の風景を眺めた。遙か遠く、眼下に広がる荒涼とした海。見渡す限りどこまでも続く、ただただ果てしのない水の塊。日は既に傾き始め、世界のすべてを不吉な赤に染め上げようとしている。

 じっと見つめているうちにすべてが燃え上がるような時間は過ぎ、やがて薄闇が忍び寄ってきた。それもさらに深い闇にかき消され、月と淡い星の頼りない明かりだけが微かに届くようになる。

 その薄明かりの中に、ローゼはふと何かの影を見た気がした。

 鳥。夜の闇にまぎれて飛ぶ、大きな翼の鳥。光で見えたわけではない。あれは、熱を持った何かだ。城を侵入者から守る機構はローゼに何も伝えては来ないけれど、あんなに遠くから見えるほど大きな鳥がこの城にいるとは思えない。

 己の目を信じることにしたローゼは立ち上がり、そっと部屋を出た。王の命令には逆らえないから、出歩くことは禁じられていない、と思い込むことにする。来るなということは、王のところにさえ行かなければ良いということだ。

 長い回廊を抜け、噴水と木々がざわめく庭園を抜け、城壁の前で立ち止まる。高い城壁だけれど、ローゼにとっては意味のないものだ。

 黙ったまま念じるだけで背中から翼が広がる。細い金属が蔓のように絡み合った骨格の間に、半透明の光の板が浮かび上がって羽になる。一つ羽ばたいて翼を広げると、身体がふわりと浮かび上がった。

 今は音を立てるわけにはいかないから、鳥のように羽ばたいて飛び立つことはせず、翼に仕掛けられた魔術を発動させて浮遊する。重力がそこにないかのように、真っ直ぐ上へとのぼり、やがて高い城壁も飛び越えて、外に出たところで静かに一つ羽ばたいた。今度はゆっくりと下へ。

 ふわりと地面に降り立ったところで翼を消す。そのまま、城の外に広がる森の中へと分け入っていくと、やはり前方から微かな熱の気配がした。確かに感じるそれを、ローゼは己の感覚に従って追いかけていく。

 木々の向こう、古代の遺物から復活させたのだろう光学迷彩を施された、おそらく人間の目では決して見ることは叶わないだろうそれを見つけて、ローゼは唇の端に薄い笑みを浮かべた。木立の間へ滑り込み、光を歪めることで人の目から隠された巨体を見上げる。

 ローゼの翼とよく似た、巨大な機械仕掛けの翼、どっしりとした幅の広い胴体を持つ、空を飛ぶ船だ。研究熱心な学究の徒は、こんなものまで作り出していたらしい。

 迷わず近付いていくローゼの前に、船を守るように立ちはだかった者がいた。完全に予想していたとおりの姿だったので、特に驚きは感じない。

「クラウディオ・レームクール」

 その名を呼ぶと、薄茶色の髪の青年はぴくりと顔を引きつらせた。見た目に気を使ったことなどなさそうな冴えない容姿の男だが、眼鏡越しにローゼを突き刺す視線の力は強い。その手に握られているものは、遙か昔に失った記憶の中で見た拳銃だ。こんなものまで復元させていたのかと、ローゼは天啓院の研究の進み具合に密かに驚歎した。

「君とは戦いたくない」

 物騒なものをこちらに向けているくせに、青年はそんな甘ったるいことをのたまう。

「ただの道具に過ぎない存在に情けをかける必要などありません」

 淡々と答えるローゼに、クラウディオは眉根を寄せた。

「君は人間だ。ただ、古代の魔術師たちが後天的にそのありようを歪めただけだ」

 やはり甘い、と、ローゼは嗤う。それでも青年はかき口説くように訴えた。

「俺はそれを元の形に戻すことが出来る。永遠の命は失われるだろうけど、もう主の命令に従う必要はなくなるんだ」

 元の形。その言葉にまた嘲るような笑いが漏れる。その『元の形』とやらは、血管の代わりに体中に魔力の通った管を張り巡らされていたのだろうか。機械仕掛けの翼を、その背中から生やすことが出来ただろうか。

「ああ……」

 ローゼはどこかうっとりとした心地で微笑んだ。

 ――ああ、でも、そんなことはどうでも良い。

「それは……良いですね」

 自由はほしい。主の命令に従わないことで、本当の願いを叶えられるかもしれない。その願いはキーリと同じように目の前の青年にも理解されないものだろうけれど、それでも構わなかった。彼もキーリを助けられるなら、そして暴虐の限りを尽くす王を弑することが出来るのならば、きっと文句はないだろう。

「お願いしても良いですか?」

「……条件がある」

 クラウディオは警戒心を剥き出しにした瞳でローゼを見つめた。こんな局面で見せるには、ローゼの笑みはあまりにも不穏だ。

「当然です」

 だからローゼは微笑んだままクラウディオの警戒心を肯定した。

「条件はだいたい想像がつきますが、『元の形』とやらに戻してもらってから聞きましょう。今の私は主の命令に逆らうことが出来ない。今条件を聞いてしまえば、内容を主に漏らしてしまうかもしれません。それは私にとっても不本意なことです」

 クラウディオの警戒心は緩まない。それも当然だ。それでも彼はローゼに自由をくれるだろう。キーリを取り戻すために、ローゼは最大の障害になるからだ。ローゼをアレクシスから引き離せば、反乱の成功率は格段に上がる。

 そしてきっと彼はローゼを、そしてローゼの主を殺しに来る。彼ならばやり遂げられる。それは誰もが望んでいる結末だ。圧政に苦しむ民も、王の専制に反感を抱く貴族も、王に家族を殺され恨みを抱く多くの者たちも、ローゼも、あるいは――王自身さえも。

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