第2話
そして、ローゼは冷酷な死刑執行人のようにアレクシスの命令を実行に移した。ローゼが閉ざした扉の向こうで、ここから出せと泣きわめく声がまだ聞こえている。
天啓院の研究生――生真面目で誠実そうな青年は、決して彼女をこちらに引き渡そうとはしなかった。だから平和的に彼女を連れてくるという目的は達成することが出来ず、結局交渉が決裂した翌日に、ローゼは青年から離れようとしない少女を無理矢理引き剥がすようにして連れてくることになった。王の命令であれば、青年も従うほかない。逆らえばどんな嵐に耐えられる人口島といえども、王の力で簡単に沈められてしまう。青年を慕う少女には無用な苦しみを与えてしまったと思う。
(馬鹿な男……)
絶対的な権力を持ち、その権力を保持するためにどんな手段でも取ってのけるアレクシスに、金も権力もない研究生如きが勝てるわけがないのに。
――それでも。
閉ざされた扉に、肩越しにちらりと視線を投げかけながら思う。
それでも彼は取り返しに来るのかもしれない。キーリを奪った瞬間の、青年の怒りに燃えた瞳を思い出す。我が身を焼き焦がすほどの怒りに満ちた瞳で眼鏡越しにローゼを睨み付けながら、それでも最後の瞬間に彼は一片の冷静さを手放さなかった。だからローゼは彼を殺さずに済ませることが出来た。それはつまり、彼にとってはチャンスを与えられたということに他ならない。そのチャンスを得るために、彼は己の冷静さにしがみついたのだ。
――彼は、取り返しに来るのかもしれない。彼の愛する少女を。今までローゼが何度も見てきた、ローゼには想像もつかない『人間らしい』情熱で。
そんなことを考えながら、玉座の間へ向かう廊下を歩く。
廊下ですれ違う人々の表情は、皆一様に暗く沈んでいた。虚ろなガラス玉のような目をして、ただ己の職務を忠実に果たすことだけを考えている。ローゼが知る限り、彼らがそんな表情をしていなかったのはアレクシスが王となった最初の数ヶ月だけだった。誰もが年若い少年王に希望を抱いていた。
彼はきっと前の王とは違う。これで何もかも良くなるはずだ。王の我が儘に神経を磨り減らし、気まぐれに鞭を打たれ、機嫌を損ねれば命綱もなしに飛空城から突き落とされる。そんな日々が長く続くはずはなかったのだと。
けれど結局、アレクシスも前の王と大差はなかった。それでも人々が王に逆らわないのは、この城を動かすことが出来るのが王だけだからだ。この城に住む人々は、ただ王の生活を支え、楽しませるためにだけ存在している。それでも猛り狂う水と風に翻弄され、飛空城の王に搾取されながら塩辛い水を飲んで生きる漂流人たちに比べれば、ここの暮らしはずっと良いのだと誰もが言う。
漂流人は罪人の子孫、天上人こそ選ばれた民。海上に降りるなど恥辱の極み。そう信じて、海上を漂う人々を見下しながら生きている。だからこそ誰も王に逆らわず、ここから去ることもしないのだ。
キーリが客間から出ることを許されたのは、それからひと月ほど後のことだった。アレクシスにも臆することなく向かっていく少女の瞳は、今でも力を失っていない。もちろんアレクシスもそれを見逃さなかった。
「彼女が逃げたりしないように、ちゃんと見張っててね」
冷酷なローゼの主は、機嫌良さそうにそう言って笑う。翼を持たない人の身では、ここから逃げ出す先など天国しかないとわかっているのに。
でも、彼女はきっとそうはしない。生き延びて逃げ延びて、再びあの研究生と暮らすのだと、そう信じている。
「……仰せのままに」
今は反抗的な態度は求められていない。そう判断したローゼは、ただそう答えながら頭を下げた。
最近のアレクシスは機嫌が良い。わざわざ罵倒されるためにキーリのいる客間を訪れては、上機嫌で帰ってくる。おかげでローゼが下らない話をするために呼び出されることも減っていた。それは良いのだが、ここ数日時折思い出したように不機嫌になることがある。そんなとき彼はいつも、憎悪に満ちた瞳で窓の外を眺めていた。
アレクシスの中の血に飢えた魔物が誰の命を求めているのか、ローゼにはわかる気がする。そんなことをしても彼が本当に欲しいものは手に入らないのに。
手に入らないとわかっているものを求めるのは、愚かなことなのだろうか。
わざと傷つくような言葉を投げかけられながら、主の残酷な命令を遂行しながら、眠れない夜に窓の外の星を数えながら、いつも考えている問い。キーリの客間へ向かう途中で、ローゼはその問いを胸の中で何度も転がした。答えの分かりきっている下らない問いを、あえて何度も、繰り返し、繰り返し。
客間の扉をノックしても、中から返事が返ってくることはない。扉を守る衛兵に軽く視線を投げてからドアを押し開けた。
ベッドの上に座っていた少女が、鋭い視線をこちらに向ける。
「お迎えに上がりました。キーリ様。本日は外出が許されております。城内ならばお望みの所にご案内いたしましょう」
自分でも空虚だとわかる言葉を並べると、キーリの視線がじっと探るようなものに変わった。
「お城の外には出られないのね」
「今はかなりの高度を飛んでいます。飛行能力を持たない方が城の外に出るのは不可能です」
淡々と告げるローゼの言葉に、少女の表情が曇る。
「あなたは飛べるのよね」
「そうですね。私は飛行能力を有しています」
この城へ彼女を連れてくるとき、飛行船の隣を飛んでいたローゼのことを覚えていたのだろう。古代の魔導技術で作り上げられた、機械仕掛けの白い翼。蔓のような剥き出しの細い金属が絡まりあった骨格と、金属でも木でもない不思議な白い材質で出来た、鳥にも飛行機械にもなれない中途半端な翼のことを。
「あなたは自由に飛んでいけるのに、どうしてここにいるの?」
挑みかかるような調子で、少女はローゼに問いかける。
「私は自由ではありません。主の命令にのみ従う機械仕掛けの人形。そういう風に作られた存在ですから」
「そんな……」
呆然と呟く少女は、ローゼに何を期待していたのだろう。
「でも、あなたは人間に見える。感情があるみたいに……」
「感情はあります」
古代の魔術師たちが何を考えてそんな風に操り人形を作ったのかはローゼにはわからない。世界が海に呑み込まれた後でこの飛空城の中で発掘されたとき、ローゼには過去の記憶は残っていなかった。
「自由になりたいとは思わないの?」
「思います」
でもローゼが自由になってしたいと思うことは、きっと目の前の少女に理解されるようなことではないのだろう。
「時間は限られています。行かなくて良いのですか?」
「……行く」
どこか悔しそうな気配を滲ませながら、キーリは唸るようにそう言った。
ローゼとキーリの姿を見た城の住人たちは、さりげなく二人を避けるように姿を消していく。王の寵愛を受けながらそれを受け入れようとしない少女に関われば、どんな厄介事が待ち受けているかわからないからだろう。その判断は正しい。ローゼもそう思う。
屋上の庭園で、少女は足を止めた。明るい陽光が美しく手入れされた庭を照らしている。優美なドーム型の東屋と高空の風に揺れる色とりどりの花々は、冷たく澄んだ青空によく映えていた。庭に水を撒くために作られた、真鍮製の首長竜のような装置が庭の隅にうずくまっているのだけが不自然だ。
「どうしてアレクは、あんなやり方をするの?」
城の中枢から外縁へ動力を伝える歯車が組み込まれた低い柵越しに、視界の及ぶ限り遙かに広がる雲海を見下ろしながら、キーリはぽつりとそう呟く。
「私と話したいなら、こんなことしなくたって良いはずじゃない」
「同意します」
淡々と答えるローゼを、キーリは勢いよく振り向いてきつく睨み付けた。
「だったらどうして! どうして言ってあげないの!?」
「申し上げることは許可されております。しかし、陛下がそれを受け入れることはないでしょう」
キーリは呆然とローゼを見上げる。
「アレクはあなたのことを信じているんでしょう?」
「彼は誰も信じません」
「でも……!」
少女の瞳の奥の困惑した揺らめきを、ローゼは静かに見つめ返した。
「私のことも、他の誰とも同じように信じてはいません」
彼が信じられるものなど何もない。幼い頃から裏切りと不信に満ちた権力争いの渦中にあった彼が、他人を信じることなどもう二度とないのだろう。それはほぼ確信に近かったけれど、キーリはその言葉を受け入れられないとばかりに首を横に振る。
「そんなこと、ないと思う。だってあなたにだけは自分の背中を守らせるじゃない」
天啓院視察の際も、確かにアレクシスは護衛としてローゼを伴っていた。そしてどんな屈強な護衛をも差し置いて、アレクシスの背中を常に守っているのはローゼだ。
「それは、私が陛下のことを裏切ることが不可能だからです。それは『信じる』のとは別の次元の話です」
この城の主に仕えるために作り出された存在。アレクシスが王となったその瞬間から彼が死ぬまで、ローゼがアレクシスの命令に逆らうことはない。それが、それだけが、アレクシスがローゼに背中を預けるたった一つの理由だ。
「……馬鹿みたい」
泣きそうな声で、少女は呟いた。
馬鹿みたいじゃなくて、きっと本当に馬鹿なのだ。この天空の城にあるものすべて。この世界のすべて。全部、全部、馬鹿馬鹿しい。
ローゼに背を向けて微かに軋んだ音を立てる柵に両手をついた少女の背中は、ひどく頼りなく、悲しげに見えた。
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