方舟の城のローゼ

深海いわし

第1話

 泣き叫ぶ少女の声に耳も貸さず、王妃の間という名の牢獄の鍵を閉めた。

 ローゼは主の命令に逆らわない。たとえその命令にどんなに反発を覚えたとしても、主の命令に従うことだけがローゼに許された行動原理だ。

 それはローゼが今の主――この天空を征く壮大な機械仕掛けの王城に君臨する、若干十四歳の少年――に仕え始める前から変わらない。冷酷で残虐な少年王の命令を、表情一つ変えずに遂行するローゼは、王城に住む『天上人』たちからも、天空の城に住むことを許されず嵐の海に翻弄されて生きる『漂流人』たちからも、死神と恐れられていた。

 人々から恐れられるのは今に始まったことではない。主が今の主に変わるずっと昔からそうだったし、きっとこれからもそうだろう。すべての陸地が海に呑み込まれ、天候を操る浮遊城の王が君臨するようになってから、ローゼはずっと王の傍らで人々に恐れられてきた。空を征く城の化身。王に逆らう者すべてを破壊する死神として。

 ここまで来る廊下でも、すれ違う侍女や使用人たちの体が恐怖に震えているのを感じていた。化け物を見るような視線は記憶が始まる最初の瞬間から浴び続けてきたけれど、主の命令を忠実に実行するようになってからそこに明確な恐怖が加わった。

 ローゼの容姿は衆目を集める。

 黄金を溶かしたような緩やかに波打つ金髪は邪魔だから切ってしまいたいのだが、主がそれを許してくれないので仕方なく一つにまとめている。鳩のピジョン・ブラッドに喩えられる深紅の瞳はあまりに深く鮮やかな色をしているから、ひと目見ただけで人ならざるものの瞳だとわかってしまう。雪花石膏アラバスターの白い肌は血が通っているのかわからないとよく評される。そして城に仕える騎士たちと同じ、身体の線を隠す黒い礼装をまとっていても隠しようのない女らしい肢体。二十歳になるかならないかくらいの、『この世のものとは思えないほどに』美しい容姿。

 誰もが半ば畏れを抱きながら褒め称えるその姿形が、ローゼは大嫌いだった。

 だと言うのに、ローゼの主でありこの国の王であるアレクシスは、満面の笑みでこちらの神経を逆撫でするようなことばかり言うのだ。


 ひと月前の満月の晩もそうだった。月の光が差し込む寝室で、ローゼは主の艶やかな黒髪に油を塗っていた。少年らしさを残した細い首筋が、月光に白く浮かび上がっている。

 機械仕掛けの王城はいつも歯車の軋む音に満ちているけれど、王と王妃のために用意された部屋だけは静まりかえっていた。皆がいつも服や身体の一部を巻き込まれないようにと恐れながら暮らしている他の場所とは違う、静まりかえった空間。絹の天蓋の広すぎるベッド、今では手に入れることなどとても叶わない黒檀の家具には、城の庭で飼われている陸生の家畜動物よりさらに巨大で勇猛な肉食獣の姿が彫り込まれている。まだ人々が揺れることのない大地で暮らしていた頃の既に失われてしまった高度な技術で作られた品々が、この部屋では惜しげもなく常用されていた。

「今日さ、すごく綺麗な紅玉を貰ったんだ。君の瞳の色みたいなの。気に入ったから、指輪に加工して手元に置くことにしたよ。指輪の枠ももちろん黄金なんだ。君の髪の色みたいに綺麗なやつ。ほら、見て」

 手触りの良い真っ直ぐ伸びた自身の黒髪よりも、ローゼの緩く波打つ黄金の方が好きだと言って憚らない主は、鏡越しに嬉しそうに目を細めて右手を上げる。はまっている指輪は確かに美しいけれど、華美すぎて少年の白く細い指には似つかわしくない。少年の子供じみた無邪気さを装った笑顔から、ローゼは不機嫌に視線を逸らした。

「それは結構ですね」

 王の髪を整え終えたローゼは、手の中で無意味に櫛を弄びながら平坦な声で答える。けれどこの不機嫌な感情の表出すらも、主である少年王がローゼに命じたことだ。感情を隠すな、押し殺すな、不満があれば何でも言えと命じられたのは、出会ってすぐのことだった。

 今ではそれを許されているのはローゼただ一人だ。たとえ何を言ったとしても、最終的にローゼが彼の命令に逆らうことは出来ないからだった。誰も逆らわないのは退屈だけれど、逆らった結果増長するような者にそれを許すわけにはいかないから、と。

「……心にもないこと言われると悲しいよ、ローゼ」

「ならば言わせないで下さい。で、ご命令は何ですか」

 冷たく応えたローゼに、少年は艶やかに微笑んだ。深い蒼玉の色の瞳が、鏡越しにどこか冷ややかな視線でローゼを見つめる。温度のない宝石のような瞳の輝きはローゼの心を未だに波立たせるから、苦手だ。だからといって、その視線がローゼを離れて虚ろに夜空の月を見上げたとしても、心が穏やかになるわけではないが。

 逸らされた視線にほっとしながら、けれど胸のどこかにつかえるようなものを感じながら、ローゼは主の横顔を見つめた。

 飛空城を統べる王族に特有の硬質な美貌は、少年らしい線の細さと相俟ってどこか研がれたばかりのうすい刃を思わせる。その触れれば音もなく切れてしまうような脆い美しさが、月の光に照らされてひどく蠱惑的だった。

「命令しか聞いてくれないの?」

 寂しげな台詞と裏腹に、自らの面差しの魔力を見せつけるようなその表情はひどく楽しそうだ。少年らしい残酷さに、ローゼはうんざりとため息をついた。

「無駄話を聞きたいとは思いません」

 彼の無駄話はこちらを傷つけるためのものだと知っているから、なおさらだ。今さらそんな言葉にローゼが傷つけられるわけもないけれど、ただただ面倒だった。

「疲れ切った可哀想な主にもうちょっと優しくしてあげても罰は当たらないと思うんだけどね」

 薄笑いを浮かべながら、ローゼの主人は本当に疲れ切ったため息をつく。彼のような生き方が疲れないはずはないと思うけれど、でもそれはどう考えても自業自得だ。

「神の裁きが死後の魂に下されるというのなら、私を裁くことが出来る神もいないでしょう。罰が当たるかどうかなど、私には関係のないことです」

 淡々と答えるローゼに、アレクシスは微かに眉をひそめた。

「寂しいな。じゃあ、しょうがない。命令を伝えるよ。天啓院にいるキーリって娘を攫ってきてくれない?」

「……今度は」

 不覚にも、声が、震えた。思いのままにならない呼気を無理矢理吐き出そうと、ローゼは腹に力を込める。

「今度は、何を。気に入られたんです」

 キーリのことは知っていた。過去の世界から召喚されたという、戦を知らない、無邪気な笑顔の少女。男のように短く切った黒髪と、黒曜石のような輝きを持つ曇りのない瞳。彼女はこの飛空城が時折立ち寄る、天啓院という施設にいる。

 天啓院は世界で最も厳しい嵐にも耐えられるように設計された人工島の上にそびえ立つ魔術師たちの殿堂だ。巨大な立方体をくりぬいて作ったようなそこでは、日々失われた陸地を取り戻すための魔術の研究と実験が繰り返されている。

 歴史の海に藻屑となって消えた魔法文明の遺物であるこの飛空城も、そこに遺されていた魔術具も、王城の鍵と呼ばれるローゼも、彼らにとっては興味深い研究の対象だった。

 キーリという少女は、天啓院で行われた実験の失敗に巻き込まれて過去の世界からやって来たらしい。まだ世界に陸地があって、人類の栄華と存続を誰も疑っていなかった頃の世界から。

 あまりにもありようを変えてしまった頼るもののないこの世界で、彼女は自分を保護してくれた天啓院の研究生を、孵ったばかりの雛のように慕っていた。当たり前だ。そうでもしなければ、無力な少女の心など簡単に絶望に塗りつぶされてしまったことだろう。

 その少女をこの少年がどうするつもりなのか、楽しい予想など出来そうもない。この世界の常識に疎く恐れを知らない彼女が、お忍びで天啓院を訪れたアレクシスに笑顔で話しかけ、楽しそうに会話しているのを見たときから、嫌な予感はしていたけれど。

「あの子と話していると楽しかったから、ね」

 こちらを振り向いたアレクシスは、どこかうっとりと瞳を潤ませた。

「それにとても綺麗だっただろう? あの漆黒。もちろん、君の金と紅も僕は好きだけど。欲しいんだ。彼女にここで、僕だけを見て笑っていて欲しい」

 潤んだ瞳の奥はつめたく凍りついたまま。少年は芝居がかった笑みを浮かべる。こういう瞳をしているときのアレクシスは、絶対に他人の意見を寄せ付けたりはしない。

「傲慢ですね。我が主。この城の力では人の心を動かすことは出来ません」

「ローゼ。君の意見は聞きたくない。これは命令だ。天啓院のキーリを攫ってこい」

 予想通り、ローゼの意見を一顧だにしない答えが返ってきた。

「御意」

 ローゼは諦めて瞳を伏せる。ローゼがアレクシスに『自由に』意見出来るのは、そうしろとアレクシスが命じたから。そしてその意見は今はただ、ローゼの目の前でへし折られるためにだけ述べることを許され続けている。

「ああ、そうだ。出来るだけ攫われてきたってわからないようにしてね。あの娘が泣くところ、見たくないんだ」

 鏡越しに見えた顔がよほど軽蔑に満ちていたのだろう。アレクシスはわざとらしく傷ついた表情を作ってみせた。

「そんな『死ね、色情狂』みたいな顔しなくても」

 すぐにアレクシスの表情はローゼの反応を面白がっているときの笑顔に変わる。振り向いて伸ばされた手を拒絶出来ないまま、ローゼの髪はしろい指先に弄ばれる。

「大丈夫、心配しなくても一番は君だよ、ローゼ。ただ、城の外に出たいっていう君の願いを叶えてあげたかっただけなんだ」

「心配はしていません」

 ローゼはすべての表情を消して、低い声で答えた。

「本当なのに。疑われると悲しいな」

「疑ってもいません。陛下が私を誰よりも大切になさっていることは理解しています」

 一番、大切なもの。アレクシスにとってローゼ程度のものが一番であることが、むなしく思えて仕方がなかった。彼には本当に「大切」と思えるものなどないのだ。

 この世界中、どこにも。

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