600字書房
南野サイカ
振り返るとそこには愛
『自他共に認めるお父さんっ子』
20代も半ばにして、彼女は自分のことをそう認識している。正しい理解である。
彼女の一番古い記憶を辿ってみると、おそらく2、3歳の頃であろう映像に行き当たる。母に連れられて新幹線に乗り、初めて大都会にやってきた時のことだ。
あの時は、著作権にめっぽう厳しいネズミが支配する公園に遊びに行った気がする。いや、ぼんやりした記憶の端々で中華風の鮮やかな緑と橙の獅子舞が見え隠れするから、これはもしかしてネズミランドではなく、横浜の中華街の記憶かもしれない。まあ、そんなことはどうでもいいのだ。
実際に行楽地で何をやったのかよりも、はるかに鮮明に覚えているのは帰りの新幹線のことである。
田舎への数時間に及ぶ帰路にあった。今ではあまり見かけなくなかったが、新幹線のシートを向かい合わせにしていた。なぜ向かい合わせにしていたのかは知らない。さしずめ、もともと向かい合わせになっていたシートを元に戻すのが面倒でそのまま乗り込んだ、といったところだろう。彼女の前には知らない人が座っていて、母は彼女の右隣に座っていた。
彼女自身はといえば、席に座ってじっとしていることなどできるわけもなく、靴を脱いで座席の上に立っていた。そして背もたれ越しに後ろに向かって手を振る。
「おとーさーん!」
コロコロと楽しげな幼い声が響いた。何事かと好奇心にそそられた他の乗客たちの注目を集める。母がすかさず『静かに』と注意するが、そんな言葉で子供が静かになるならこの世の子育てはあまねく順風満帆だ。
彼女は座席で背伸びをして、一生懸命に手を振る。すると6席分ほど離れたところからひとりの男性が気恥ずかしそうに手を挙げた。
「おとうさんっ!」
満面の笑みを浮かべて再び声を上げ、彼女は飛び跳ねる。
「……席、代わりましょうか」
控えめな声が向かいの席からそう言った。彼女の母はとても恐縮していたが、向かいに座っていたその御仁は立ち上がり、車両後方へと歩いていった。代わりに彼女の父が歩いてこちらへやってくる。そして自分の目の前に座った父に、彼女は満ち足りた気持ちになった。
彼女の父は長く単身赴任をしていた。彼女が都会へ遊びに来た帰路に合わせて父も帰省することにしたのだった。同じ並びで3席取ることができなかったが、車両は一緒なので良かろうと両親は思ったらしい。だが、無邪気な子供は周囲への迷惑など考えなかった。
いま思い出すと随分恥ずかしい、そんな場面が、彼女の最も古い記憶である。
そこから20年以上が経った。
小学校の頃、週末の朝にリビングに行くといつもホットケーキを焼いてくれていた。中学生の頃、部活で疲れて床で寝てしまっていると「風邪をひくよ」と言いながら必ずブランケットをかけてくれた。高校の頃、受験に向けて深夜まで勉強していると、眠気覚ましのガムをよく差し入れてくれた。
過去を振り返るとそこには愛があった。いつでも、どこにいても、深くて優しい愛に満ちていた。
前に向き直り未来を見ると、目の前に別れがやってきている。あまりにも早すぎる別れが。
600字書房 南野サイカ @SaikaMinamino
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