第6話
*
(……エラ……俺のエラ……彼女の値段は一千万……ああ、余りに高い。貯金は順調に増えているが、それだけ貯めるには一体何年かかるのだろう?そしてその間にも、エラは俺でない誰かに微笑み、そいつに身体を開くのだ……許せることじゃない。ああ、頭痛がする……電車の揺れが煩わしい。寝不足のせいだ。この寝不足にも終わりが見えない……彼女を手に入れるまでは。あの少女を手に入れれば、俺はまた、暗闇で安らかに眠れるのだ……そこに俺の幸せがある。そこにしかないのだ……幸福の秩序……そのための行動、大いなる行動……)
*
職場に着いてすぐ、〈外回り〉の要請が入った。受け取った封筒を覗くと、「死体処理」の文言が見えたので、Qはそれをカワハギに渡した。殺人鬼はそれを満足げに受け取る。
Qはあの店主のことで頭がいっぱいだった。あの男を波風立てずに始末する方法、それが思い付かない。店主が殺され、娼婦が盗まれれば、風俗街は大騒ぎになる。保身のため、面子のために、娼館組合が動くだろう。街中の〈掃除屋〉が雇われるはずだ。面倒を起こせば〈消防局〉も黙っていない。ああ、金さえあれば!
ふと、引っ掛かるものを感じた。何かを見落としている。第六感がそう囁く。
Qは振り返って手を伸ばし、カワハギの肩を捕まえた。彼の手から封筒を取り返し、中身を引っ張り出す。
(これだ!)
カワハギが書類を引ったくる。
「女々しいぜ。もう、俺のもんだ」
くしゃくしゃにしてポケットに突っ込み、彼は行ってしまう。Qは黙ってその背中を見送る。
*
現場の近くに蛍光灯の壊れたトンネルを見つけたカワハギは、その中で光学迷彩を起動した。
Qを後ろに従えて、カワハギは男を尾行した。男は町外れの安ホテルにチェックインする。男は明らかに周囲を警戒していた。個室に入ると鍵を閉め、チェーンもかけるが、彼はすでに二人の人間に侵入を許している。そうとは知らず、男は安心して電気を点ける。Qから、男の顔がはっきりと見える。包帯を巻いているが間違いない。蟹だ。
カワハギの仕事は早かった。腹を蹴り、顎を殴り、床に倒して口にギャグボールを詰め込む。手早く四肢を折って風呂場に運ぶ。ここからが
「よお、驚いたか?そうだろうな。俺だって驚く」
蟹は必死で叫ぶが、くぐもった声と、空気の抜ける音しか出ない。カワハギはしゃがみこんで蟹の顔を軽く叩く。
「手短に説明するとだな、あんたは今から死ぬことになる。俺が殺すのさ。ああ、簡単には殺さない、そこは安心してくれよ」
蟹は泣いている。
「俺はまず浴槽に保護シートを貼って、湯を注ぐ。で、薬を作る。このキューブを湯船に溶かすんだ、入浴剤みたいに……そうすると、酸だか、アルカリだか、俺は知らないが、ともかく薬が出来る。あんたを溶かす薬だ」
カワハギの後ろ姿はいかにも楽しそうだ。間違いなく勃起している。
「次に俺は、この……ナイフで、お前の皮を剥ぐ。リンゴみたいにな。それで、剥いだ皮をまず処分する。先に言っとくが、すげえ臭いぞ。で、皮が溶けきったら、お前を湯船にぶちこむ。そう、丸裸のお前をだ。痛いかって?そりゃ痛いさ。でも大丈夫、俺がついてる。お前がすっかり溶けてなくなるまで、俺はお前を見守ってやるよ」
ギャグボールの隙間から唾液の泡が吹き出している。なんだか哀れだった。しかし、同情している暇はない。次の手を考えなければ。
すると突然、カワハギがこちらに振り返る。
「で、お前はどうするんだ?」
Qは愕然とした。カワハギの頭には彼と同じ、熱感知ゴーグルが装着されている。
「お前は俺を馬鹿にしてるよ……ビデオまで撮られたら、俺も流石に反省する」
観念して、Qは光学迷彩を切る。
「その男に用がある」
「そうだろうな」
「用事が済んだらお前にやるから、少し二人にして欲しい」
カワハギは呆れたように笑う。
「思うに、それは難しいだろうな」
「ああ、同感だ」
Qは蟹の目の前でカワハギを殺し、死体を浴槽に溶かした。遺されたナイフの切っ先を蟹の眼前に突きつけて、彼はギャグボールを外す。
「金塊はどこにある?」
「た、助けてくれ……」
「正直者は助かる」
「近くのトンネルだ……四〇ニニ番地……地面に隠し扉がある……その中に隠した……」
「ありがとう」
鈍い音を立てて、蟹の首が回転する。即死だ。Qはその死体を改めて、鍵を見つける。隠し扉の鍵だろう。彼はそれを懐にしまうと、死体の処理に取りかかった。
*
カワハギの死は、Qが思ったよりも簡単に処理できた。上層部にとっても、あの快楽殺人鬼は悩みの種だったようだ。Qの雑な説明――カワハギは対象者の反撃に遭って死亡、心配で尾行していたQが仕事を引き継ぎ、二つの死体も彼が処分した……全ては機密の保持のため――がすんなりと採用された。とはいえ、終業までは拘束された。報告書をまとめるためだ。事務所から解放されたとき、空はすっかり真っ黒だった。彼は四〇ニニ番地へと急いだ。
*
トンネルを前にして、Qは尻込みした。偶然にもそこはカワハギが立ち寄ったトンネルだった。従って、蛍光灯が切れていた。黄色く発行する外壁とは対照的に、中は真っ暗、吸い込まれそうな黒だ。
――暗くしてると、
両手で顔をピシャリと叩く。ライトを点け、意を決して、最初の一歩――だが、彼の身体は押し戻される。一瞬、息が止まる――なんのことはない、蛾の大群だ。蛾はより明るい街の中心部へと飛んでいき、Qはその様子を尻餅をついたまま眺めた。彼は少し笑った。蛾がいなくなると、彼は立ち上がり、トンネルの中へと消えた。
*
「どうした?吸いすぎか?」
「……いや……走って来た……」
「そんなに焦らんでも、土曜日は空けてあるよ」
「……あんた、自分の言ったことを覚えてるか?」
「なんの話だ」
「一千万……一千万でエラを売る……」
「なんだと?」
「そら、今日のぶんだ。いつも通り、一泊……」
「おい、待て……」
*
暗い廊下の突き当たり、一〇五号室の扉を開けると、中はより暗く、橙色の光が二つ浮かんでいて、その間にエラの光る笑顔があった。
「足音が聞こえたから、準備して待ってたの……今日は特別元気そう」
彼は手に持っていた大きなバッグを、エラの足元に投げ落とす。後ろ手に扉を閉める。
「俺たちはどこにでも行ける」
Qは静かに宣言する。エラは恐る恐るバックを開ける。大量の金塊を、蝋燭の灯りが照らす。オレンジ色の金属光沢。
「最高級のチューブを吸える。たらふく肉や魚が食える。気球を買えば、海だって見れる」
暗闇で、息切れしながらQはまくし立てる。エラはおもむろに、蝋燭を一本吹き消す。
「……俺と来ないか?」
「……素敵ね……」
エラはもう一本の蝋燭を手に取る。
「なあ……」
「でも、いちばんじゃない」
灯りが消える。部屋は、完全な暗黒に身を落とす。
「エラ……エラ!どこだ!」
彼は叫ぶ。返事はない。彼は十年前の仕事を思い出す。急に、自分がひとりぼっちだと感じる。そしてその瞬間、全身が凍りつく。
目が合った。そう感じた。初めての感覚ではない。立ちはだかる恐怖。究極の黒。
(
暗闇が、彼の全身を呑み込む。
*
〈行方不明者 500人超え〉
「先週報告された行方不明者の総数は五百四人。五百人を超えるのは集計を開始して以来初めてのことだ。これまで、毎週四百代という状態が続いていたが、(以下、不自然な空白)」
*
日曜日の正午、Qを追い出しに来た娼館の店主は、無人の一〇五号室を発見した。部屋には備え付けの家具一式と、使いかけの蝋燭二本だけが残されていた。Qのいた痕跡は髪の毛一本見つからず、当然、彼の持ち込んだ大きなバッグも消えていた。
Qの失踪からしばらくして、出所不明の純金が光の国で取引され始めた。それを受けて捜査が始まり、銀行から盗まれた大量の紙幣がいくつかの貴金属店で発見された。それからすぐに犯人も捕まった――少なくとも、そのような報道が成された。
Qの失踪は〈消防局〉をそれなりに揺るがせたが、結局内部での粛清という形で処理された。つまり、彼は死んだことにされた。そして我々は、高い確率でその判断が正しいことを知っている。
しかしながら、彼女の行方――エラと名乗っていた少女のその後については、我々は何一つ知らない。
灯りを消して。 平山圭 @penguin-man
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