今日は長い一日
小沢藤
第1話
臭い。とても臭い。
なにが臭いって、俺の頭の上をやかましく飛びやがる蜂どものことだ。
今、俺はゆらゆら揺れる草の上に六本の足でしがみつくようにして立っている。しがみつくように、といって随分労力を使ってるんじゃないかと思われたら、それは言い方の齟齬ってやつだな。全然楽だぜ?振り動かされながらそよ風を感じるのも中々いい気分だ。
だが、それもあのやかましい羽音が無ければの話だ。
野郎ども、いつも足から粉を落とすんだが、それが結構クサい。元々は蜜みたいな素晴らしい匂いがするのに、あいつらの足につくと鼻がひん曲がるような臭いがつくんだよなあ、 しかも今日は何匹も群れていやがる。いつもは一匹で飛んでるのになあ。
羽音も耳障りだし、いやになっちまう。ああもう、だんだん腹が立ってきた、俺のこの筋肉がついた足で蹴り飛ばしてやろうかしら。
それにしてもどうして今日はこんな群れているのか、普段なら一匹で小さくみっともないのがブンブンしてるだけなのに。
うーん、時間つぶしにでも奴らの巣まで行ってみようか。食事も済ませたし、まさか俺を襲うことなんか、ないだろう。
俺は一番後ろの足に力を込め、いつもやるように瞬間的に足の接地面を蹴り、その反作用で空中に飛び出した。
次から次へと足場を変えつつ、草むらを移動する。おっと、奴らのこするような羽音をちゃんと聞き分けることも忘れちゃいけない。別にどこでもやって行けると思うが、目指してた場所にたどり着けなかった、ってのはしょうもないからな。
太陽の日差しを翅にまとわせ、風を切り、躍動的なフォルムが緑の中を一瞬で移動してしまうこの様は多分世界で一番美しいんじゃないだろうか、と俺は思う。
おお、羽音が大きくなってきたな。近づいているに違いない。
熱い音だ。さっきよりどんどん熱くなっている。
俺はこの熱さが何に起因するのか、気付いた。
これは怒りだ。
許さない、殺してやる、という怒りだ。
さっき感じてたのとは比較にならない羽音を感じる、とんでもない数だ。何か起こっているに違いない。
自身の心にも燃えているような焦りを感じつつ、俺は跳ね続けた。
すると突然、黄色くて黒い炎が現れた。それは苦悶の叫び声をあげるように形を絶え間なく変化させていて、広がったり縮こまったりした。
来るな、お前は敵だ、と威嚇する炎。
俺は、この時今までずっと感じていた不快感を覚えていなかった。
よく見ると炎は一定の場所から動かないのではなく、ゆっくりとダンスを踊るようにゆらゆらと動いており、中心には白い影があることに気付いた。
炎は影にまとわりつき、影と一緒にダンスを踊っていたが、そこからはただただ激しい怒りが放出されていた。
怒れる旋風と対峙して、俺は身がすくんでしまっていることに気付いた。
無意識に起きた筋肉の収斂は遥か遠い過去、遠い祖先の頃から延々と自身の本能に刻まれていた生命の危機だった。
*
白い防護服を脱ぎ、外気を浴びた。暑いことに変わりはないが、そよやかな風が気持ちよい。たった半時間程の作業だったが、信じられないぐらい疲れてしまって、私は地面にぺたんと腰を下ろした。
山の麓の小さな集落。
叔父に倉庫にできた蜂の巣を撤去するよう頼まれたのはつい昨日のことだ。家族を守ろうと襲い掛かる群れは防護服のおかげで何ともなかったが、中がサウナみたいになるのは堪える。
一口で飲み干した水の空き容器を置き、私は無惨な姿と化した防護服を、肌に触れないよう慎重に手に取った。
小さな黒い毛のようなものが至る所についている。敵を攻撃する手段であり、自身の命を犠牲にしなければならない、蜂の毒針だ。
彼らに私は住処を破壊しようとする悪魔にでも見えたのだろう、何千という数が攻撃の激しさを物語っている。
毒針は刺されると蜂の体から分離し、相手の体に残り、取り除かない限り毒を血中に流し込み続ける。時には熊も撃退してしまうほど強力な武器だが、毒針を失った蜂を待っているものは、死のみだ。
命の輝きを投げうって、特攻するその精神。
しかし、きちんと防護してしまえば、恐れるに値しない。
本能に刻まれた攻撃性が、なすすべもなく敗北してしまったその様は、一種の儚ささえ感じさせてくれた。
叔父から借りた軽トラにビニール袋に入れた防護服と、撤去した蜂の巣を乗せ、集落の中心にある商店に向かう。
食用として一定の価値があるらしく、きちんと保冷して持っていけばそこそこの値段で買い取ってくれるそうだ。叔父からのバイト代と合わせれば十分な収入になる。
誰も乗っていない助手席側の窓から熱い日光が差している。小川を渡り、山と反対側に車を走らせた。
砂利道を進む軽トラは、振動が激しく、体が大きく揺さぶられる。
そういえば、と私はふと撤去の後に見つけたものを思い出した。
辺りに無数の虫の死骸が散乱していたのだ。
それらは、皆あの騒ぎに巻き込まれてしまったのだろう、狂暴化した蜂に間違って刺されたのか、あるいは私が気付かず踏みつぶしてしまったのか、どちらにせよ、普段なら受けもしない災害を被ってしまったわけだ。
意識からかけ離れた何者かによって日々の生活が粉々になってしまった虫たち。
少し、胸が痛くなった。心が揺れるのを感じる。
私たちは生きるために、他の動物の命を消費している。たとえば牛の肉は分解され自身の体を形作る肉へと再構成される。
だが、今の虫たちはなんだったというのか。蜂はまだ、叔父の生活を阻害していた、という点で存在の意味があるし、巣はこの後工場で食品に加工されるだろう。
だが、ただ巻き込まれて死んでしまったそれらの命は、本当に無駄ではないか。
もちろんこの後分解され土の養分になるから完全に無に帰しはしない。世界が循環するシステムである以上、物質として消滅してしまうことはない。
だが、その死自体の意味はどうか。本当に無駄ではないか。
かわいそうだ。後で手を合わせるぐらいはしても構わないだろう。
それにしても道がひどい。集落の中でもあまり使われていない所に入ってしまったらしく、まともに運転できないのではないか、と思ってしまうほどの揺れだ。
帰ったら叔父に普段使いのルートを聞いておこう、と思った。
その瞬間だった。
最初は動物が飛び出してきたのか、と勘違いする程の衝撃だった。
ドン、という体の底をひっくり返すような低い音。
車体が浮かび上がるのを感じる。重力が消滅する。
あ、と声を上げる間もなく、体が下に引き付けられる。車がバウンドし、横に置いていた荷物がいくつも宙を舞う。
思わずブレーキペダルを踏みながら、私はフロントガラスではなく、衝撃が来た方向、つまり運転席側の窓に目を向けようとした。
*
定期的にやってくるものだから仕方ないし、自分では抑えようのない症状だから仕方ないものの、本当にいざやってしまうとあーあ、とため息をつきたくなってしまう。
僕は定期的に体の中から湧き上がってくるものを吐き出さずにはいられないたちで、大体これまで数十回以上大きなげっぷを繰り返している。
そうすると気持ち悪さとイライラが収まって、随分落ち着いた気分になるのだが、その代わり僕の体の上にある彼らは皆燃えるか埋まるかして、消えてなくなってしまう。
自身の円錐形の体の上で起こっている惨状を見ながら、僕は考えた。
僕のげっぷに幾度も焼き尽くされてしまう、彼らのことについてだ。
時間というものは不思議で、褐色でゴツゴツした岩ばかりの表皮は、放っておくと段々と色が変わってくる。最初の彼らが生まれるのだ。
最初は淡く点々とした緑色が数か所にあるだけなのに、次第にスポットを増やしてありとあらゆる所を覆ってしまう。
無骨な僕を優しく包むように、その緑色の皮は平面的に広がるが、ある段階を過ぎると褐色の棘が生え始めて、皮の広がりは上へと、三次元的な様相を見せ始める。
ただ褐色と言っても僕の体みたいなものではなくて、もっと活気にあふれる、瑞々しい色だ。僕の体は硬いし、押し潰されそうなほど重いし、ずっと動かずに風雨にさらされたままだから、ボロボロだ。
だけどこの棘は生きている、という感じがする。
それは彼らの成長が目まぐるしいか、軟らかくふさふさとした葉を身に纏ってくれるからだろうか。僕の体の中を流れる液体を勝手に吸い上げていることにもつい目をつぶってしまう。
彼らは日を浴びて、気持ちよさそうに伸びをする。体を動かせない僕にはそれが何のためのものなのか分からない。
ただ、なんとなく、愛おしいのだ。
だから、時々体の奥のものを吐き出すと、あとに何も残っていない、また無骨な僕の表皮だけになってしまっているのを見ると、凄く残念になる。
ああ、まただ。また吐き気が来た。
げぇーぷ。
流動する僕自身が彼らを烈火に包みこみ、灰と化していくのが見える。
ただ、彼ら全員というわけではなくて、足があってぴょんぴょん動き回れる彼らは、運よくどこか遠くへ逃げることができる。
それでも、僕の息で呼吸が出来なくなったり、僕の垢で体中傷つけられてしまったりする。
僕の逆流物が流れる速さは彼らが走るのより何十倍も速いし、そもそも空から降ってくる僕の皮膚が彼らに当たっただけで、グシャグシャになる。
とても脆いのだ。
でも、脆いからこそ、愛おしい。
最近見かけるようになった、あの二本足で歩く彼らもそうだ。
彼らは逃げおおせただろうか。彼らは特に活発で、他の彼らを新しい形に作り直したりするから、面白いなあと思っているのだが。
彼らと違って、僕は不死身だ。崩れることもなく、永遠に同じ場所に存在し続ける。
彼らと比べて、僕は、つまらない。
終わりがない。
永遠に、太陽が昇っては沈むのを何もできず眺めるだけなのだ。
そういう意味では、僕は観測者である。自身では何もできず、いくら羨望の情を抱いても、ただ対象を観察することしか能がない。
それにしても、最近吐き気の周期が縮まっている気がする。彼らが十分に育つ、少なくとも動き回る彼らが定着するにはそれなりの時間が必要だから、できるだけ我慢したいのだけど。
その時、太陽の横に、一つの赤い点が現れた。
*
太陽は、生まれてからもう何百億年と経っている。
その間、太陽は退屈を感じたことがない。
近くには自分と似た格好の恒星がいて、仲もそこまで悪くない。お互い体の調子を崩し気味で、よく中身がどこからともなく吹き出たり、黒いシミができるので、相談しあっているのだ。
体が悪いからと言って特に困ることもないが、共通の話題があると、なんとなく運命共同体、というような気分になるのでお互い報告を欠かすことは無い。
それよりも、太陽にとってこれまで興味を引いてきたのは、自身を中心として回り続ける彼らのことだ。
はじめは、とるに足らない存在だった。
太陽の大きさに惹かれて、文字通りわらわらと集まってきた段階では、微小な集合体、群れとしか認識できなかったが、衝突を繰り返し、いくつかの球体として安定すると、どれがどれであるか判断できるようになり、それぞれ別の物体として愛着を持てるようになった。
彼らは、太陽からすれば吹けば消えてしまうような存在である。だからこそ、太陽にとっては魅力的だった。
それは母が子に対して抱くような、あるいは子が小鳥に対して抱くような気持だったに違いない。
自らより弱い存在を美しく思うこと。
理解できない深淵、繊細さに心安らぐこと。
だから、外縁から侵入した異物に、破壊されたことが、何より悲しかった。
太陽には、異物の侵入経路に大きく影響を及ぼせるほどに自身の重さを変えることなどできない。
なぜこの軌道を通って来たのか。憎しみさえ感じた。文字通り、烈火の炎が渦を巻いた。
他の気体で出来た惑星なら、全然大丈夫だっただろう。
だが、硬い惑星では駄目だ。
硬いものは、壊れやすいのだ・・・
まあ、でも仕方ない。太陽は気を取り直した。
ふと考えると、自分はあの惑星を憐れんでもいたし、羨ましく感じてもいたのかもしれない。
自分は傲慢なのだろうか。そんな考えが鎌首をもたげたが、直ぐに打ち消した。
惑星の破片が舞っているのが見える。あの位置だと、他の惑星に引き寄せられるだろう。
もっと大きくなるだろうか、と太陽は考える。
彼らが生まれた頃のように、光り輝いてくれるといい。
これからに胸を躍らせながら、太陽は無数の岩石が闇の中を飛行する様を見守っていた。
今日は長い一日 小沢藤 @haru-winter
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