悪魔の日記

わた氏

悪魔の日記

 悪魔——子どもの目に映る脅威——。


 少女は悪魔を見つけ、この家にたどり着いた。小さな宿。その一室にいるようだ。


 子どもには、悪魔が見える。その姿も、その声も、認識することができる。でもそれは、大人になると見えなくなるし、聞こえなくなる。個人差はあるが、せいぜい高校生までといったところか。これはまるで、刹那の夢なのだ。


「こんにちは。お変わりはない?」

「……」

「おにぎり、作ってきたの。今日は鮭味だよ」

「……」

「今日ね、学校で調理実習があったんだ。パンケーキを作ったの。持ってこようと思ったんだけど、焦げちゃって……。結局自分で食べちゃった」

「……」

「それから、個人面談があったの。今年で受験生だから、たくさん勉強しないといけないって言われた」

「……」

「あと……」


 袋のこすれる音がする。その少女は、ガサガサと何かを取り出したようだ。


「今日から、交換日記をしようよ。あ、交換日記っていうのは、一冊のノートを使って、二人きりの会話をするの。このノートに、今日あったこととか、好きなこととかを書いて欲しいな。今日は私が書くから、明日はあなたが書いて。おにぎりと一緒に置いておくから、きっと書いてね。それでは、また明日」

「……」


 気配が消えたのを確認し、悪魔は静かに扉を開けた。


「…………バカらしい」


 交換日記用のノートは、手のひらより一回り大きいメモ帳だった。僕はおにぎりと交換日記と一緒に、再び部屋に閉じこもった。


「「5月10日、晴れ。今日から交換日記を始めます。よろしくね。あなたの好きな食べ物は何? 私は、プリンが好き。次のページに書いてくれたら嬉しいです。」」


ノートには、こう書いてあった。特に大したことのない文だ。




 少女と悪魔の出会いは、半年前だ。

 少女は、高校生だと言った。塾帰りに、僕を見たと言って、追いかけてきたと言う。できるだけガキのいない時間を狙って食糧を探していたのに、見つかってしまうとは。


 彼女は、姿を見たい、会いたいと言った。僕が、子どもは嫌いだと返すと、少女はしょんぼりとした声で「そっか……残念」と言った。悪魔に興味を抱くなんて、とんだ変わり者だと僕は思った。


 悪魔は、往々にして嫌われ者だ。古来からの因縁とでも言おうか。今でも泥にまみれた対立が続いている。悪魔専門の討伐組織も存在し、そうした相手とは血を介した争いが起こることもある。だから、悪魔と友好的な人間はそうそういない。少なくとも僕は、初めて見た。


「何が狙いなんだ……」


 友好的なのは表の顔で、裏で手を回しているということも十分ありうる。易々と釣られるわけにはいかない。そもそも、子どもは苦手だし嫌いだ。奴らは、何を考えているか分からない。となれば、その狙いを探る必要がある……そう考えた。


 次の日も、少女は来た。前の日は夜だったが、その日は夕方に来た。それでもずいぶん暗くなっており、身体は闇に浸されていく。


「おにぎり、作ってきたの。食べてね」

「……」

「名前、何て言うの?」

「……」

「男の子?女の子……?」

「……」

「うーん……何だったら答えてくれるんだろう?」

「……何が狙いだ」

「喋った!」

「何が狙いか聞いている」

「狙い?強いて言うなら、君と会うこと。君と仲良くなること、かな。」

「……」


 僕は分からなかった。それで何が得られるのだろうか。バカバカしい。


「ねえ。名前、何?私はリノって言うの」


 それから毎日、リノはやってきた。毎日同じ時間帯……夕方に来て、どうでもいい話ばかりして、暗くなる頃に帰っていく。僕には彼女の顔は見えない。でも、聞こえてくる声から、嬉しそうに話しているのは分かる。どうしてそんなに楽しげなのだろうか。


 リノは決まっておにぎりを持って来る。2,3個の米の塊が、プラスチックの容器に入っている。最初は塩の味が強く、しょっぱいものばかりだったが、次第にほんのりとした味に気改善されていった。さらに、中に具材を入れたものも増えていった。


「今日の具、悪くない……」


 ある日、リノは来なかった。身体の芯まで冷える、初冬の日のことだった。いつもの時間になっても、気配がしない、声がしない。僕はいつも通り、自室のドア前に座っていた。待っても待っても、来なかった。グルルルル……。寂しそうにお腹が唸った。


 次の日、いつも通りリノが来た。今日は2倍、おにぎりを作ってきたと言う。


「昨日はごめんね、体調が悪くて来れなかったの」

「……」


 胸の奥がむずむずする、縮こまりたい。身体を丸めないと、身体がすっと離れてしまうような感じ。その日の僕は、少し変だった。


 それからはいつも通りの日々だった。リノの話を聞く毎日。それまでと変わらない。

 でも、それまではただ眩しく、突き刺すようだった日の光が、少し柔らかなものだと感じるようになった。


「明日は先輩たちがセンター試験を受けるんだって。雪、積もらなければ良いけど……」


 はらはらと雪がちらつく冬の日のことだった。


「寒いねー……寒くない?」

「……」

「そうだ、カイロあげる。シャカシャカ振ると、温かくなるんだよ。振りすぎたらダメなんだけどね。知ってる?」

「……」

「そろそろ暗くなるかな。じゃあ、また明日」

「……」


 リノの気配はない。もう帰ったようだ。ゆっくりと扉を開ける。おにぎりと、“カイロ”と呼ばれるもの。言われたとおりに振ってみる。じんわりと熱が肌に染み込む。頬に当ててみる。思わず顔がほころんだ。


「あったかい……」




「「5月10日、晴れ。今日から交換日記を始めます。よろしくね。あなたの好きな食べ物は何? 私は、プリンが好き。次のページに書いてくれたら嬉しいです。」」


「…………バカらしい」


 しばらく字を眺め、結局書いてやることにした。


 部屋にはちゃぶ台とペン立てに刺さった十本ほどのペン、それと教科書や辞典、小説が山積みになっていた。いくら悪魔と言えど、退屈なのだ。本を読み、教材を読むことしか、やることが無いのだ。外に出れば、いつ人間に狙われるか分からない。大人には認識されないものの、大人顔負けの知識量、力を持つ者はいる。組織の人間が潜んでいるかもしれない。毎日訪れるリノも、組織の一員である可能性はある。まだ油断できない。


——狙い? 強いて言うなら、君と会うこと。君と仲良くなること、かな。


 油断、できない。

 しかしこれまで、一切そのような挙動を見せていない、いや、感じさせていないのも事実なのである。それが余計に、僕にとっては気になることとして心に残った。


 一瞬迷ったが、ペンを抜き取る。リノが書いたページをめくり、好きな食べ物を

書いてやろう……。しかし、何だろうか、思いつかない。あまり真剣に考えたことが無かったのだ。考えるうち、ふとおにぎりが目に入ったので、「おにぎり」とだけ書き、扉の外に置いた。


 次の日、それを見たらしいリノは、声をあげて喜んでいた。


「書いてくれたの? 嬉しい……!」


 今までに聞いたことのない高さの声。相当嬉しかったのだろう。


「何味が好きなの?」

「……」


 何だろうか。答えないとしつこく聞かれる気がした。仕方なく答える。


「何も入ってないやつ……」

「塩味ね。明日はそれにするよっ。これからも、つくって欲しいものがあったら、この日記に書いて!」


 変なヤツ。




 僕の一族は、人間に半壊させられた。僕は襲われた悪魔たちと血縁が比較的離れていたこともあって、争いにはほとんど関わらなかった。しかし、その話はよく聞かされていた。人間は無差別に悪魔を殺す、特に子どもには気をつけろ、と。


 当時は、そこまでちゃんと考えていなかった。悪魔が自分を狙っていること、殺そうとしていること。当時はまだ、知らなかった。奴らから漂う殺気、自分をキッと睨み、引き裂かんとするその形相を。


 僕がそれらを知ったのは、一族が半壊してから2年ほど経ってからだった。身を持って、その恐怖を思い知ることとなった。


 冬の昼下がり。僕は一人、外へ出ていた。悪魔は性質上日光を苦手とするが、その日の太陽は厚い雲に覆われて見えなくなっていた。昼食を集めるため、近くのコンビニに足を運ぶ。大人には認識されないため、勝手にとってもバレない。ちなみに、監視カメラにも映らなければ、自動ドアにも引っかからない。そのため、ドアをすり抜ける必要があった。ただ、商品はしっかり無くなっているため、ちょっとした怪奇現象だ。


 サラダとスティックパン、あとレジに置いてある箸を手に取り、ドアをすり抜ける。その先に、一人の男の子が立っていた。目が合っているため、確実に見えている。その目からの殺気が突き刺さって動けない。そして次の瞬間、そいつは眼前にまで一瞬で迫ってきた。とっさによける中、彼の手に光るもの——悪魔特攻のナイフがちらつく。


——殺される……!


 魔物を狩る専門組織の連中は、極限まで身体能力を上げ、特攻の武器を携えている。さっきのように一瞬で迫ることもできるのだ。もはや奴らは人間ではない。我々以上の化け物なのだ。


 銀色のナイフを振りかざす人間。悪魔も身体能力は比較的高いが、それでもかわすので精一杯だ。翼に力を込める。それまで色の無かった羽根は、黒く染まっていく。魔力の蓄積された翼があれば、大空を自由に飛べる。そのためには一定の時間が必要だが、飛べれば逃げきることができる。


「……っ!」


 左の翼が割れるのが見えた。ナイフで真っ二つにされていた。これじゃあ飛べない……!


 飛べなければ……死ぬ。


 せめてナイフを手放せれば……。奴の手の動きを読み取る。幸いにも、規則的な攻撃は、慣れればかわしやすい。そして、手を最大限まで伸ばす——腕を再び縮め、反撃する時間が最大になるその瞬間、身体を反対側に傾けて攻撃をかわし、みぞおちを思いっきり殴った。相手が体勢を崩し、そのまま倒れこんだのを見たのち全力疾走した。冬だというのに、寒さをいっさい感じなかった。


 それ以降、僕はこの建物に籠っている。昔いた場所から遠く離れた、小さく、古びた、使い捨ての宿。その一室で、本を読んで過ごしていた。食料を調達するのは、以前よりも難しくなった。ここは小さな町。以前の街でお世話になったようなコンビニは、そうそうなかったのだ。食料調達は、子どもの寝静まった夜。街灯が僕にとっての太陽だ。極力寄り道もせずまっすぐ帰る。一度殺されそうになった時のことを思い返すと、ふらふらと遊ぶことはできなかった。

 だからこそ不思議で、疑わしいのだ。なぜリノは、しつこくここに来るのだろうか。考えれば考えるほど、答えは遠ざかる。海の底で手を伸ばしても、決して水の上には届かない、そんなもどかしさがあった。


「それで、体育のソフトボールで、上手くボールを打てたの。初めてバットに当たったからすごく嬉しくて、そのまま走るの忘れちゃった」

「……」

「それでも、他の人と協力して勝てて、嬉しかった」

「……」

「他には」

「なぜ……」

「うん?」

「なぜ、お前はここに来る」

「前にも言わなかった?君に会って、仲良くなりたい。それで…………」


 時が止まったような静寂だった。言いづらいことなのだろうか、妙に気味が悪い。


「私は、証明したいの。悪魔と戦わずに、分かりあえることを」

「きれいごとだ」


 銀色のナイフと、少年の眼光が頭をよぎる。僕を殺そうとした、人間。同じ人間が、分かりあえるとでも?


「……そっか」


 リノは小さくそう言った。


「でも私はね、信じるよ。人と悪魔が共存できる道を。今日はもう帰らなきゃ。じゃあ、また明日。日記とおにぎり、置いておくから」


 足音が遠ざかっていく。彼女は遠い場所にいると感じた。彼女の顔も見えないほどの遠い場所……まあ、扉を隔てているから、見えなくて当然だけど。




 交換日記を初めて、半年が経った。つまり、リノが来てから約一年、ということになる。なんだかんだで、交換日記というのは楽しい。相手は本当に大したことを書いていないが、それでも、その内容を見るのを密かに心待ちにしていた。いつしか、一日の小さな区切りであり、楽しみとなっていた。


 さて、今日の日記には何が書かれているのだろうか。

「「11月25日、曇り。勉強は大変です。特に数学が苦手。もっと頑張らないと。」」


 僕は勉強が好きだ。確かに、理解をするまでには時間と解釈を要するため、その過程で躓くのだろう。しかし分かればすっとする。ごみ箱に入っているごみを、袋ごと捨てた時のように気持ちが良い。雑念が消えていく感じ。それが僕にとってのやりがいだ。人間は嫌い、子どもは大の苦手だが、奴らの生み出したものには感心しているのだ。だから、


「「僕は得意。」」


 とだけ書いておいた。

 次の日、案の定リノから驚きの声が上がった。


「なんで? どうして? 勉強好きなの? 教えてよー」

「……」


 ぐいぐい突っかかってくる。多少は想像していたが、これほどまでとは。


「私、勉強がそんなに得意じゃなくて、それを克服したいんだ。行きたい大学があるの。そこに行くには、もっと賢くならないといけなくて……」

「なら、こんな所に来る必要がないだろ」

「それはそうだけど……」

「なら、早く帰れ」


 強い口調で説く。時間の無駄になるようなことを進んでする意味が分からない。専念する場所を間違っている、その行動は矛盾している。


「……うん」


 悲しげな声。しかしその中に、必死さもこもっていた。そのまま、ゆっくりと足音が消えていった。


「…………行ったか」


 リノは長くここにきているが、悲しそうなのは初めて見た。あの声がチクリと胸を刺した。そしてそこが、グチグチと沁みていった。


 それから、彼女が来る頻度が一気に減った。多くて週1といった有様であり、半月に一度が平均的であった。その分、おにぎりをまとめて持って来るようになった。そして、彼女がドア越しに話すことはなかった。交換日記には、「勉強を頑張らないと」という言葉が必ず刻まれていた。きっと、その大学に行くためだろう。きっと、全然来なくなったのは、勉強に専念するためであろう。そして、僕の言葉のせいだった。


 その日もまた、リノは日記とおにぎりを届けに来た。今日も何も言わないのかと思っていたら、彼女の声が聞こえた。


「明後日は入試なんだ。行きたい大学は、ここから飛行機で行かないといけない場所だから、合格したら会えなくなっちゃう。だから、あなたと会うのは、最後かも。今まで、ありがとう」


 それだけ言って彼女の足音が小さくなっていく。足音が消えたのを確認し、扉を開ける。日記とおにぎり、そして、手紙と思しきものが置いてあった。手紙には、こう書かれていた。


「「これまでたくさん話を聞いてくれて、ありがとう。私はもうすぐ、あなたのことが見えなくなります。もう高校3年生だから。大学に受かっても受からなくても。だから、私はあなたに会えない。一度で良いからその顔を見たかったな。それでも、楽しかったよ。


 私の父は、悪魔狩りの首領です。あの人は時々、恐ろしい目をします。殺意に満ちた目で、私はそれが嫌い。悪魔を狩れば、私もこうなってしまうのかと、嫌になっていました。そんな反抗心から、あなたに近づいた。最初はそうだったんだけど、次第に、あなたを知りたいと思うようになった。もしかしたら本当に、人間と悪魔が笑って一緒に過ごせる時がくるのかなって、思うようになりました。だって、あなたは一度も、私を拒まなかったから。そばにいてくれたから。きっと、あなたは優しいんだと知って、私も、悪魔を信じようと思いました。「きれいごとだ」って言いながら、私を待ってくれたあなたが大好きだよ。ありがとう リノより」」


 次の瞬間、僕は日記手に取り、ページをを乱暴にめくった。そしてペンを走らせた。ほぼ殴り書きだが、そんなことは気にしない。書き終えたと同時に、僕は走り出していた。ペンよりも速く、飛ぶよりも力強く。こんな時に限って、まるでスローモーションのように景色が動かないと感じる。もっと速く、速く……!


 追いついた……!遠く少女の影が揺らめいている。あれがリノという確証はなかった。全く違う人かもしれなかったが、そんなこと今は考える余裕なんてなかった。


「おい!!」


 振り返る少女。


「あなたが、悪魔さん……?」


 この声だ。リノだ。間違いない。リノは僕の姿をじっと見る。足、しっぽ、胴体、そして顔とツノ。おもむろに、リノの口が開く。


「やっと会えた……嬉しい……!!」


 そう言ったリノは、勢いよく抱きついてきた。体重を支えきれず、後ろに倒れる。


「あっ、ごめんね」


 手を離したリノ。僕は息を切らしながら、ノートを突き出した。


「日記……?」


リノはペラペラとページをめくっていく。そして、


「「受かれ」」


 その文字の上に、大粒の涙を落した。言葉にならない嗚咽が聞こえる。悪いことをしたつもりはないのに、どうもムズムズする。


「もう僕は行く。邪魔したな」


 どうも居づらくなってしまい、そそくさとその場を立ち上がろうと身体を起こそうとするが、


「待って」


 鼻を真っ赤にして、リノが僕の袖をつかむ。


「この日記はあなたに貸しておくよ。それで、もしまた私を見つけてくれたら、そっと私のそばに置いてくれる?」


 ああそうか。もうじき彼女は、僕のことが見えなくなる。声も、聞こえなくなる。だから、日記が僕を見つけてくれるのだろう。その文字が、僕をもう一度形作るのだろう。


「…………気が向いたらな」

「やったあ! ありがとう!!」


 再び抱きついてくる。さっきよりも力がこもっており、少し苦しかった。そして、彼女は、温かかった。いつかくれたカイロよりも、芯まで届くぬくもりを感じた。


「ちょっ……」

「ああ、ごめん。嬉しかったから、つい……。手を出して」


 先に立ち上がったリノは、僕の目の前に手をまっすぐ伸ばした。微笑む少女。春の日差しのように晴れやかで柔らかな笑みがあった。僕はゆっくりと手を乗せる。リノは僕を引き上げ、起こしてくれた。


「ふふっ。私、頑張るね。あなたのおかげで、受かる気がするよ」


 いたずらっ子のように笑い、ピースサインをしてみせたリノ。つられて口角が上がってしまい、慌てて顔を伏せる。


「それじゃあ、またね」


 そう言って、僕よりもはるか遠くの少女は去っていった。




 何年たっただろうか。

 悪魔と人間との悶着は、落ち着きを見せていた。こうやって、真昼間に外へ出られるようになったのも、そのおかげだ。


 今、僕は河川敷に腰掛けている。僕の住む場所から、10分ほど歩いたところにあり、自転車に乗る人や歩く人、川で遊ぶ人……がぽつぽつと見受けられる。川の流れに耳を傾けるのが、ここ最近のお気に入りだ。水がこすれる音に癒される。春の柔らかな日差しが、僕を抱きしめる。見渡すと、そこかしこで桜の花びらが雪のように降っていた。


「きれー……。久々に来たけど、変わらないね」


 聞き覚えのある声。久しく聞いていなかったのに、一瞬で記憶が引き出される。


「リノ……!」


 ずいぶんと大人びたリノが、そこにいた。10メートル程左に、座っていた。悪魔と比べて、人間は成長が早い。それを思い知らされる。置いて行かれたな……。自分の身体を見ながら、そう思った。彼女に僕は見えていない。声をかけても、決して届かない。分かっているが、反例を求めてしまった。


「リノ」


 彼女は振り向かない。もう大人なのだ。遥かかなたの少女は、別の世界へと行ってしまったのだ。きっと、触れても気づかれないのだろう。まるで、僕が死んで幽霊にでもなってしまったようだ。胸の中で、何かがゴワゴワと騒ぎ立てる。分かってはいたのに、覚悟していたのに、想像以上に応える。本来は、大人になったことでそいつから襲われる可能性が無くなったことを喜ぶべきなのに。


 交換日記を傍に置く。動揺で忘れるところだった。気づいてくれるかな……。


「……?」


 気づいたようだ。拾い上げ、パラパラとページをめくる彼女の顔は、微笑みながらも、どこか憂いを帯びていた。これが、大人になったということなのか。けれど読み終えた後、リノは少女に戻ったような笑顔で、涙を浮かべながら言った。


「ありがとう」


 リノには僕が見えないし、声は届かない。だけど僕は、言わずにはいられない。


「それじゃあ、またな」


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