人形病

階田発春

人形病

 学校を卒業し、就職し、結婚して、子供ができて、気がつけばだいぶ時間が経った。思い出は日々淡々と薄れていくものだということを実感する日々である。

 それは私の記憶だけではない。物質的なものだってそうだ。小さいころ持っていたものはだいたい処分してしまったし、この前自分の生まれ故郷に久しぶりに帰ってみると、記憶と違う光景がそこにはあった。失われていくものと新たに生まれていくものの間で、私は戸惑うばかりだ。

 それでも、二十年前からずっと肌身離さず持ち続けているものがただ一つだけあった。持ち運びの出来る大きさのポシェットだ。その中にはビー玉が、一つ、入っている。人間の瞳の色のような茶色がかった黒のビー玉だ。私はたまにポシェットからビー玉を出し、手のひらで握りしめる。そうすると、二十年前のことが昨日のことのように思い出せるのだ。

 そのビー玉は、妹の瞳だった。



 今やその奇抜さで名を広く知られる人形病は、わたしが小さい頃はまだ一般的な認知度が浅かった。なので、それを知った時わたしはあまりに作り話のようで信じられなかった。でも、妹は確かに人形病にかかっていた。

 それがわかったのは私が中学二年生、妹が小学三年生のことである。私と言えばちょうど反抗期にさしかかっている時で、毎日毎日親と言い争いばかりしていた。そういう中で妹と私は仲が良かった。

 妹は綺麗な子供だった。かわいい、というよりも綺麗という表現が驚く程似合うような顔立ちをしていた。私といえば平均的な顔立ちをしていたから妹に嫉妬することもあったけれど、それ以上に妹のことが好きだった。

 私だけではなく、妹は誰からも愛されていた。それこそ人形のような顔立ちと、彼女の天衣無縫なものの言い方は、多くの人を惹きつける力があった。

 妹の最初の兆候はよく覚えている。家族全員揃って夕食を食べ終えた後、母は食器を洗っていて、父はつまみを食べていて、私と妹はのんびりテレビ番組を見ながらソファーでくつろいでいた。その時、妹はいきなり「気持ち悪い」と叫んでその場に大量の綿を吐き、家族全員凍りついた。

 一番初めに声を出したのは母だった。

「あんた、何、へんなものでも食べたの」

 お母さんの震えた声に、妹はただ力なく頭を傾けるだけだった。




 人形病とは、文字通り人間が人形になってしまう病気。治療方法はいまだわかっていない。体の一部分がわずかでもつくりものになってしまったら最後、もうその人の体は動かなくなり、あとは人形になっていくだけ。

 医師からそう説明を受けても、私はいまいちピンとこなかったが、妹が綿を吐き続けている姿を見て否応にも納得せざるをえなかった。

 妹は入院や薬を必要とせず―もちろんそうしても全く意味がないからだが―綿を吐く以外はいつものように私の隣で生活していた。とくに悩んだりする様子さえなく、学校へ行き、食事をして、寝て、私に話しかけてくる。

「綿をはくって、あたし猫みたいだね」

「それは毛玉でしょ」

「どっちだってそんなに変わらないよ」

 妹はそう言って、けらけらと笑った。まるで他人事のようだった。おそらく、彼女は幼かったから「死」というものを理解できなかったのだろう。幼さはある種の強さにも成り得る。私たち家族といえば、妹を失う未来をおそれていた。

 ある日、私と妹は一緒に外へ出かけていた。学校の近くの雑木林で、何かの木の実をとって食べた。イチゴの一種のような、今はもうほとんど見られない木の実だ。それを籠に入れられるだけ入れて、2人で地べたに座りもくもくと食べていた。

 ふと、私は妹の横顔を見た。つぶらな瞳、陶器のような白い肌、長い睫。気のせいか、以前よりも「人形らしさ」と言うべき雰囲気が強くなったような気がした。ぼんやりと眺めていると、妹のビー玉のような目が私に向いた。

「なに見てるの」

「いや、人形に似てるなあ、と思って」

「あたしが?」

「そう」

 妹はうーんと考え込んだ。

「もしかしたら、人形に似てるから神様があたしを本物の人形にしようとしてるのかなあ」

「そうかもね」

 当時わたしは神様なんて信じていなかったが、ただ適当に話を合わせていた。

「お姉ちゃん。人形になったら、あたし、死ぬの? それとも人形になるの?」

「両方じゃないの」

「でも、もし、人形になって動かなくなっても、あたしが生きていたらどうしよう」

「人形になっても意識があるってこと?」

「うん。動きたいのに動けないってこわいなあー。マンガも読めないし、好きなものだって食べれないよ」

 わたしは笑った。本当は笑えなかったけど、無理やり笑った。笑い話にできればいいと思った。でも、自分の中で結局できなくて、それがとてもむしゃくしゃして、近くにあった石を力強く投げた。石はただ慣性に従って草むらへガサリと音をたてて落ちた。無意味な行為。妹はその行為を淡々と眺めているだけだった。

 






それから先の思い出はぷつりと途切れている。次の妹に関する場面は、ベッドの上でもう動かない妹の前で茫然と立ち尽くしている私の姿だった。母さんと父さんはその時はいなかった。ただ私と妹だけの空間が、そこにはあった。

 妹の手のひらを触ると、薬指の第二関節のあたりが固く、物質化していた。妹はまだ全身が人形にはなっていなかったが、やがてそうなっていくのに時間がかからなかった。

 私は、神を恨むでもなく、妹の喪失を悲しむでもなく、ただ不安だった。妹の魂がどこにいったのか不安だった。肉体は腐らずに、綺麗なままでずっと存在する。存在するのに、生きてはおらず、かといって死んでいるようにも見えなくて、私はただ混乱した。妹はどこに行ったんだろう?

 ふと、妹の顔を覗き込んだ。人形化してから、より造形的な綺麗さが増したような気がした。目は開いたままだ。目が合っても、彼女に反応が伴うことはもうない。でも、その目は、孤独の色が浮かんでいた気がした。それは、時間を止められてしまった者の孤独だった。





 それから私は、妹の目を取り出して、ポシェットに入れた。理由は妹への同情からだ。せめて一緒にいてあげようとした、憐みからだ。

今でも人形化した妹は実家にある。彼女の体はあの時からずっと時間から取り残されたままだ。でも、彼女の瞳だけは、ずっと持ち歩いていたからか、人形化した時よりもずっと古びはじめていた。

 周りの環境が少しずつ違ったものになっていくように、私が少しずつ老いていくように、かつて存在していたものを、時間は淡々と壊していく。時間が止まってほしいと若いころはよく思っていた。だが、本当に不幸なことは、時間によって変わることすら許されないことなのだろう。いくら妹の身体が物質として朽ちていくとしても、彼女の時は子供の時から止まったままだ。

だから、せめて最後まで忘れないでいてあげようと思う。

妹の心はどうなったのか、わたしにはわからない。天国にいったのだろうか? それとも人形として動かなくなって、今でも瞳越しに私のことを見ているのだろうか。わたしはポシェットから妹の瞳を取り出して、光に当ててみる。やはり見つめかえす気配はさっぱり無い。ただのビー玉のふりをするように、そこに存在していた。 

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人形病 階田発春 @mathzuku

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