第2話
*
生きることを放棄して、何時間、何日が経っただろう。なんて、時間の感覚が分からなくなってきたその時、錆びた扉が開く音がして、反射的にリラックスしきっていた体が緊張する。
「まだここに居たんだ」
聞き慣れた声に、現実に引き戻される。声の主は、鍵を指で回しながら笑っている。
「神崎さんがここにいること、誰も気づいてないみたい」
よいしょ、と私の横に腰を下ろした黒瀬君は、整った顔をくしゃりと歪める。
教室ではろくに話したこともない黒瀬君と話すのはたぶん10回目くらい。そのくらいしか交流したことがない。当たり前だ、黒瀬君は私と関わるような人間ではない。
「どうして鍵、持ってるの」
どうして私がここに居ることに気づいたのか。
そう聞こうと思ったのに、どうでもいい質問を投げかけてしまった。
「まあそんなこと、どうでもいいじゃん」
あっさりと笑顔で返されて、驚く。彼の様子が、何か、おかしい。
黒瀬君は私と同じように大きく息を吸って、吐いて、良い天気だね、と言った。
その意図が全くつかめなくて思わず彼の顔をじっと見た。すると彼は照れたように笑って私の隣で大の字になる。
「俺ねえ、神崎さんのこと気になってたんだ」
あ、恋愛的な意味でね、と空を見上げたまま付け加えた黒瀬君の表情は変わらない。
台本になかったような、急展開に私はたじろぐ。今までそんなこと、一言も言ったことがないのに。
その人懐っこうな顔といつでもポジティブな性格が人気なクラスのムードメーカーで、サッカー部のキャプテンで、噂によると旧帝大を目指しているらしい彼が、何の特徴もない、友達にも存在を忘れられるような私を気になると言っている意味が本当に分からなかった。
少し考えて合点がいった私は言った。
「雑な罰ゲーム」
いかにも、彼の周りに居るクラスメイト達が考えそうな、くだらないゲームだ。
この場合、被害を受けたと言えるのはどっちなんだろう。罰ゲームのターゲットになってしまったことに気づいても、傷ついてない自分がいる。それは何だか、人間として劣っている気がした。
「俺は、ちゃんと他人の気持ちを考えられる人だよ」
黒瀬君は、今度は私の目を見て言った。
心外だ、と大きく開いた目は、まるで私の眼の奥を探ろうとしているようだった。
私はその鋭い視線から逃げた。何か言おうと口を開いたが、こういう時に使う言葉を知らなかった。
「神崎さんは、いつもあの二人とはどっか距離を置いてて、一人でも平気で、クラスでは異常に見えた」
空を指さす黒瀬君の視線の先にいたのは群れになって飛んでいる鳥たちの少し後ろを飛んでいた一羽の鳥。
ほら、あれ、神崎さん。といつの間にか表情の消えた彼は言う。
彼のことをよく知らないから、私をからかっているのかどうかも分からない。
ただ私が彼の感情のない顔を見たのは初めてで、改めてその顔の綺麗さに思わず見入ってしまう。
あの鳥たちの群れのトップにいるのは間違いなく黒瀬君。それなら私は、たしかに群れから外れた異端児だ。
「よく、知ってるね、私のこと」
言った後に自意識過剰だったと後悔した。
「だって目立つもん」
そうなんだ、と羞恥で顔に熱が集まるのを感じながら私は平然としているふりをして、立ち上がる。
「黒瀬君、部活行かなくていいの?」
黒瀬君はきっとこんな所で油を売っていることが許されるほど暇ではない。
部活も勉強も手のぬかない彼は、私と正反対でいつも一生懸命頑張っている、らしい。
やっぱり、彼が私を気になっているというのは嘘だろう。
「俺、もう疲れたんだよね」
そう言って体を起こした彼は、ぴょんと兎のように立ち上がる。
「神崎さん、俺も逃げていいかな」
私よりも頭一個分身長の高い黒瀬君と私が並べば必然的に私が彼を見上げる形になる。
見上げたそこにあった笑顔は、今にも泣き顔に変わりそうだ。私はそうなることを、ひどく恐れていた。
「ちょっとは、休みなよ」
私の裏返った声は、ぼとりと灰色の中に落ちた。私に正解は分からなかった。黒瀬君がどこまで本気で言っているのか分からなくて、今まで逃げたいと思っていた私自身も、どこまで本気だったのか分からなくなった。
彼はまた灰色の上に座った。そして体操座りをして、ぽつりと呟く。
「俺って、神崎さんにとってどんなイメージだった?」
私も彼の隣に座り直して、さっき思っていた、彼に対しての完璧なイメージをそのまま口にする。
黒瀬君はそっか、と悲しそうに笑って黙った。
私達の沈黙を紛らわせるように蝉がうるさく鳴いていた。彼ら蝉は、空っぽの腹を震わせているだけの人生に何の疑問も抱かないのだろう。普段は忌み嫌う対象であるはずの蝉がひどく羨ましく思えた。
「俺ほんとは友達いないんだよね」
屋上に来る前の私なら、嘘だと一笑していただろう。彼の周りにはいつも自然と人の輪が出来ていたから。でも、今の黒瀬君を前に、とてもそんなことは言えなかった。
「私も」
これは彼をかばうための謙遜ではなくて、紛れもない事実だった。
教室では曜子や穂香と一緒にいたけれど、黒瀬君の言うように、私と二人にはもう届かないくらいの距離が出来ていた。
小学生の頃何も考えずに皆と仲良く出来ていた自分は、迷子になってしまった。
「だから、同じクラスになった時からずっと、神崎さんが気になってた」
根っこから明るい人だと思っていた黒瀬君は、いつも一人な私に共感した、と言いたいのだろうか。
「私はそんなにかっこよくないよ」
私は特に、一人を望んでいるわけではないのだ。ただ人と関わることが苦手で気がつくと一人になっているだけ。私は黒瀬君に憧れている側の人間だ。黒瀬君に憧れられる側の人間とはほど遠い。
「神崎さん、好きだよ」
地べたに転がっていた小さな石を投げて彼は言った。声が震えていた。
あの扉の向こうで聞き耳を立てているであろう上辺だけの仲間たちの存在を思い出したのか。
「ごめんけど私、黒瀬君のこと信じられないよ」
そう言うと、黒瀬君は渇いた笑みを浮かべて、あーあ、とため息をついた。
今まで話してきた時間にそんな素振りは一切見せなかった彼を簡単に信じれるほど、私は乙女ではない。
「俺、嘘つかないことで有名なんだけどな」
そんなの知らない。黒瀬君と私では、住んでいる世界があまりにも違いすぎる。
「うん、でも、さいごに話せてよかったよ」
黒瀬君は自分自身に言い聞かせるように言った。
その"さいご"は漢字に変換したらいけないような気がして立ち上がりかけた彼の腕を掴もうとした。私の手をすり抜けた腕は太くて逞しかった。
「さいごって、どういう意味?」
焦る私に、神崎さんに関係ないよ、と緩く笑う黒瀬君。たしかに黒瀬君とは数回、話をしただけで深い仲でもないし、私は黒瀬君のことを知らないから、首を突っ込んではいけないのかもしれない。でも、今にも飛んでいきそうな人間を放っておく人がどこにいるだろう。
「何が、黒瀬君をそんなに追い詰めてるの」
傍から見れば、順風満帆で将来に希望しかなさそうな彼。私の憧れだった、彼。
その彼の顔に濃いクマを作った元凶は、一体。
「神崎環、あんただよ」
急に黒瀬君の声色が変わった。
たまき、と随分聞いてなかった懐かしい名の響きが心地良い。
「俺はまだ、神崎さんにとって高校生に見える?」
私の目の高さにある黒瀬君の左手の薬指に指輪が嵌められていたことに気づく。
一年前はなかったはずなのに、と、私が一年前にも彼と会話をしていたことを思い出す。
黒瀬君の顔が、さっき屋上に上がってきたクラスの子達の担任と一緒だということにも気づく。
混同している記憶を整理しようと脳は必死に働くが私の意思はそれを必死に妨げる。そこに、思い出してはいけない、何かがあると、本能が訴えかけてくる。
でも、私に頭を下げている彼を前に、私だけ逃げるわけにはいかなかった。
Blue In Spring ao @aoiyagi
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