あれは2人が死ぬ前日の早朝、夏らしくない冷たくて気持ちのいい風が吹いていた。女と母とおにいさんとで、遠くにドライブに出かけた。突然とつぜん、起こされたのだ、まだ暗いうちに。「ピクニックに出かけましょ」という母の優しげな声に揺り起こされて。


 そして、どこかも分からない山中さんちゅうれていかれた。過去から女に呼びかけるのは、知らない町々まちまちを抜け、通れるかも分からない細道ほそみちを車でのぼ山頂さんちょういたる、高揚感こうようかん。それは確か、おとぎの国へ向かうような心持ちだったはず。しかし、そんな胸の高鳴たかなりは出端ではなくじかれ、おあずけを受けてしまう。しばらく、車のなかで待っていろと言うのだ。「ひゃくかぞえるまで目を開けちゃだめよ」何も悪いことをしていないのに、きつくそう言われみじめになった。車のれる音、遠ざかる2人の足音。目を開けると、あたりの木々が、いつのにか近づいているような錯覚さっかくを受けた。


 待つあいだ、怖くてたまらなかった。知らない場所でひとりきりで、心細こころぼそくて、ついに女は我慢がまんできずに、2人をさがしに車から降りた。さいわいなのか今となっては分からないが、すぐに2人は見つかった。


 2人はそれぞれスコップを持って、大きなあなに土を投げ入れていた。となりにこんもりられた山から、次々つぎつぎ土をすくって。

 女は、2人は穴掘あなほあそびをしているんだと、思った。そしてすぐに、ものにされたことにいかりをおぼえ、2人のもとろうとした。しかし、実際じっさいにはそうしなかった。あまりに無邪気むじゃきだったからだ。楽しそうだったからだ。邪魔じゃまをしてはいけないと、女は幼心おさなごころにそう思ったのだ。見ているだけの方が楽しいだろうと思った。だから女は木陰こかげかくれ、2人のあそびが終わるのを待っていた。


 やがて2人はあなえると、れした顔を浮かべながら、女の方に向かってきた。最初、女は、木陰こかげから飛び出し、2人をおどろかせようと、思った。しかし、次の瞬間しゅんかんにはその場から逃げ出していた。足音を立てず、息を殺して、そっと。

 何故なぜだか、2人の顔が別人べつじんに見えたのだ。おかしな話だが2人の顔が自動車に見えた。丁度ちょうど、自動車などの無機物むきぶつに顔を見出みいだした時の、その感覚が起こったのだ。


 回想かいそうもろはかない。そよ風に散る、雨よりまばらな桜吹雪さくらふぶきに消えるように。


 かた質感しつかんの桜のみき闇夜やみよに溶けて、男の肉体を想起そうきさせた。熱でできているのではと、何度も考えた。どうして人はこんなにも長いあいだ、熱をたもっていられるのか、不思議でならなかった。そのどうを真っ二つにして、中身を見てみたいと。


 女はこれまでずっと、刹那的せつなてきに生きてきた。うすっぺらで、後先あとさきなど考えず、過去もかえりみず、楽な方、自堕落じだらくになれる方へと。自殺者じさつしゃの血が流れているからだろうか、女はそう考えた。だからこんなに自分の体は冷たいのだろうかと。もう体だけは先を見越みこして、着々ちゃくちゃくと準備を進めているのかと。それも当然とうぜんなのかもしれない。ずっと、体の思うままに生きてきたのだから。


 女は思った、血はあらそえないのだと。とくに女はそうなのではないか。男はだめな父親を見て、反抗はんこうしたり反対のことをする方が多いように思える。

 しかし、女はずっと母親を見てる。じっときもしないで、まるでお花見はなみでもするように。団子だんご片手かたてに、誰かとたわむれながら、時折ときおり、自分の好きな飲み物でのどうるおしながら、だけれど片時かたときも目は切らずに。どんなに醜悪しゅうあくだろうと、して目は離せない。自分たちはみんな花なのだから。植物はみんな、大地の奥底おくそこつながっている。根をからませ、心の奥の湿しめった冷たさを、たがいにわたし、品定しなさだめしながら。


 桜を見るうちに、女のなか同情どうじょうねんが起こった。何故なぜこんなにも悲しそうに咲いているのかと。産まれたばかりの赤ん坊のように、わけも分からず泣いているんだ。

 血のなかに悲しさが溶け込んでいるんだ。それは思いつきにぎなかったが、女にはそれが、本当のように思えるのだった。

 血に悲しさが溶け込んでいる。植物もけものも、人間も。


 女の思いつきは止まらない。


 桜にはみな、あのワシントンの桜の血が流れているのだと考えた。おのあじためしたいという理由だけで、殺された、桜。おそらく、ワシントンの父親の態度たいど絶望ぜつぼうしたんだ。あんなに大切にしてくれていたのに。どうられて殺されたというのに。息子にはおおとがめはなくて。正直に話したと、あろうことかめそやされて。息子だものな。結局けっきょくは血がすべてか。


 夜の桜は暗闇くらやみれている。うっすらとした紅色べにいろ丁度ちょうど、真っ赤な血にけてしぼれば、あのような色合いろあいになるのではないか。どすぐろく、藍染あいぞめよりも溶液ようえき。なのにひねげればこのうえないあざやかさ。

 だから夜の桜はどこかしおれているのか。血にれて、それを夜風よかぜかわかして、そんなことをしているから、あんなにすぐに散ってしまうのか。


 桜の花弁かべんは咲いた時にはすでに死んでいる。多分たぶんそれは自殺ではないか。だってあまりにいさぎよいのだから。


 実際じっさいところ、女の頭のなかでは、四六時中しろくじちゅう桜が咲いていた。桜が散らない、どうやっても。だから、今見ている桜は偽物にせものじみて、薄気味うすきみが悪かった。

 その時突然とつぜん、知らない誰かの声が聞えた。


じつはさ、妻と別れたんだ。真剣しんけんに話したんだよ。そしたらさ、びっくりするくらいあっさりゆるしてくれたんだ。好きにするといいって言ってくれて、何だか応援おうえんまでしてくれてさ。……君と生きたいんだ」


 絶対ぜったいに私のことなんか受け入れてくれない、そう思っていたのに。女は心の奥底おくそこどくづいた。しかし、すぐにそれをのどを鳴らしくだすと、女は逡巡しゅんじゅんした。この男と一緒に車に乗り、ハンドルを切れるだろうかと。

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緑の桜、木漏れ日は月明かり 倉井さとり @sasugari

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