桜を見上げながら、目をうつろにさせる女の顔に、片岡は何かを感じ、口をつぐんんだままだった。女も同様どうよう一言ひとことも言葉をはっしない。そればかりか息をしているのかもあやしいほど、じっと桜を見上げているのだった。

 女のひとみうつるのは、桜の花弁かべんと、月光げっこう木漏こもだけではないようだった。えた桜のにおいの濃淡のうたんが、鼻腔びくうをくすぐるたびごとに、女の視界しかい色彩しきさいが切り替わる。


 桜の薄紅うすべにが、新緑しんりょくあざやかさに。月の木漏こもが、激しい日差ひざしに。


 女はふと思い出した、そろそろ自分は、母と同じ歳になるのだということを。早くに死んだ母。女盛りを少し過ぎた頃に。


 女は昔に思いをせた。視界しかい酩酊めいていに身をゆだねながら。

 彼のことを女は『となりのおにいさん』と呼んでいた。理由はそのままで、女の実家のすぐとなりに住んでいたからだ。小さい頃からよく遊んでもらっていたから、物心ものごころがついた時にはもうすでに、おにいさんと呼んでいた。


 両親のなかは、女の意識の目覚めの時からすでに、修復しゅうふく不可能ふかのうなほどに悪くなっていた。離婚は時間の問題だったが、死の方がわずかに早かったのだ。女はよく、両親の伝書鳩でんしょばとにされたものだ。両親の言葉を受け取る時、それを伝える時、決まって女にまで侮蔑ぶべつの表情を向けるのだ。

 お前は父さんの味方みかただよな。貴女あなたは私の方が好きだものね。なにかの罪滅つみほろぼしのように2人は決まってそう言い、みを女に向けた。それは何のつぐないにもならず、そのみの言いようのない薄気味うすきみわるさにうんざりさせられたものだ。


 ある時、両親とおにいさんがこのから消えた。まだ女が少女だった頃のことだ。

 父は失踪しっそうだった。そして、その次の日に母とおにいさんが車で事故じこを起こし、2人揃そろって死んだ。母の運転する車におにいさんも乗り合わせており、トラックに正面しょうめん衝突しょうとつしたのだ。2人の体は丸焦まるこげになり、トラックの運転手も頭を打ちくなった。母の車が対向車線たいこうしゃせんにはみ出したそうだ。それも見通みとおしのいい直線で。


 それからの女の生活は苦しいものだった。身寄みよりは母方ははがた祖母そぼしかおらず、女は祖母そぼに引き取られた。母と祖母そぼり合いが悪く、近くに住んではいても、あまり会うことはなく、会ったとしても母と喧嘩けんかになり、女にまできつくたるのがつねだった。そしてそれは、一緒に住むようになろうと変わらないのだった。それどころか祖母そぼらしは元々もともとまずしかったせいか、ますますたりが強くなった。


 孤児院こじいんにでも入れられた方が幸せだったんじゃないかと、時に女は想像そうぞうめぐらし、おのれうちの少女をなぐさめた。しかし「あたしが引き取らなければ、あんたはもっとひどい目にっていたんだからね」という祖母そぼの言葉が、まるでのろいのように頭から離れない。音節おんせつまではっきりとこびりついてしまったのだ。


 それより女がつらかったのは、まわりの人間の陰口かげぐちだった。おにいさんと母はできていたんじゃないかと、そういう話だ。当時とうじは必死になって否定してまわった女だったが、今にして思うと、できていたんだろうなという根拠こんきょのない確信かくしんがあった。


 女の酩酊めいていさらに増し、実際じっさいに今、新緑しんりょくなかを歩いているように感じるのだった。


 あれは2人が死ぬ日の朝。木漏こもなか、母とおにいさんがいて、2人で手をつないで向かい合いながら、この世のものとは思えない微笑びしょうを浮かべていた。なにかから解放かいほうされたように、安堵あんどに身をまかせた体は、綿毛わたげのようなかろやかさ。すべてをさとった天使てんし微笑ほほえみ。あかぼうのような無邪気むじゃきさ。いまさとる、2人は心中しんじゅうだったと。そうでなければ、あんな表情浮かべられるわけがない。


 夜の薄紅うすべにから日光にっこうこぼれ、夏の青々あおあおとしたかさから星空がのぞく。頭のなかでこだまする母の声。「おにいさんが大好きだもんね」「パパよりも好きだもんね」女はそれらの言葉に、当時とうじよろこんで返事をしていた。お菓子かしを買ってもらえるから、好きな場所にれていってもらえるから。

「いつ別れてくれるの奥さんと」おにいさんと会うと必ず口にしていた。まるで何かの挨拶あいさつかのように。子供の前で、なんずかしげもなく。思い出すだけでの引く言葉を、今や女は毎週のように口にしている。それを思うと女は、わずかに身を冷やし、片岡とつないだてのひらあせばませた。あせ湿気しっけに、夏の記憶がますます鮮明せんめいになっていく。


 おさなうちのあやふやな記憶。桜の森の葉合はあいからのぞく星空のように、すかすかでたよりない。でもどうしてだろう。今はっきりと思い出す。

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