緑の桜、木漏れ日は月明かり

倉井さとり

 ある春の夕刻ゆうこくのこと。

 夕闇ゆうやみとも夜ともいえない、中途半端ちゅうとはんぱな色合いの町並みが、地平ちへい隅々すみずみまで広がっていた。

 2人分の足音があたりに響いている。

 春はかおりの季節。冬のあいだにぶった嗅覚きゅうかくりつく、様々さまざま有機物ゆうきぶつにおい。


「すごいですね」


 スーツ姿の女が言った。


「何が?」


「桜ですよ」


 女は、となりを歩く男の肩に頭を寄せた。


一番いちばんいい時だな」


 男が言う。としは、女よりも一回ひとまわりほどうえだろうか。


「桜の木はいいですよね」


 女は、吐息といきともに言葉を吐き出した。


「ああ」


年中ねんじゅう咲いてればいいのに」


「大変だよ」


「大変? 何が大変だって言うんですか?」


 女は、わずかに息巻いきまきそう言った。


花弁かべん掃除そうじが」


「ああ。でもいいじゃないですか。木からはいつだって、実や葉っぱなんかが落ちてくるんですから。そんなのよりずっと綺麗きれいじゃないですか、花弁かべんは」


「ずっとこんなにおぐなんて嫌だなぁ」


 男は、桜の散り終わったあとの、くさったような甘ったるいにおいを思い起こした。命に感じる横への変化とは違う、どこか死やいを連想れんそうさせる、地面にかえっていくような下への変化。


「いいじゃないですか、このにおい」女は男から手を離し、うしに指をみ、胸をわずかにらした。「自堕落じだらくそうで、いいじゃないですか」


自堕落じだらく?」


「甘ったるくて、誰にでも優しそうで、なによりだらしない感じがします」


 自堕落じだらくで、甘やかしな、博愛主義者はくあいしゅぎしゃ、男はそんな言葉を思い浮かべた。罪悪感ざいあくかんが込み上げ、体がいくらか冷たくなったように感じた。

 女は、身を寄せたまま男の顔をのぞき上げた。


「まるで、私たちみたい」


 言って女は、男に抱きついた。そして、男の胸に顔をうずめ、鼻を何度も鳴らした。


「おい、こんなところで……」


 男はそう言うと、辺りを見渡みわたした。人影はまばらで、誰も男と女に注意を向けてはいない。それでも男は落ち着かなかった。

 顔をせたままはっする女の声は、もって不鮮明ふせんめいだった。


「いいじゃないですか、こんなに遠くに来てるんですから。知ってる人なんていませんよ」女は、熱い息を一つ吐くと、吐いた息よりずっと多く、男のにおいを吸い込んだ。「職場からも、片岡かたおかさんの家からも、私のマンションからもずっと離れているんですから。本当はもっと遠くに行きたいけれど」


 その言葉を受けてなお、男はやはり、周りの目が気になるようだった。

 今日は火曜日だった。2人きりで会うのは、月曜日か火曜日と決まっていた。普段ふだんの片岡は、家族には残業をしていると説明していた。残業をしないと、週末にも仕事をしなくてはならないからと。

 2人は同じ職場の上司と部下の関係だった。職場での片岡は、女に綺麗事きれいごとを並べていた。職場の規律きりつ理念りねん、そして社会人としての道徳観どうとくかん。しかし、ひとたび職場から離れれば、綺麗事きれいごとも立場も消えた。椿つばきの花が落ちるようにあっさりと。


「いいじゃないですか」女のその言葉に、片岡は結局けっきょく流されてしまう。

 こんなに密着みっちゃくしているのに、何故なぜか女のにおいを感じなかった。確かににおいはしているが、もしこれが女のものなら、あまりに桜じみている。風に散り、地に落ちて、雨に打たれた桜の花弁かべんのよう。


 夜がけ、片岡の言うところの残業を終え、2人はまた同じ道を引き返していた。夜遅いというのに、まばらながら人通ひとどおりがあった。まるで夕方の繰り返しだ。同じような人々の、同じような影。天上てんじょうでは、月が気怠けだるげにともっている。


 突然とつぜん、女は片岡の手を引き、小径こみちに入っていった。

 せまさびれた小径こみちには、両側から桜の木々がおおかぶさっている。まるで雑木林ぞうきばやしなかを歩いているかのよう。女は片岡にしなれかかると、口づけをした。名残なごりしそうに、何かをうばおうとするかのように。


 何処どこか遠くで流れる水の音。それが片岡には嫌ほど聞こえるが、反対に、女には少しも聞こえていなかった。

 くちびるを離したあとも、2人はしばらくのあいだ、抱き締め合うでもなく、ただ身を寄せ合っていた。触れ合うほほ。片方はけるように熱く感じていた。もう片方は粘土ねんどに触れているように冷たく感じていた。


「……ごめんなさい」


 女は言った。


「どうしてあやまる?」


「分からない」


 女は身を離すと、片岡の手を取り、指をからめた。指のあいだすべてをまで押し込み、少しの隙間すきまもなくなるように。からませるように、執拗しつように。そして、女はそのまま片岡の手を引き、小径の奥へと歩みを進めた。

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