1ー5
別にそれを意識したわけじゃないし、覚えようと思ったわけでもない。勿論、暑さとゲームのやり過ぎで頭がおかしくなったとか、そういうわけでもない。最近親がうるさいゲーム脳だとかなんとかでも。
『イオナズンを覚えた』という、その事実が当然のようにあって、ただそれを受け入れただけの話だった。
別に、何一つ難しい話はないんだ。蛹から羽化したばかりの蝶が、翅もなく地を這うことしかできなかったはずの彼らが、当然のように大空に羽ばたけるのと同じように。そして、木になっている熟れに熟れた林檎が地球の引力で地面に落ちていくのと同じように。
おんなじなんだ。歩けば、歩ける。喋れば、喋れる。なんてことはない、それらと同じように、ぼくは今この瞬間、イオナズンを使えるようになったんだ。
イオナズン。ドラクエのじゅもん。大量のマジックパワーを消費して大爆発を発生させ、敵全体に200から240のダメージを与えるイオ系の最上級呪文。ぼくが操作する勇者パーティもこの強力なじゅもんに幾度となく救われてきた。沢山のモンスターを蹴散らし、それなりに親しみがあって、そして頼れる存在。それが、イオナズン。
この世界には魔法なんてない。ヒットポイントやマジックパワーもない。魔物もモンスターもいない。ぼくは勇者でもない。それでも、ぼくがたった今覚えたのは、紛れもなくイオナズンだった。
もう一度、いや、何度でも言おう。ぼくは、イオナズンを覚えたのだ。
初めて見た大迫力の花火への興奮は、イオナズンを覚えたという衝撃にすべてかき消され、何処かへと消えてしまった。なにせイオナズンだ。ぼくはイオナズンを使えるようになったのだ。どうすればいいのか、どうするべきなのか見当もつかない。だって、親も先生も先輩も教科書も、誰からも聞いたことがないから。イオナズンを覚えたらどうすればいいのか、なんて。唯一その文言を見たことあるのはドラクエの攻略本ぐらいだった。
『イオナズンで魔物の群れを倒そう!』
スライムとは、青い魔物のことじゃない。スライムとは、ダイソーに売っている緑色のおもちゃのこと。そう、繰り返しになるけれど、この世界にはモンスターなんていないんだ。
放心して固まっていたら、肩にどん、と衝撃が走って我に帰った。誰かとぶつかったらしい。遠ざかっていく甚平姿の男の人に「チッ」と舌打ちされた。
「……」
衝動的に右手が上がる。手のひらが甚平男の方を向く。
ちょうどいい。
覚えたてのじゅもんを唱えるべく口を開いた瞬間、また背中に、どん、と衝撃。ぶつかった、というよりも思いっきり押されたみたいな感じ。倒れそうになったけれど、上げていた右手で欄干を掴んでなんとか堪えた。
「すいません!」
「マイ大丈夫? お兄さん、ごめんね」
さっきのカップル。見やると、彼女を先頭に後ろの方がドミノ倒しになっている。
「い、いえ。大丈夫です」
なんとか返事をしたけれど、すぐに人の壁ができてぼくの言葉は彼らには届かなかったようだった。甚平男の姿も、もう見えない。
花火が終わり、足が止まって散漫としていた人混みは一つの波となって大きく移動を始めていた。波の中で人々は彼方此方へごった返して混沌としている。遠くで列整備の警備員のホイッスルが鳴っているけれど、なんて言っているかはまるで分からなかった。
この無秩序な流れに飲み込まれたら最後、おそらく溝ノ口駅くらいまで拉致されてしまうだろう。ママチャリを止めた公園とは正反対の方向だ。とりあえず、今この一瞬だけはイオナズンのことを忘れよう。なんとしてでも公園の方に向かわないと。
そのあと結局ぼくは人の流れから抜け出すことができず、やっとの思いでチャリに跨ったのは最後の花火が打ち上がってから一時間以上も後のことだった。
イオナズン色の空の下で 松田 @matzda
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