第109話 火星の夜明け(最終話)
別れぎわ、僕は珠々さんに遥さんへのことづてを頼んだ。遥さんにはまだ借りがあったからね。とりあえず僕は遥さん用のマーズトークン(あえて言うなら、貨幣のようなものだ)を珠々さんに託した。
僕の計画はこうだ。僕は『センター』の追手から逃げなければならない。その追手は要するに、ひとつはビジネスリングで、もうひとつはそのビジネスリングが呼ぶ『犬』だ。
『犬』はビジネスリングが感知する生体反応が危険レベルであったり、消えたり(つまりビジネスリングを捨てて逃げたり)すると作動する。採掘作業のときはもちろん会社の登録した箱の中に『プログラム通りの時間』入っているから見逃されているわけだ。
夜、あの待避所で過ごしていた時間はどうしたかって? もちろん翌日の準備作業のためと言って池田さんが申請したのさ。僕は何と言ってもここでは、下働きをしなくちゃならない新人だからね……。
ビジネスリングは僕がどこへどう逃げようと、緊急網から消える前には信号を出す。つまり、ビジネスリングからは逃げられない。
……ここで一つの案が僕に浮かんだわけだ。もしビジネスリングから逃げられないなら、ビジネスリング『と』一緒に逃げたらどうなのか……?
ここで採掘場の環境が僕に味方した。採掘場には空気を送るポンプがあるけれど、それは途中で二手に分かれている、まるで逆さにしたFの字みたいにね。根元のところは、近場の空気調整池まで続いているはずだ。そして、僕たちがあの採掘場所である絶壁のところでFの字が途切れている。上が僕たちの歩く広い横坑、下が直径60センチぐらいの送風横抗だ。
なぜあの絶壁にまで空気を送ってるかって? ここで頭のカタいグンシンには感謝しなくちゃいけない。なぜなら、冷却服なんて馬鹿なものを支給したせいで、作業にならない上川さんたちが、勝手にあの横坑を引いたからだ。もしあの横坑がなければ、おそらく絶壁近くの温度は摂氏70度越えにまでなってしまうだろう。
僕はそれで、あの絶壁から落ちることにした。ビジネスリングが緊急網から消えてから、信号を発信するまでの時間は15分。エレベーターで降りるまで5分。(そのうち数分は緊急網と連絡がつくだろうからこれも余裕がでるはずだ)通路の横坑を絶壁まで行って4分、絶壁から採取用の鎖を固定するまでに3分、送風横坑に降りるまで2分ちょっと。(そもそもそれいじょう熱い鎖を握っていることはできないからね)つまりリングが『犬』をよぶまでには、数分余裕があるはずだ。
そして横坑から、『センター』のビジネスリングを絶壁の下、熱でリングが溶けるマグマの貫入クラックに落とすつもりだった。リングが消失すれば、『犬』には追いかけるための何の目印もない。
そして、なにより、マグマのたぎる場所には誰も近づけないからね。そうなれば僕がどうなったかも、リングがどうなったかも誰にも分からないというわけさ。
珠々さんはもうリングの情報を『センター』に持ち帰っただろうか。僕は計画を実行するのは今日しかないと思っていた。『センター』はたった数日でなぜ僕が採掘場を選んだのかを見破った。いまだって、僕にあるのはたぶんスピードだけだ。出来る限り素早くこのチェス盤から降りなくてはならない。
僕は計画を今夜実行しようとこころに決めた。
僕が支度をしていると、池田さんたちが僕の肩を叩いた。ビジネスリングが近くにあるから、誰も話しかけはしない。上川さんはいつもは片づける採掘用の鎖をそのままにしてくれているはずだ。
僕はこころを落ち着けるために、しばらく詰所の外に出た。もしもビジネスリングに僕の考えが読めるものなら、とっくに『センター』は僕を始末していたろう。
火星の谷から見える空には星が見えていた。ふたつのじゃがいもみたいな月がのんびり空に浮かんでいた。計画がうまくいったら、なんとしてもジーナを探さなければならない。……いまごろ怜はどうしているだろう。鳴子さんたちは元気だろうか。いつかまた会うことがあるだろうか。
僕は『センター』のビジネスリングを見た。それはなんのシグナルも出していなかった。僕の心拍数も体温も呼吸も異常なし、ということだ。僕は思いのほか平静だった。
やがて池田さんたちは家に帰り、詰所は僕だけになった。
午前1時まで詰所の椅子でそのときを待って、僕はついに計画にのりだした。ビジネスリングは何も知らず僕の右腕で冷たく光っている。
ぼろぼろのビジネスリング。君に手紙を送るための加速器。そしてトークンの形でとっておいた少しのお金。僕はそれを布で巻いて、自分の体に巻き付けた。採掘仕事の中で、ものを運ぶならこれが原始的だけど一番確実だと知ったからだ。
僕は最後に暗視ゴーグルと採掘用のアイゼンを身に着け、エレベーターへと向かった。エレベーターに乗り込み、どれくらいで緊急網から消えるかは未知数だ。降りること1分、ビジネスリングに変化はなかった。2分、地熱で温度が上がってきたが変化はない。
けれど数秒してビジネスリングがしゃべり始めた。
「連絡網から離れています、速やかにいまきた道を戻ってください」
エレベーターで下までつくのに残り三分。ビジネスリングは警告をしゃべり続け、エレベーターで採掘レベルについたときはけたたましいアラーム音を鳴らしていた。
僕は汗をぬぐいつつ、ビジネスリングの示す時計をみつづけた。採掘の絶壁まで歩いて4分。地熱のために体温を上げないように、僕はなるべくこころを落ち着けて、エレベーターを降りる瞬間、さいごの深呼吸をした。
僕が一歩をふみだしたとき、予想外のことが起こった。
エレベーターが僕を下したとたん、地上に引き返し始めたのだ。嫌な予感がした。
僕はなるべく急ぎ足で絶壁の方へ向かった。ビジネスリングはけたたましく鳴りつづけていて、それは横坑のなかで何重にも響いて聞こえた。僕はもういちどシャツで汗をぬぐったけれど、もうすでに薄いシャツは汗でぐちゃぐちゃだった。
「たった一枚でも違うもんだな」
僕は独り言を言った。自分の声で自分を落ち着かせるためだ。予定より20秒早く絶壁について、僕はゴーグルを通して絶壁から身を乗り出して下を見た。
送風横坑が黒く見えればよかったけれど、それは見えなかった。ただ、熱いマグマの熱が絶壁の下に白く輝いて見えた。
上を見上げると上川さんの残してくれた鎖が視界に入ったけれど、想像通り、それは地熱であつくなりすぎていた。僕はそれを下に繰り出した。残り一分数十秒。
少し冷えた鎖が下がったところで、僕は自分の体にそれを括りつけた。
重たい鎖を急いで投げたので、汗が噴き出す。早くしないと、エレベーターが地上から何を下して来るかわかったものじゃなかった。
そのとき僕は、いちばん聞きたくない音を聞いた。遠く岩盤上からやってくるサイレンだ。それは『犬』が放つ警告音だった。つまり、『犬』がここに向かっているのだ。
『犬』が起動するまでに想像以上にはやかった。おそらく珠々さんからデータを受け取ってすぐに『センター』はこの近くに『犬』を配備したんだろう。
そのサイレンに呼応するように僕のリングのアラームが叫んでいた。『犬』を呼んでいるのだ。
時間がなかった。僕は絶壁の下をのぞき込むと、鎖のもう一端を握りしめたまま、ひと思いに身を躍らせた。
僕の体は急激な落下のあと、まるで振り子のように絶壁の上を漂い、数秒後に崖肌に打ち付けられた。近くには送風用の横坑があるはずだったけれど、僕の視界に入ったのは絶望的な光景だった。
横坑は僕のぶら下がっているところより数メートルも上にあった。上川さんたちの掘った横坑は、採掘用の横坑と並行じゃなかったのだ。僕は落ちないように歯を食いしばって鎖にすがりついた。
「ちくしょう、『犬』が来る」
僕の耳には迫りくるサイレン音が響いていた。エレベーターが一度に降ろせるとしたら、二体が限界だろうか。そしてそれはあるときを境にこだまの様に重なり合った。『犬』が横坑に入ったのだ。この崖に『犬』が到着すれば、僕はレーザー銃によって殺される。
一刻の猶予もなかった。けたたましく鳴るリングをはずしてすぐに投げ入れなければならなかった。僕はリングの留め金に歯をかけて外した。けれど、ここでも予想外のことが起きた。いつも留め金を外せばすぐに外れるリングは、もうどうしても外れなかった。
『呼子』は獲物からはずれたらいけないのだ。アラームが作動するときにはロックがかかるのだろう。僕は手が焼けるのを感じながら上を見上げた。はたしてそこには、もうすでに『犬』が到着していた。四つ足のロボットだ。『犬』は崖の上でうまく重心を移動させながら、僕の方に照準を合わせようとしていた。
僕は賭けに出た。『犬』がぎりぎりまで身を乗り出したしゅんかん、僕は岩肌をけって空中に飛び出した。『犬』はギリギリの重心位置で身を乗り出したところへ、照準が移動してバランスを崩した。支えを失った一本の足のぶんを三本の足はもう支えきれなかった。
『犬』はレーザーを発射するのと同時に崖下に吸い込まれていった。
サイレンの数は減った。上を見上げると、まだ一体がまた同じように僕を狙おうとしていた。他にやりようがなかった。僕は右の手首を鎖に絡めると、何度か同じように壁をけった。無我夢中で。さっきと同じようには『犬』は落ちてくれない。
けれど、何度目かで鈍い音をたてて手首が外れた。僕はしめたとばかりにすぐに鎖を左手で握りしめて、鎖を右手から外した。
『犬』はまるでダンスを踊るように重心と照準を調整している。
僕は『犬』をにらみつけながら、ぶらぶらしている右手から首と顎を使ってビジネスリングを抜いた。そしてついに狙いを定めた『犬』を見つめたまま、リングをつま先で崖下へとけり落した。
『犬』はレーザーを放った。けれど、それは僕にじゃない。落ちていくリングに、だ。リングのアラームは崖にこだまして、やがて数秒後に沈黙した。
『犬』はアラームが消えた瞬間に、サイレンを消し、その動きを止めた。そしてその場にうずくまった。僕は限界を迎えた左手で、それでもなんとかして体を持ち上げなければならなかった。
大きなうなり声をあげながら、僕は左手で鎖を手繰り寄せた。鎖はとっくにひどい高温になっている。僕はアイゼンを岩肌に食い込ませながら、まるでのたうつ虫のように一歩一歩を登っていった。
ようやく僕は送風横坑にたどりつき、そこに身を横たえた。しばらく涼しい風の中で、僕は肩で息をしていた、右手は使えず、左手は腫れあがり、いつの間にか顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
だけど僕は生き延びた。
僕は一時間ぐらいそこでノビていて、地上からくる夜風に元気をとりもどすと、送風横抗を四つん這いでたどっていった。明け方近く、僕は大気調整池にいた。
僕の目の前に、火星の赤い砂漠がどこまでも広がっていた。空が赤く染まり始めた。太陽が東の地平線に姿をあらわした。
新しい一日の始まりだった。
第一部 サラリーマン亘平篇 了
ネコカイン・ジャンキー!〜サラリーマン亘平編〜 スナメリ@鉄腕ゲッツ @sunameria
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