夏の話

真夜中にコップ一杯水を飲む崩したくない日常がある


 河鷺町には田畑と山しかない。見渡す限り、緑! 茶! 緑! で、目に優しそうな景色が広がっている。コンクリートもあるにはあるが、その大抵が廃れていて、蔦や蜘蛛の巣だらけだ。学校は、廃校が決まった中学校と、少人数ながら潰れていない保育園と小学校がある。会社は無い。バス停はある。駅は無い。電波はある。

 田舎といっても、電子の海はあるのだ。中学二年の夏、私は柚香に連れられてそこへ入った。ゼロとイチとエヌが羅列する海は、思っていたよりずっと簡単だった。浮き輪が要らない。クラゲの心配も無い。そのうち、私は一人でも電子の海を泳ぐようになっていった。

 柚香に誘われて、私はブログを開設した。電子の海に初めて建てた、私だけの海の家だ。ブログタイトルは、迷いに迷って、お洒落だからという理由で英語にした。記事の内容はいたって普通の、私の日常を綴っているというもの。絵を描けば写真を撮って載せ、棒アイスの当たりが出れば写真を撮って載せた。誰にも興味を持たれないであろうそれら全てを、柚香だけはいいねを押し続けてくれていた。私も、柚香の記事には殆どいいねを押した。私たちは守り合っていた。それは、貝殻のように。

 それから一年経っても、私たちはブログを続けていた。電子の海で出会った友達も増え、遊泳生活は去年よりもずっと楽しくなった。受験勉強の合間に泳ぎ、息継ぎの間に受験勉強をしていた。

 ある日、電子の海で出会った、いわゆるネッ友同士で遊びましたという記事を見かけた。その二人は同じ年齢で、住んでいる場所も近いらしい。記事には、顔をスタンプで隠したプリクラが載せられていた。ピンクのネオンペンで「ズッ友」と落書きされている。素直に、いいなぁ、と思った。

「雫には私がいるじゃん」

 羨ましい、と呟いた私に、柚香がそう言う。受験勉強の休憩中だった。柚香と私は同じ高校を志望している。私がいるじゃん、という言葉が耳の奥でぐるぐると回る。私たちはズッ友、ずっと友達、なのだろうか。

 少し前までショートカットだった柚香は、伸びてきた髪を一つ結びにし、結びきれず頬に垂れてきた束を耳にかける。その動作に、保健を習ったばかりの男子中学生のような情動を覚えた。

 ズッ友は、窮屈な言葉だ。

 せめて私が本当に男子中学生だったのなら、この衝動を、どこかに発散できたのかもしれない。

 柚香がシャーペンをくるくる回す。柚香が口付けたコップには、麦茶が入っている。水滴と唾液と麦茶が混ざり、部屋の湿度が高くなる。私は女子中学生だから、これを発散する術も、これを伝える術も無い。あるかもしれないけれど、私には無いのだ。

 そこまで考えて、私は口を尖らせて言う。

「えー、うーん、まぁ、柚香でいいよ」

「なにそれ」

 柚香は笑って、付け足した。

「私は雫がいいのに」

 私も柚香がいい、とは言えなかった。

 冷房がついていても、八月の柚香はあつい。首を伝う汗を拭いながら、私たちは再び問題集に向き合う。

 柚香の首にも汗が伝う。私は頬にもその感触がある。それが本当に汗なのかは確かめないで、手で、ぐい、と拭った。

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なにもしない日 橘 春 @synr_mtn

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