思い出は美しいから
モトカレを亡くした女の子を好きになってしまった。私至上最難関の恋である。どうして最難関なのかというと、問題は大きく分けて三つある。
一つ目は「思い出は美しい」こと。二つ目は「死人は生き返らない」こと。そして三つ目は「私は女である」ことだ。二十歳になってはじめての恋がこれほど絶望的だったなんて、十九の私は思いもしなかった。
美和は今日も泣いている。泣きたいのはこっちだよ、と思いながら、美和の爪先から頭のてっぺんまでをなぞるように見る。目が行くのは、やはり彼女の瞼だった。
美和の瞼の海は深い。砂浜と海までの距離も長く、平行で、昼夜を問わず眩しい。大粒の貝殻は終電間際でも輝いている。桃の花のような色の夕焼けが沈む。私はその光景をありありと想像できる。
ベージュのシャツに細い涙が染みてゆく。五分丈からすらりと伸びる白い腕には、くすんだ噛み跡が残っている。モトカレがつけたものを、治らないように美和が噛み直しているらしい。形見を大切にするようなものだよ、と美和は笑った。
間接キス、ならぬ、間接噛みだ。その話をはじめて聞いたとき、私は消化できない感情を覚えた。美和を好きだと気付いてしまうよりも、その話を聞いた方が先だったのに。
しかし、美和は何度も同じ話をする癖があった。美和を好きになってしまってから今まで、私は自分の年齢よりも多くその話を聞いた。
今では慣れたものだけれど、二回目のそれは酷かったのを覚えている。消化できず、名詞化すらできなかった感情が、あのときの何十倍も何百倍も大きくなって私の血管を回る。眩暈がするほどの嫉妬だった。
あ、私も噛みたいんだ。
それに気付いたのは、美和と別れて、眩暈がおさまってからだった。八月の夜のべたついた空気が私を纏う。その痛みの正体をはじめて知った帰路だった。
なるほど、と腑に落ちてから、気付かなければよかった、と後悔した。病気以外で胸が苦しくなるなんて、ただの比喩だと思っていた。
手当のように、美和とのメッセージのやり取りを見返す。猫のスタンプ。ハートの絵文字。笑顔の顔文字。それだけで、私の肺は柔らかさを取り戻した。自分の単純さに漏れた浅いため息が、熱を帯びていた。
家路を辿る道で、家々から溢れ出す生活の匂いが鼻に入り、何故か寂しくなったことをよく覚えている。
それからの日々は、並大抵の地獄ではない。泣き出す美和を宥めながら、心の奥で泣いている自分も慰める。泣きたいのはこっちだよ、と思いながら、共倒れにならないよう笑顔を保つ。
そのような毎日で、唯一私の救いであったのは、美和の一言だった。
ひとしきり泣いたあと、美和は必ず私の手を握り、泣いたあと特有の目でこう言う。
「葵だけだよ」
美和の手から私の手へ、熱が伝う。いやだ、聞きたくない、いやだ、と思っていても、最後には美和のてのひらに落ちる。言葉通り、私は美和の特別だった。
リップクリームでぷっくりと保湿された唇が、あおいだけだよ、と動けば、私はそれだけでよかった。全部欲しいのに、何もいらない、と思ってしまう。美和の唇が動く。何もいらない。
美和は今日も泣いている。モトカレとの最後のデートの話をしながら、わんわんと、無防備に、私の部屋で、強くもない酒をあおっている。
お揃いで買ったらしいキーホルダーの片方を、美和が私の前に垂らす。デフォルメ化されたエンゼルフィッシュだ。口を開けて笑っている。人間みたい、と呟くと、美和は一瞬泣き止んで、また酷く泣きはじめた。嗚咽と入り混じる美和の言葉を聞く。どうやら、私とモトカレが同じことを言っていたらしい。
ひとしきり泣いてから、美和は口を開けた。むわっ、と、いやに甘い桃が部屋中に広がる。
「葵だけだよ」
齧りつきたい唇が、動く。
私はそれに頷いて、ここからは妄想だけれど、美和を抱き寄せる。美和は、もう充分頑張ったよ。一生分彼を愛せたよ。だからさ、もう、私にしない? 私にしようよ、と言いながら、頭を撫でる。美和は先ほどとは違う、温かい涙を流しながらこくりと頷く。これは私の妄想だけれど。
そういうことを考えていたら、自然と、美和の方へ腕が伸びていた。しかしそれは美和には届かず、ごつん、と桃の缶チューハイに当たって、倒れた。
チロチロとアルコールが流れ出ている。慌てて鞄からハンカチを取り出す美和とは対照的に、私はぼんやりとそれを眺めていた。缶チューハイのよだれだ。美和が口づけていたから、きっと、美和の細胞も混ざっているだろう。
勿体ないな、と思う。それも、美和も、モトカレも。
私は呟く。
「いつ、全部忘れるの」
ウェットティッシュで床を拭いている美和には、聞こえていないようだった。
美和は今日も泣いている。今日は、モトカレの平熱のことだ。泣きたいのはこっちだよ、と思いながら、美和の話に相槌を打つ。モトカレは子ども体温で、どうやら私も子ども体温で、私の二の腕に触れたとき、それを思い出してしまったらしい。
うん、うん、と言いながら、私は自分の二の腕を触る。熱いのか、冷たいのか、よく分からなかった。
美和は今日も泣いている。今日は、モトカレのスマホケースのことだ。泣きたいのはこっちだよ、と思いながら、美和の話に相槌を打つ。モトカレは紺の手帳型のスマホケースを使っていたらしく、私が買い換えたスマホケースにそっくりだと言う。
そっか、そうだったんだ、と言いながら、スマホケースを見遣る。どこにでもあるだろう、こんなもの。投げ捨てたい衝動を抑えながら、百均で新しいスマホケースを買う。明らかに男性が買わなさそうなものを選んだ。
美和は今日も泣いている。美和は、今日も私をモトカレに「似ている」と言う。美和は今日も泣いている。私は、美和の傍にいない方がいいのではないだろうか? と気付きそうになりながら、蓋をした。葵だけだよ、と言われながら、離れられるはずがなかった。
そうやって美和がモトカレを思い出すたび、月日は経つ。月日が経つにつれ、美和は今を楽しむようになってきた。もう美和は泣かない。私を見て、私自身を見てくれる。もうずっと、美和は笑っている。噛み跡も、もうない。
ただ、思い出は美しいから、美和の中でモトカレは美しいままだ。死人が生き返ることはないから、モトカレは一生幻滅されることはないし、美和の中で美和の理想を保ち続けている。
私はといえば、女だから、美和の彼氏になることはない。あるかもしれないけれど、私と美和にはない。それは少し、いやかなり、どうしようもなく悲しい。
美和は今日も笑っている。けれど、思い出は美しいから、ふとそれを思い出したときの瞼は、世界のどんな絶景よりも美しくなる。私はそれが、私ではそうさせられないのが、どうしようもなく、悔しい。
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