第4話

 その夜は珍しく、彼女が遅れてやってきた。ベンチに座ったまま手を振れば、公園の入り口の段差を駆け下りて、彼女もまた大きく手を振り返してくれる。公園の内の電灯は向こうの角に一つきりで、夜闇を明かすには足りない。だから彼女の異変に気づいたのは、満天の星明かりが彼女の表情をぼんやりと浮かび上がらせた、そのときだった。その頃には少し手を伸ばせば届くような距離に彼女は迫っていて、しかしそれ以上近づくことを躊躇うみたいに、ひとつふたつ歩調が淀み、やがて立ち止まった。

 彼女は眉根を寄せ、唇を噛み、涙を堪えるためにか目を眇めて、悔しげに立ち尽くしていた。片手に持っていた煙草の箱は握り潰されてくしゃくしゃになっている。おおよそ尋常の様子とは思われない。夜に待ち合わせるときの彼女は、いつだって気怠げに笑んでいたものだ。

「どうしたの」

 僕は慌てて立ち上がった。横から彼女の顔を覗き込むが、彼女は俯き地面を見つめるばかりで、固く引き結ばれた唇が開かれることはない。お昼の出来事が脳裏に蘇る。あのときは何もなかったと言っていた彼女だが、やはり何かはあったということなのか。

 これまで僕たちは幾つかの言葉を交わしてきたけれど、大事なことは、こと自分の気持ちに関することは、いつだって口が重たくなるものだった。それはお互い様だったが、こういうとき、うまく水を向けてやれない自分がもどかしい。

「とりあえず、座ろうよ」

 一歩脇へ避け、片腕を広げて彼女をベンチへ促す。しかし彼女は小さく首を振ってこれを断った。次いで僕を見上げたが、その顔はまるで怒っているようで、睨みつけているようで、見慣れぬ彼女の表情に僕は言葉を詰まらせてしまう。

 彼女はぶっきらぼうに言った。

「抱きしめて」

 唐突に過ぎるその言葉に、束の間理解が追いつかなかった。

「早く」

「ん、うん……」

 急かされて、恥ずかしがったり躊躇ったりする余裕もなく、慌てて彼女の体に腕を回した。線の細い肢体は今にも折れてしまいそうで、怖々と触れたのだが、彼女に「もっと強く」と命ぜられ、ぐっと力を込めた。お昼と同じ轍を踏むまいと思いつつも、やはり力加減はわからない。意図せず鼻を埋めてしまった彼女の髪からは、うっすら煙草の匂いがした。道中で吸っていたのだろうか。

 強ばっていた彼女の肩から徐々に力が抜けてゆく。同時、僕の理解も追いついて、否応にも緊張した。彼女が望む以上、離れる選択肢など持ち合わせていない。それで彼女が笑ってくれるなら、いつまでだって抱きしめていよう。だが、僕の経験の浅さは如何ともしがたかった。

 ふふ、と彼女が笑う。

「すっごいドキドキしてるね」

「わかってるから、言わないで……」

「あはは。でも、ごめんね。もう少し、このまま」

「うん」

 声音はいつもの調子を取り戻していたが、なんとなく彼女は今、泣いているのではないかという気がした。微かに漏れ聞こえてくる呼吸が震えている。安心してくれ、僕はここにいるから。そっと彼女の背を撫でてやる。彼女は額を僕の胸に押しつける。

 そのうちに、彼女が身動ぎをした。また息苦しくさせてしまったかと腕を解こうとしたのだが、だめ、と彼女が短く言った。だめ、そのまま聞いて。

 しかし彼女は、なかなか言葉を継がなかった。深まる秋を知らせるように、冷たい風がひゅるりと抜けていく。僕は掛ける言葉も見つからず、震える彼女の身を抱きしめていた。

 やがて、溜息に乗せるようなか細い声で彼女は言った。

「ママね、結婚するんだって」

 声は落ち着いていたが、むしろそれだけに僕は咄嗟に言葉が出てこず、返答に窮する。気にした様子もなく彼女は続けた。

「それは別に、いいんだけど。いつかすると思っていたし、彼氏はいい人だしね。全然いいと思うわけ。今日一日でだいぶ気持ちの整理もついたし」

「……うん」

 一日で、ということは今朝それを告げられたことになる。昼間の件はそれが原因か、と気づいたが敢えて触れようとは思わなかった。

「うん。でも、それだけで、わたしが夜に出掛けるのを止めるのは違うと思うわけですよ」

「止められたんだ」

「そう」

「無理に出てきた?」

「そゆこと」

 言いながら彼女は顔を上げた。間近に迫る彼女の顔は、悪戯っぽく笑んでいた。ようやく見られた彼女の笑顔に、自然と僕も笑顔になった。堪らない気持ちになって、いっそう強く彼女を抱きしめる。わっと驚く彼女の息遣いが耳元で感じられたが、すぐにそれも笑いに変わった。

 彼女の顔を見たくて身を離す。そのときには、彼女も抵抗しなかった。僕があんまり雑に抱きしめていたものだから、彼女の髪がぼさぼさになっている。だからそっと手櫛を通してやった。なんだか僕は胸の内に不思議な火が灯っているような気分で、その火が僕の行動を大胆にさせていた。

 彼女は明るい声音で、ちょっと皮肉っぽく続ける。

「もともとお前たちの所為なんだぞ、って。お前たちと同じで、わたしにも会いたい人がいるんだぞ、って。言ってやったの。久しぶりにママと喧嘩しちゃった」

「そ、っか」

 その会いたい人というのが僕であることに今さら疑う余地はなく、衒いのないその言い方に耐えられずに僕は顔を逸らしてしまった。頬や耳が熱くて仕方ない。彼女はけらけらと笑って僕の胸を押しやった。ひとしきりのやりとりのあと、僕たちはどちらからともなくベンチへ腰掛ける。あれだけ抱きしめた後だというのに、座るときの互いの距離は変わらなかった。だが、この距離感が僕にはとても心地よく思われた。

 星を見上げ息を吐く。そよ吹く風が首すじを撫ぜて、僕の内に溜まった余剰の熱を流してゆく。隣では、カチリとライターが鳴って、ふわり紫煙が漂った。

 しばらく僕たちはただ星を見上げて言葉も交わさずにいた。気まずいばかりだったはずの沈黙が、今は不思議と安堵を感じさせるのだった。

 そのうちに、ぽつりと彼女が言った。振り向けば彼女は一本目を吸い終えて、灰皿へ捨てているところだった。

「ほんとはね、少し後悔しているんだ」

「ん、後悔……?」

「そ。ママもママの彼氏もね、悪気があったわけじゃなくて。家族になるから一緒にいる時間を作ろうって、そう言ってくれただけだったの」

「そう、なんだ」

「今までごめん、って。ありがとう、って。ちゃんと言ってくれたし。ほんとなら、わたし怒るべきじゃなかったんだけど」

 二本目を取り出さず、彼女は自分の膝を抱え込んだ。膝頭に片頬を乗せて僕へ顔を向ける。彼女は浮かない顔をしていた。

 僕は迷いつつ問う。こういう言い方では正論を突きつけるだけだと思いつつ、他に言葉も思いつかなかった。

「心配しているんじゃないの、お母さん」

 む、と彼女は唇を尖らせた。幼い子どものするように、すねた顔をしてそっぽを向いてしまう。

「わかってるよ。でも、君はいいの? わたしもう、ここに来られなくなっちゃうんだよ?」

「それは、寂しいけれど。でも、家族は大事でしょう」

「もう会えなくなっても、いいんだ?」

 その口ぶりは芝居がかって見えて、それでいてかなり真剣な言葉であるように聞こえた。彼女が僕と会いたいと思ってくれている。その事実がくすぐったくて、僕は笑みが込み上げた。それを見た彼女がますます面白くなさそうな顔をする。

 イジワル、と彼女が僕の肩へ拳をぶつけてきた。痛いっ、と僕は大袈裟に反応してみせる。彼女が会いたいと言ってくれるのだ、ここは一つ、僕も恥ずかしさを圧して勇気を出そう。

「ねえ、知っているかい?」

 指を立てて彼女に問う。もったいつけた言い回しになったのは、単に恥ずかしかったからだ。

「僕たちは、クラスメイトなんだよ。学校で幾らでも会えるじゃないか。放課後だっていい。休み時間だっていい。学校に拘らなくても、休日の昼間に会ったっていいんだ。会おうよ。話そうよ。僕も君と話すのは、とても好きなんだ」

 とてもじゃないが口慣れない台詞の数々に、苦笑いで口角が引きつれるのを自覚するが、それでも僕は彼女から顔を逸らさなかった。

 彼女は目を丸くして、ぱちくりと瞬きをした。次の瞬間、薄暗がりでもわかるほど、ぽっと彼女の頬が紅潮する。そっか、そうだよね……。彼女は幾度も頷いていた。やはり慮外にあったらしい。僕たちは、理由もないのにこの夜の時間だけに拘りすぎていたのだ。でも、会いたいなら、そう思ってくれるのなら、僕たちはとても簡単にそれを叶えることができる。ちょうど今日の昼休み、他ならぬ彼女がそうしてくれたように。

 へへへ、と彼女ははにかんで、抱えていた膝を解いた。胡坐をかいた足首に両手を置いて前後に揺れる。顔は俯けていたが、そこには笑みが浮いていた。僕も今更いたたまれないほど恥ずかしくなって頭をかく。

「よし、そうなれば、ママに謝らなくちゃ」

 彼女がふとそう宣言して、ぱっと立ち上がった。未だ片手にしていたくしゃくしゃの煙草の箱を、設置されたゴミ箱目掛けてぽいっと放り投げる。過たず、それはゴミ箱へと吸い込まれていった。

 呆気にとられていた僕へ、彼女はすっと片手を伸ばす。戸惑いつつそれを僕も片手でとれば、彼女は繋いだ手をぐいっと引き僕を立ち上がらせた。

 満面の笑みで彼女は言う。

「善は急げ、ってね。また明日、夜を待たずに会えるのなら、今晩はもう帰ろう」

 手を繋いだまま、彼女は公園の出口へ歩き出す。僕はつんのめりながら彼女へ追いすがって後ろを振り返る。

「煙草、よかったの? あれ、お母さんの彼氏さんの、なんでしょ?」

「いいのよ。もう中身がくしゃくしゃだし。今日のことで、煙草吸ってるのバレちゃったから、こそこそもとに戻す必要もないし。これを機に、新しいパパには禁煙をしてもらいましょー」

 もともとわたし、煙草ってそんなに好きじゃないの、と彼女は笑った。

 彼女がそう言うのなら、それでいいけれど。僕はこのうえ口にすべき言葉もなく、彼女の隣に並んで歩くことにした。行く先の少し上に視線をやれば、眩いばかりの星空がどこまでも続いている。彼女も空を見上げて、「綺麗だね」と呟いた。

 彼女と二人で見上げる星明かりも、僕の隣で揺れていた煙草の火も、おそらく今日で見納めだ。けれども未練はちっともなかった。これからはいつだって彼女と会える。これ以上望むものなどどこにあるだろうか。

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星明かりと煙草の火 茶々瀬 橙 @Toh_Sasase

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