睦月初めの半年後

 がちゃん、がちゃん。台所の方から聞こえてきた大きな音に、皐月さつきは膝に落としていた瞳を上げた。陶器の皿とシンクとがぶつかったのだろう――音から判断するに、割れはしていないものの、きっと端が欠けたりしているに違いない。膝の上に広げたシャツを畳みながらも、皐月はこっそりとため息を落とす。けれどそのため息は、呆れというよりは苦笑にも似たもの。小さな子供が一生懸命、両親の手伝いをしているのを見守っているときのようなそれ。

 ――慣れないことしたりするから、もう。

 次に聞こえてきた音から推理すると、どうやら皿は一通り洗い終えて、鍋に取りかかり始めたらしい。必死で洗い物と格闘する夫の姿を想像しながら、皐月はくつくつと小さく笑みを零した。その笑い声が向こうに聞こえたらきっと、啓一郎けいいちろうは機嫌を悪くするだろう。だから、決して台所には聞こえないように、そっと小さく小さく、だ。

 啓一郎がこうして、少し早めに職場から帰って家事を手伝うようになってから日は浅い。せいぜい二週間前、というところだ。

 それより以前、高校で教師をしている彼は、その生真面目な性格もあってか、とにかく帰りが遅かったのだ。担当授業の予習に、試験の作成、他教師との打ち合わせ、担当クラスの子供たちの指導。それに合わせて部活や委員会の顧問。皐月からしてみれば、少しは手を抜いてみたって良いんじゃないの、というところなのだが、夫からしてみればそれは言語道断なのだろう。自分が受け持っているものに一つ一つ、丁寧に、熱心に取り組まなければ気が済まないのだ。――結果、学校からの帰宅は連日夜が更けてからとなって。自然、家事は皐月一人で行っていたのだった。

 それが変わったのが二週間ほど前のことだ。

『――皐月。出来る限り、洗い物は僕がやるから』

 久々の早い帰宅と共に、啓一郎が告げた言葉。その宣言通り、彼は以前よりもずっと早い時間に帰宅をしては、夕食の洗い物を一手に引き受けるようになったのだ。その変化の理由は皐月には分からない。けれど。まあ、理由はおいおい聞けばいいか、と。皐月はそう結論付け、啓一郎にその理由を問うてはいない。

 だって――この二週間ほど、いつも心の中がほわりと暖かいのだ。心の中を埋めていた寂しさが減って、代わりに嬉しさが灯りを点したかのようだった。理由はともかく、夫と一緒に居られる時間が増えたこと、それが皐月は純粋に嬉しい。だから変化の理由なんて、後から聞くのでも全然かまわない。そう考えていたからだった。

 水道の蛇口を閉める音がした。終わったのかしら、と瞳を上げれば、居間へと足を進める啓一郎と視線が合った。皐月がありがとう、と微笑むと、啓一郎はちらりと視線を逸らす。その耳がこっそりと赤く染まっているのに気付いて、皐月は思わず噴き出した。

「……何だ皐月、笑ったりして」 

「ごめ、だ、だって、あなた可愛いんだもの……っ」

 眉を潜めながら啓一郎が問うて来るのに、皐月はごめんごめん、と笑い混じりで謝った。

「男の僕を可愛いだなんて……全く不思議な感性を持っているんだな」

「そんなこと、ないと思うけどなぁ」

「……まあ、そんなこと、いい。手伝う」

 視線の先の夫はやはり照れているのか、耳元だけでなく、うっすらと頬まで染まっていた。そんな自身の様子を分かっているのか、啓一郎もこれ以上この話題で会話を続ける気はないようだ。強引に会話を終わらせ、皐月の隣に座り込んでは洗濯物を畳み始める。――これもまた、今までは無かったことだ。

 ぷかり、と胸の中に浮かび上がる、暖かな灯りのような気持ち。それは胸の中、心の中から照らしだし、幸せという光で全身を照らし出す。

 皐月は胸元をそっと押さえると、右隣の啓一郎の肩へ頭を乗せた。口元に浮かぶ笑みもそのままに、ねえ、と問いかける。

 ――もうそろそろ、聞いてみてもいいかな。

「何だ?」

「……聞いてもいい? 嫌だったら、答えなくてもいいから」

「だから、何を」

「どうして、変わったの?」

 皐月は視線を上げ、啓一郎のそれと重ね合わせた。

「最近、前よりもずっと早く家に帰ってきてくれて。こうやって一杯、手伝いをしてくれるようになったじゃない? 仕事の量は前と変わってないんでしょう? なのに何でこんなにしてくれるのかな、って……もし、何か理由があるなら、教えて欲しいって思ったの」

「――どうして、って、皐月……」

 啓一郎は肩に乗せたままの皐月の顔を、不思議そうな瞳で見つめてきた。理由を問う、それ自体が理解できない、そう言いたいかのような表情に、皐月は唇を尖らせる。

「ちょっと、啓一郎さ」

「……父親になるんだから」

 ――だけど、始めるのが、遅くなって、ごめん。

 啓一郎は気持ちを隠すかのように小さな声で呟いたが、皐月の頭を肩に乗せた状態ではその意味を成さなかった。皐月の耳は彼の唇のすぐ近くにあるのだから。

 ――そうだったんだ。

 皐月はぎゅう、と瞳を強く閉じる。啓一郎の言葉は小さな、小さな声で呟かれたものだったが、皐月の耳から胸の奥へと滑り落ち、心の中で赤々とした炎となって燃え出すかのようだった。幸せで既に身体が暖かく照らされているというのに、更に炎がそこに灯って――溢れだした熱が、そのまま雫となって瞳からこぼれ落ちてしまいそうだ。啓一郎の肩に乗せていた頭を肩から外すと、皐月は代わりに彼の背中へと顔を押し当てた。

「……おい、皐月」

「ちょっとだけ、こうさせて」

 皐月は啓一郎の背中に、ぎゅう、と一層強く顔を押し当てた。泣いたらだめだ、と思うがどうしたってそれは止められそうになくて。じわりと彼のシャツが濡れてゆく。啓一郎もその感触には気付いているだろうが、そっとため息を一つこぼしただけで、それ以上皐月を咎めることはない。

 閉じた瞳で視界が闇に染まる中でも、顔を押し当てている彼の背中がゆっくりと動き続けるのを、その感触で皐月は知る。一枚一枚、ゆっくりではあるが、洗濯物を畳んでくれているのだろう。

 皐月は彼の背中に押しつけていた顔を浮かし、唇を開く。

「啓一郎、さん」

「……うん?」

「ありがと。そういう風に、ちゃんと、思っていてくれて、嬉しい。……だって、やっぱり、寂しかったから」


 皐月が自分の妊娠について、啓一郎に話したのは、十一月の頃だった。言葉を告げたとき、普段の真面目で堅いそれとは打って変わった、驚きと喜びの色で彼の表情は染まって。ありがとう、と何度も皐月に繰り返していた。だから、啓一郎がこの妊娠を喜んでいることは皐月にも分かっていた。

 けれどその一方、妊娠したと告げてもそれまでと変わらない、仕事中心、遅い時間に帰宅してばかりの啓一郎の様子に、皐月は寂しさを覚えてもいた。皐月自身は、啓一郎のそうした生真面目さや不器用さに惹かれて結婚したのだし、仕事に打ち込む彼に対して尊敬の念も抱いている。けれど、一人で家に残され、なかなか帰ってこない夫のために夕食を作ったり、平日ほとんど会話が出来なかったり――そんな日々が寂しかったことも、また事実だったのだ。

 ――子供が生まれても、こうやって一人で全部やっていかなきゃいけないの、かな。

 仕事に追われ、忙しそうな啓一郎の姿を見るたび、皐月はそんな思いに駆られた。啓一郎に向かって口を開けば、棘だらけの言葉を際限なく吐き出してしまいそうで、何度それを飲み込んだことか。

 私一人でも頑張らなきゃ。――そう思うも、胸の中に広がる寂しさをなかなか止めることは出来なくて。もう少し一緒に居たい、もう少し一緒に子供のことについて話したい。そう告げようと、思った矢先のことだったのだ。啓一郎の帰宅が早くなったのは。


「……悪かった」

 ゆっくりと動き続けていた啓一郎の背中が、その動きを止める。次いで響いた彼の声は微かに揺れていて、謝罪の言葉が本心から湧き出たものだと告げていた。

「本当なら――皐月が妊娠を教えてくれた後すぐに、家に出来る限り居るようにすべきだったのかもしれない。……だけど、仕事を中途半端にするのはどうしても、自分で許せなかった。父親になるんだから、余計、仕事を一生懸命にこなさなくちゃいけないとも思った……けれど」

「けれど?」

 自分自身の気持ちを語ることに慣れていないのだろう。啓一郎の言葉は、ぽつりぽつり、と途切れては空気に散らばる。皐月は空気に散った彼の言葉を集めては、心の中に収めていく。――こうして、慣れていないことをそれでも、あえてやろうとしてくれる気持ちが嬉しい。だから、その気持ちを、言葉を全て逃さず覚えておきたかったのだ。そして、そっと。啓一郎の次の言葉を促した。

「けれど。職場で、子供を持っている他の先生達の姿を見ていて――そして、何よりも生徒たちの姿を見ていて。何か違うんじゃないかって思ったんだ。……仕事だけじゃ駄目なんじゃないかって」

「家のこともやらなくちゃ駄目だ……って?」

 啓一郎は皐月の言葉に頷いた。

「他の先生たちは仕事をしながら、でも、家庭で何かあったら、家庭もちゃんと優先させているし。それに生徒たちの話を聞いていると、家庭を顧みずに働いてばかりの親に対して、寂しさとか、時には苛立ちを、子供たちが抱いてるって、改めて知らされて。――このままじゃあ、僕も、そんな、子供に寂しい思いをさせる親になってしまうんじゃないか。そう思ったんだ」

 そこで言葉を切ると、啓一郎は床へと下げていた頭をゆるりと上げた。そして半身だけ皐月へと向き、視線を寄越す。皐月がその視線に自分のものを絡めると、啓一郎は眉を下げて――まるで泣きそうな表情を浮かべた。普段見せない彼の表情に皐月は息を飲む。

「……っ、けいいち、ろう、さん?」

「――だから、自分なりに駄目だって思って――こうやって手伝いを始めたけれど、皐月に一つ一つ教えてもらわなくちゃ家事の一つも満足に出来なくて。その上やっぱり、君に寂しい思いをさせていたんだなって思うと、何だか情けなくて。――本当にごめん、今からでも間に合うかな。父親として僕は……上手くやっていけるだろうか」

 絞り出された言葉、その最後の方はかすれていた。啓一郎は瞳を半分伏せて、唇は軽くかみしめている。床の上で握りしめられた拳は、何かを必死で耐えているようでもあった。

 ――ごめんね。

 弾かれたように、皐月は床の上の啓一郎の左手をすくい上げると、両手で包み込む。きゅう、と優しく、そして強く。自分の掌の暖かさが、彼の掌にも伝わるように。啓一郎が伏せていた顔を上げ、半身だけでなく、全身で皐月の方へと向き直った。

「皐月」

「……ごめん、私こそ……ちゃんと、聞けば。そして、言ってれば、良かった。こうして欲しい、とか。どう思ってるの、とか。ちゃんと言えば、ここまで啓一郎さんが一人で悩んだりすることもなかったね」

 包んだ掌を自分のそれごと額に当てた。瞳は閉じているが、啓一郎の掌が皐月の両手の中でそっと震えるのが分かる。

「――大丈夫だよ。そんなに悩まなくても、啓一郎さんはきっと、良いお父さんになれると思う。だって、こんなに沢山、ちゃんと考えてくれてるんだもん……子供にそれが、伝わらないわけ、ないよ」

 考えながら紡いだ言葉は、ゆっくりと祈るかのようなそれとなった。皐月はそっと言葉を切ると、額に押し当てていた両手を開き、啓一郎の左手を彼の膝元へと戻した。そして、微笑む。

 ――ありがとう。

 そんな思いを笑顔に添えて。

「言葉も足りてなくて。一人で不安がってるようじゃ、私も良いお母さんになんて到底なれないかもしれないけど。……でも、一緒に、頑張ろう? 子供が産まれるまでも、その後も」

「――ああ、そうだな」

 皐月の笑顔につられたように、視線の先で啓一郎が笑みを唇に刷いた。さっきはどこか辛そうに寄せられていた眉間も緩み、目元に小さな皺が寄る。

 ――ああ、そうだ。もう一つあったっけ。

 啓一郎の笑顔を見つめながら皐月は思う。彼の真面目さや不器用さの他に、もう一つ。彼との結婚を決めた理由があった、と。

 普段は堅く張りつめたような表情が、ぎこちなくも、そっと笑む瞬間。冬氷が緩んで、そっと空の向こうの春を呼ぶかのような。それがもっと見たくて、皐月は彼の傍に居ようと決めたのだ。


  * * * * *


「……皐月」

「なあに?」

「おなかの――僕たちの娘が産まれるのは、今年の七月、で良かったかな」

「うん、そう。今が一月だから、ちょうど半年後位かな。順調にいったらね」

「……」

「何、啓一郎さん」

「まだ完全に決めたわけじゃないし、君の意見を聞いてからでないと何とも言えないけれど。……子供の名前、なんだが」

「考えてくれたの?」

「……ああ。文月生まれで、文乃ふみのというのは、どうかな、と思って。ちょっと、今の子供には堅い名前かもしれないが――」

「良いじゃない。私は好きだな、その響き」

「そうか……良かった、気に入ってもらえたなら。――君、の……」

「うん?」

「皐月という名前が、何というか……君の生まれた季節が、君そのものを表しているみたいで。素敵だと、思ったんだ。だから……ええと――」

「顔、赤くなってるわよ」

「――皐月っ」

「ごめんってば。……でも、私の名前、そんな風に思っててくれたのね。ありがとう」

「お礼を、言われるようなことじゃない」


  * * * * *


 膨らみを見せ始めたおなかを右手で撫でながら、皐月は、文乃、と唇に名前を乗せる。半年後に顔を見せてくれるはずの娘の名前を。啓一郎はあくまで仮のものだと言っていたが、呼べば呼ぶほど、その名前がしっくりくるから不思議だった。

 今はまだ窓外に広がるのは、曇りがちの空と、冷たい風、寒さに凍える梢ばかり。けれど、おなかの子が外に出てくる頃にはきっと、高く青く晴れた空と、光をまぶして広がる濃緑が広がっているに違いない。明るく、楽しく、他の人を笑顔にさせてくれるような夏の頃。

 そんな女の子に育ってほしい、と。皐月は願いを込めながら再度、文乃、と名前を呟く。

 自分たちはまだまだ発展途上の親だけれど。それでも啓一郎と二人、良い親になれるよう頑張るから。だからどうか、あなたも私たちのことを見ていてね。

 名前に次いで小さく呟いた言葉が、文乃にも聞こえたのだろうか。おなかの奥からじんわりと暖かさが広がる。皐月にはそれが、娘が返した答えのように思えてならなくて。瞳に滲んできた涙を必死で拭った。


 

 ――うん、ありがとう、お母さん、お父さん。

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毎日家族。 ねこK・T @transparent_cat

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