黒ワンピースを脱いだ後

「――ほら、文乃ふみの。お塩」

 玄関先、肩越しに母は振り返りながら言った。そっか、忘れてた。ひとりごちながら、わたしは鞄から塩の包みを取り出す。ほんの指先ひとつまみ、くらいの塩だったけれど、着ている黒のワンピースに振りかけると驚くくらいにその白い色は目立って見えた。

 母はわたしの様子を見止めてから、玄関ちゃんと閉めてきてね、とだけ言い残して家の中へ。ちなみに父は一緒じゃない。わたし達よりも一足早く祖母の家を後にしている。だから、家の内側には既にいくつも明かりが点っていて、閉まりかけの扉の向こうからは暖房の暖かい空気が漏れてきている。全部父がやってくれたに違いない。

 玄関先で吐き出した息は暗い夜空へと昇って、するりとその白さを溶かして消えてゆく。

「文乃、いつまでも外にいたら凍えちゃうわよ。中あったかいから、早く入んなさい」

「はあい」

 母の声に頷きを一つ。そして寒さを振り落とすように身震いをしてから、わたしは玄関の扉を開けた。黒のワンピースから振り落とされた白い塩のかけらは、まるでさっきの吐息のように、暗闇の中に溶けてあっという間に見えなくなった。


  * * * * *


 さっきまで着ていたワンピースを二階の自室で脱いで。居間へと降りてみれば、そこには母しか居なかった。母もまた、着ていた黒のツーピースは既に脱いでいる。代わりに着ているのは少しくたびれたセーターとジーンズ、動きやすさを重視した、母の普段着。

「お父さん、は?」

「先にお風呂入ってるわ」

 居間へやって来たわたしを振り返ることもなく、見るともなしのテレビを耳だけで聞き流しながら、母は洗濯物を畳んでいる。その量は結構多そうだった。

 ――そういえば、ばたばたしていて、洗濯物をゆっくり畳む暇もなかったんだっけ。

 ここ数日のことを思い出しながら、わたしは母の隣に座る。何となく、手伝いの一つでもしなくちゃいけないような気がしたのだ。罪悪感にも似た思いが小さく胸の中で跳ねる。――そう、ここ数日の間、忙しくしている両親を横目にしつつ、わたしは何もすることが出来なかったのだ。

「お母さん、手伝う」

「……あら、珍しい。文乃からそんなこと言ってくれるなんて」

「たまには、これくらい、しないと」

 洗濯物の小山の中から、わたしは手近にあるベージュ色を引っ張り出す。父のトレーナー。

「文乃」

 ええとまず、両腕の部分を畳み込んで、最後に前みごろの部分を後ろに折り込んで――慣れない手伝いにとまどいながら、大きなトレーナーと格闘していると、母がぽつんとわたしの名前を呼んだ。

「なあに、お母さん」

「ありがとね、今日。学校まで休ませちゃって……でも、文乃もお葬式に出てくれて、おばあちゃん、喜んでると思う」

「――そんなの、当たり前じゃない」

 今日は父方の祖母のお葬式だった。三日前に倒れた祖母は、そのまま意識を取り戻すことなく、運ばれた病院で息を引き取ったという。といっても、わたしはその場所に居なかったから、全て両親から聞いたことだ。そして今日の昼間がお葬式だったのだ。 

 白い花に飾られ、遺影の中で微笑む祖母の顔を思い出すと、自然、目頭が熱くなってきて。涙をこぼさないようにわたしは瞳を乱暴にこすった。それでも手の甲から滑り落ちた涙が、父のトレーナーの上で跳ねた。ベージュの色がそこだけ色を濃くする。

 祖母に沢山会っていたわけではない。中学に入ってからここ二年、多分、祖母に会った回数は片手で足りてしまうだろう。けれど、思い出すのだ。頭を撫でてもらったときのしわしわの手や、わたしの名前を間延びしながら呼ぶ声を。そうした些細なことを思い出すたび、動きを止めた祖母の――まるで蝋人形のように見えた棺の中の身体、そして遺影の中の作りものめいた笑顔との大きなギャップを感じてしまって。

 大きなギャップは渦潮のようにわたしの中をかきまわしては、瞳に涙を呼ぶのだった。この渦潮は悲しさから来るものなのか、わたしにはよく分からない。言うならば、ギャップ、としか。

 わたしは再び瞳をこする。

「だって……おばあちゃんには孫、わたししか居ないん、だもん……っ、く」

「文乃。そんなに乱暴に目をこすったら痛めるわよ。お父さんのトレーナーも染みだらけになっちゃうし」

 言葉と共に隣の母の手から差し出されたのは、見慣れた白いタオル。よく洗面所にかかっているそれは多分、洗濯物の山の中から取り出されたのだろうと思う。

「……ほら。ありがとうね、泣いてくれて」

 わたしはありがたく、そのタオルを使わせてもらうことにする。瞳をぬぐいながら聞いた母の声は柔らかく、それでいてどこか細かく震えているような気がした。決して泣いているわけではないし、その洗濯物を畳む手も止まってはいない。けれど、もしかしたら、わたしと同じように母も泣きたいのかもしれない、わたしはそんなことをちらりと思う。

 ――そいえば、お母さんも、お父さんも……泣いてなかったな、一回も。

 祖母が倒れてからのここ数日、今日のお葬式の最中、そしてお葬式が終わってから、今まで。泣きたいのかな、と感じることはあっても、実際に母が涙をこぼしている姿は一回も見なかった。

 父に至っては、いつも通りの堅い表情を崩してすらいなかったように思う。葬儀屋さんや親戚にてきぱきと準備の指示を出していたし、喪主としての挨拶のときも、その声はぶれることなく空気に乗っていた。

 祖母の家を、私たちよりも一足早く出るときも同じ。いつも通りの早足で、ぴんと伸ばしたままの背中で。先に帰ってるな、と、いつも通りの堅い声色で言い残して――そう、朝に仕事へ向かうときのように、いつも通りの歩き姿で。

 父のことを考えていたせいか、ようやく胸の中の渦潮が収まり、わたしは目元のタオルを外した。母に向かい合うと、ねえ、とそっと呼びかける。

「お母さん達、泣いてなかったね。……お父さんは、自分のお母さんが死んじゃって……泣きたくならなかった、のかな」

「お葬式のとき?」

「……それも、だし。ずっと」

 母はわたしの言葉に、複雑な表情を見せた。苦いものを口に含みながらも、平気だよ、と言ってみせるかのような。

「文乃には見せてないだけ、で。私はこっそり泣いてたんだけど、ね。おばあちゃんには沢山優しくしてもらったし……だけどね」

「だけど?」

「そのおばあちゃんがね、言ってたから。お葬式のときには、身内は泣いちゃだめよ、って」

 母が告げた言葉は、祖母の声で頭の中に響いた。わたしの名前を呼ぶときと同じ、ちょっと間延びしたようなやわらかいその声で。それはまた、瞳に熱さを呼びそうになって。わたしはタオルを握りしめる。

「ほら、お葬式は、参列してくれた他の人が、亡くなった人と最後のお別れをするものでしょう? なのに身内の――今日の私たちみたいな立場の人たちがわんわん泣いてたら、最後のお別れに集中できないじゃない。喪主は他の人たちを気遣うものであって、気遣われちゃだめ。だから、お葬式のときは、悲しくても、背筋を伸ばして頑張って座ってらっしゃいって。……おばあちゃんが、おじいちゃんのお葬式のときに教えてくれたことよ」

 父方の祖父はもう十年も前に亡くなっている。当時幼稚園かそこらのわたしに、祖父の記憶は無い。当然、そのお葬式の記憶も、祖母の言葉もまた。けれど、母の言葉は決して嘘ではないことだけは分かる。

 気付けば、こらえていたはずの涙は瞳からいくつも落ちていて。タオルに染みを作っていた。伸びてきた母の手が、わたしをなぐさめるようにぽんぽん、と頭を叩いた。

「教えてもらったとき、お父さんは居なかったけれど……きっとお父さんも、おばあちゃんから同じことを言われてきてると思うの。だから、そのおばあちゃんのお葬式で泣くわけにはいかない、って。お父さんも頑張ってたんじゃないかなって。……私はそう思うな」

「っく、おばあちゃんの家を出るときも、すごく、いつも通りだった、けど……じゃあ、それ、も?」

「お父さん、真面目で、ちょっとだけ格好つけさんだから。泣きたいの我慢してたんじゃないかな。いつも以上に堅くなってたわね」

 そのときのことを思い出したのか、そっと母は微笑んで見せた。――あの堅い表情と歩き姿を見て、母はそんな風に感じていたのか。わたしには、いつも通りの父の様子としか感じ取れなかったのに。母の洞察力というか、父との付き合いの深さを感じさせられるようで、わたしは小さく息を飲んだ。

 そして母の顔から、瞳を畳みかけの洗濯物の山にやれば、いつの間にかその山は大きさをずっと小さくしていた。話をしつつも、母はほとんど手を止めていなかったらしい。手伝いをするためにここに座ったのにこれじゃ意味がない。目元のタオルを床に下ろして、ずっと膝の上に置いたままの父のトレーナーへと手を伸ばした。涙をこぼすのはぐっとこらえて。

「文乃、それ畳んでくれたら、こっちは良いから。お父さんそろそろお風呂から上がる頃だし、お風呂入る準備しておいで」

「でも、まだわたし全然畳んでないけど……」

「いいわよ、今日は許してあげる。今度は自分の服くらいはちゃんと畳んでね」

「……はあい」

 ようやく畳み終えたトレーナーを膝から下ろすと、母の言葉に背中を押されるように、わたしは立ち上がった。


 自室でパジャマとバスタオルとを準備して。お風呂場へと向かえば、磨りガラスの奥からはまだ水音が響いてきていた。父はまだお風呂から上がっていないらしい。脱衣かごにパジャマを下ろせば、隣には父のパジャマと、その上に置かれた黒縁の眼鏡があった。 

 ――そういえば、いつもよりも長風呂だなぁ、お父さん。

「お父さん、もう少しでお風呂出る?」

「文乃か。ああ、ごめんな、あと十分くらいで出るから。支度だけして居間で待ってなさい」

 呼び声に答えるように、磨りガラスには黒い影が映り、ゆらゆらと揺れる。ガラス越しに聞こえてきた返事の声は、いつもの堅いものと違うような気がしてならなかった。まるで、水溜りにインクを落としたときのような、水ににじむ声。それはさっき母から、お父さんは泣くのを我慢しているのよ、なんて言葉を聞いたせいなのだろうか。

 ぱしゃん、と、ガラスの向こうで、跳ねるような水音がした。

「文乃? どうした」

 聞き間違いじゃない。問いかけてきた父の声はいつもと違う、震えを語尾に残していた。その声に、わたしは思い出す。母の言葉を。――文乃には見せてないだけ、で。私はこっそり泣いてたんだけど、ね。

 もしかしたら。父もまた、わたし達には見られないように、一人になれる場所でそっと泣いていたんだろうか。たとえばこのお風呂場。

 だとしたら、父がわたし達を残して祖母の家を後にしたのは、一人になりたかったからで。こうやって一人でゆっくりと泣きたかったからなのだろうか。真面目でいつでも冷静、そんな父の、いつもとは違う一面がそこには見えてくるようだった。その発見は、父の新しい面を知れて嬉しい、ただそれだけではなくて、胸の奥をぎゅうと締め付けてくる。

「……お父さん」

「うん?」

「今日は、お疲れ様」

 わたしはそうとしか言えなかった。

 悲しいの? 泣いているの? そんな質問は不躾だと思ったし、我慢できて凄いね、と言うのも違うと思った。けれど、悲しみを我慢していた父に対して、何か一言、暖かい言葉を伝えたかったのだ。一瞬のうちに上手い言葉はどうしても見つからなくて、結局はありきたりなものになってしまう。

「――……」

 返事までは一拍、間が落ちた。それもまた、いつもの父の様子とは違うものだった。

「ありがとう、文乃。そこは冷えるから、居間で待ってなさい」

「……分かった」

 パジャマだけを残して、わたしは脱衣場を後にする。向かったのは、父に言われた居間ではなくて二階にある自室だった。扉を勢い良く開けて、部屋の電気も点けないままにベッドへと倒れこむ。

 ――出るまであと十分くらい、ってお父さん、言ってたけど。

 頭を枕に埋めて、カバーを握り締めながらわたしは思う。きっと多分。父がお風呂から出てくるのは十分よりも後のことだろう。――いや、そうであってほしい。お葬式で我慢した分、一人のときくらい、ゆっくりと泣いたっていいじゃないか。


 薄暗い部屋の中にあるのは時計の秒針の音だけで。その静けさのせいか、両親の震える声が何度も何度も頭の中に響く。それはかつての祖母の呼び声や、白い花や、遺影の姿までも引き寄せて。さっき収まったはずの渦潮が胸の中で暴れだす。

 伏せた頬に当たる枕カバーが、じんわりと水気で湿るのを感じた。寝るときにこれでは気持ち悪いし、タオルを持ってこなきゃ、とも分かっているのだが。わたしは身体を起こす気にはどうしてもなれず、しばらくその姿勢のままで固まっていた。そして、涙でにじんだ頭の中でぼんやりと言葉を浮かばせる。

 一人で泣くって、こういうことなのかな、と。

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