それは春待ちの風に似ているのだと

「恵方巻と同じなのかもしれないな」

 夕飯後に、皆でテレビを見ながらお茶を飲んでいたときだった。向かい側に座る父から漏れたそんな言葉に、わたしは首をひねる。

 ――恵方巻って、えっと……。

 湯飲みを口元へと運ぶ手を止め、一瞬頭の中をかき混ぜてようやくわたしは思い出す。先月の終わり頃から、よくスーパーやコンビニで売られていた太巻きのことを。

 切らずに長いまま、ある方向を見ながら食べると良いことがありますよ。お店には、そんな恵方巻きの宣伝文句が沢山踊っていた。貼紙だけでなく、売り子のおばさまたちも、大きな声で宣伝をしていたのだが、どうもわたしは胡散臭いような気がしてしまって。逆にその文句が耳に響いて仕方なかったことまで思い出す。

 けれど、その恵方巻きが一体何と同じだというのだろう? わたしの不思議そうな表情を読み取ったのか、隣に座る母が、あっちあっち、とテレビを指差した。

『――はい、今日は新宿の○○デパートに来ていますっ。うーん、良い香りがそこかしこからします!』

 女性レポーターの軽やかな声と共に映し出されているのは、どこかのデパートの地下だった。いわゆるデパ地下と言われる、食品売り場の様子だ。その中でもお菓子を売っている一角なのか、並ぶ店のショーケースはどれもカラフルで明るい、目を引くものだった。どの店前にも女性が立ち並び、眉の間をぎゅうと寄せながらケースの中に並ぶ品物――チョコレートを検分している。

 そのテレビに映る様子を見て、ようやくわたしは先ほどの父の言葉の意味に気付く。

「バレンタインが、恵方巻と同じってこと?」

 湯のみ茶碗を口元に運びながら父は頷き、わたしに肯定を返した。――けれど、待てどもその後の言葉は父から出てこなかった。説明は終わっただろうとばかりに。しかしわたしには、何故それがイコールになるのか全然分からない。頭の中は疑問符で一杯だ。もう、ちゃんと説明してよお父さんっ。頬を膨らませながら呼びかけてみるも、父は涼しい顔でわたしの声を受け流すだけだ。

 そんな様子がおかしいのか、母が笑うような声でわたしの名を呼んだ。文乃ふみの、と。

「なあに」

「あれじゃないかしら、企業戦略の結果っていう」

「……余計に訳が分からないんだけど……」

 更に疑問符を浮かべ問いかけたわたしに、だからね、と母は言葉を継いだ。横目でちらりと見た父は、後は任せたとばかりにテレビの方へと身体を向けていた。

「節分の恵方巻もバレンタインデーのチョコレートも、会社が、自分のところの商品を買って下さい、って広めた人工的な習慣じゃないかしら、ってこと」

 ――ああ、そっか。

 ようやく腑に落ちて、わたしは大きく頷いた。まるでパズルのピースがぴったりとはまったときのような、すっきりした思いが頭を巡る。そういえば、恵方巻が流行り出したのもここ最近だったような気がする。確か、コンビニ辺りが競って売り出したのではなかったろうか。贈り物がチョコレートと決まっているのも日本くらいで、外国ではもっと贈り物の幅は広いらしい。

 視線を再び移すと、テレビでは未だ、バレンタインの特集を映し続けていた。濃い茶色をとろりとかけられたチョコレートケーキ。白い粉砂糖をまぶしたトリュフ。次々と切り替わるチョコレートはどれも甘く、美味しそうで。わたしは思わずつばを飲み込んだ。

 商品が一通り映された後、レポーターはいかがですか、と品物を見つめる女の人にインタビューを始める。問いかけられた女性は、やわらかな、幸せそうな表情で唇を開く。本命の人に贈るんです。彼女の声はふわりと柔らかく溶けそうで。まるで先ほどのチョコレートのようだった。その嬉しそうな様子を眺めていると頭の中で、ふっと言葉が浮かぶ。

 ――たとえ人工的だったとしても。でも。

 浮かんだ言葉はくるりと頭の中を一回りして、唇から飛び出した。

「……でも、良いんじゃないかなあ……企業が自分のところの商品を買ってほしいから、って始めたことだったとしても。だって、贈られた方はやっぱり嬉しいでしょう? 告白とか、感謝するきっかけにもなるんだろうし」

 だって、チョコレートを選ぶあの人たちはあんなに幸せそうだし。続けようとした言葉は、父の言葉に遮られる。

「確かにそれも一理ある。……だけど最近は、それに踊らされて、あんまりにも気持ちを軽々しく伝えすぎているようにも思うけどな。――ごちそうさま」

 言葉と共に、父の湯飲みが置かれて。父は食堂から自室へと向かう。その背中をわたしは何も言えずに見つめていた。隣に座る母は、しょうがないわねえと呟きながら、置かれたままの湯のみを流しへと運んでいった。

 今までわたしも毎年、チョコレートを買っていたけれど。それは父にとって迷惑なものだったのだろうか。父の堅い声に、わたしはそんなことを思う。

「……お父さん、バレンタイン嫌いなのかな」

 わたしの呟きに、母は流しで洗い物をしながら、くつくつと笑いをこぼす。

「なあに、お母さん」

「うーん。お父さんってば不器用さんねえ、って」

「……は?」

 その意味がつかめず問いかけるが、母は笑うばかり。父といい母といい、今日はこんなのばっかりだ。母に言葉の意味を問うのは諦め、ため息をつきたいような気分のまま、わたしはテレビへと視線を移した。

 テレビの画面は、ちょうどバレンタインの特集から普通のニュースへと切り替わるところ。最後に映されていたのはチョコレートの小箱だった。箱に十字に巻かれていた紺色のリボン、その深い色が瞳に焼きついたような気がして、わたしは思わず瞳を閉じた。


  * * * * *


「文乃ー! 遅れるわよ!」

 階下の台所から響く声に、わたしは部屋でみつあみをしながら言葉を返す。あとちょっとだし、もう行くってば! けれど返事が聞こえていないのか、母は同じ言葉を何度も繰り返す。その声にわたしも何度も同じ返事をしながら、両手をせっせと動かし続けた。ようやくみつあみを結び終え、鏡の前でくるりと一回転。ブレザーにもプリーツスカートにも汚れが無いことを確認してから、机の上の鞄を取った。

 階段を下りていると、玄関の方で扉が閉まる音。わたしよりも一足早く、父が家を出たのだ。殆ど家を出る時間は同じなんだから、ちょっとくらい娘を待っててくれたっていいのになあ――そんなことをちらりと思う。

 台所に顔を出すと、母がお弁当の包みを持って待っていた。

「ほら、お弁当。中身がずれないように気をつけなさいね」

「分かってる、毎日のことだし慣れてるよ」

 母から手渡された水色の包み、それを鞄の底にしまう。お弁当の中身がぐしゃぐしゃにならないように、包みの周りに教科書や筆箱をぴっちりとセッティングした。鞄の中にきっちりとこれだけ詰めれば、たとえお弁当箱が動きたいと考えたとしても、それは不可能だろう。よし、ぴったり。小さな達成感から、笑みが唇に浮かぶ。

「じゃあ、行ってくるね」

「あ、待って文乃」

 蓋をした鞄を右手に、玄関へと向かったわたしの背を追いかけるように。慌てたような母の言葉が被さってきた。何か忘れ物でもしただろうか。わたしは振り返る。

「なあに? 遅れちゃうよ」

「もう、遅れるのは自分自身のせいでしょうが。……いやね、今日の夕方に駅前にでもチョコレートを買いに行こうと思うんだけど。文乃はどうする? 来る?」

「――は?」

 母の言葉に、わたしは思わず高い声を上げた。

「チョコレートっ? 誰に買うの?」

「やあね、お父さんに買うに決まってるじゃないの」

 こともなげに、さらりと。母から飛び出した言葉にわたしは固まった。

 ――ちょっと待って、ちょっと待って。

 頭の中では、昨晩の父親の言葉やしぐさがゆっくりと、映画のワンシーンのように流れてゆく。――だけど最近は、それに踊らされて、あんまりにも気持ちを軽々しく伝えすぎているようにも思うけどな――父の告げた言葉は、わたしにはバレンタインを否定しているものとしか受け取れなかったのに。何故母は、不必要なものをわざわざ買うのだろう。

「……昨日、あんな風に言ってたじゃない、お父さん。嫌いなんでしょ、バレンタイン。買う必要なんて無いと思うけどな」

「え?」

 きょとん。そんな表現が似合いそうな表情を母は一瞬見せて。そしていかにもおかしそうに笑い出す。

「何だ、そんな風に思ったの? 違うわよ、文乃。嫌いなはずないじゃない。昨日も言ったでしょ?」

 けらけらと母は笑いながら、指を一本、唇の前に立てた。お父さんには内緒ね、と。秘密を告げるときのポーズだ。父は既に家を出たから聞かれることはないけれど、自然、母の声はひそめられるように、小さく、小さくなる。

「あれはちょっと照れてるだけよ。だって、毎年ちゃんと全部、美味しそうに食べてくれるもの」

「……嘘、だってそんなの見たこと無い」

「嘘じゃないわよ。確かに甘いの余り好きじゃないみたいだけど、それでもね。冷蔵庫にしまって、毎朝一つずつ食べてから家を出るのよ、お父さん。もしかしたら――文乃には食べてるとこ見られたくて、隠してるのかも、ね」

 その様子を思い出したのか、ちら、と後ろの冷蔵庫を見ながら母は嬉しそうに笑む。わたしはその表情から、父の姿を想像する。そう――母の言葉どおりわたしは、渡した後、実際に父がチョコレートを食べている姿は見たことがなかったのだ。

 冷えた小箱を取り出して、眉を寄せながら小さい茶色を口に含んで。きっと、口を動かしながらも箱のリボンはきっちりと結びなおしてゆくのだろう。冷蔵庫の扉を閉めながら言うのはきっと。美味しい、でもなくて。ありがとう、でもなくて。きっといつもと変わらない、「行ってくる」なのだろう。

 ――ただ、何時もと違って、きっと。少しだけ、余所見をしながら。言葉を告げるのだろう。

 見たことなんて無いはずのその様子が、ありありと目の裏側に浮かび上がる。母の嬉しそうな顔と言葉が、わたしのそんな勝手な想像を裏付けているような気がしてならなかった。頬が何だかぴくぴくしているのは、笑いたいせいなのか、嬉しいためなのか。

 ――ああ、もう!

「――学校行ってくる!」

 大きな声を出してきびすを返し、玄関へと走り出したわたしを、結局どうするの、と母の慌てた声が追いかける。わたしは振り返らずに扉を開けて、大声で返事をした。行くに決まってるじゃない、後でメールするから! そしてそのまま家から飛び出して。わたしの足は駆け足のリズムを刻む。

 目標は、路地の向こうへと消えていったはずの父の背中だ。大丈夫、まだ家を出て数分くらいだ。このくらいだったら、駅に着くまでに追いつける。

 今日は父と一緒に行きたいと思ったのだ。道なりに、チョコレート好き? なんて。そんな問いをぶつけたくて仕方が無かった。父は一体、どんな表情をするのだろう。わくわくした気持ちは、まるで悪戯を仕掛けるときのそれ。

 言葉を告げたなら、きっと父は眉を寄せて、不審そうな目でわたしを見るのだろう。けれど。その目はきっと、どこか別のところを見ていたりするのだろうから。

 駆ける道の向こう、段々と見えてきたのは灰色のコートに、紺色のマフラー。広い、父の背中だった。首に巻かれた紺色を揺らす風は、如月の冷たいものだ。けれどその風は冷たさだけではなくて、暖かさを内側に秘めているような気がした。堅い表情や言葉の中に、けれど、照れや嬉しさがほんのりと透けて見える父の姿にも似て――そこまで言ったら大げさだろうか。


 さあ、あと一歩で追いつく。さあ、声をかけよう。

 悪戯心がふつりと笑みを唇へと載せて、言葉を発した。

「――お父さん!」

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